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「本」への信頼——書評『本屋で待つ』

 本以外のものも売る「複合型書店」が増え始めたのは、2000年代中盤から2010年代初頭あたりのことだろうか。代官山蔦屋書店がオープンしたのが2011年末とのことで、その辺りからこの複合化の勢いが加速していったようだ。1994年生まれの私が意識的に本を読み始めた頃にはもうあったことになるのだが、いかんせん当時の行動範囲は狭く、大体を近所の街の本屋か自転車で20分弱のアルカキット錦糸町内のくまざわ書店、あるいはこれまた近所のBOOKOFFで済ませており、渋谷や新宿などの場所に出かける機会はほとんどなかったから、その存在を意識するようになったのは大学に入って少し経ってからのことになる。

 それでも当時は物珍しく思っていたのだが、そこから10年も経たないうちに、TSUTAYAのような大手チェーンのみならず、小さな本屋でもコーヒーやお酒を提供したり、文房具などを域を超えたかなり意外な雑貨を取り扱ったりと、様々な複合化が急速に進んでいるように感じられる。

 なぜ複合化が進んでいるか。本が売れなくなったということももちろんあるが、本の利益率の低さが根本的な要因だろう。一般的に、本の利益率は20%程度と言われている。日本政策金融公庫の調査(2017年)によると、一般小売業の利益率の平均は39.1%。いかに本屋の利益率が低いかが分かる*1

 そこには当然、委託販売制度によって在庫のリスクがないことなどが要因として挙げられるのだがそれは措く。ただでさえ売れなくなっているのに利益も小さい。加えて、雑誌はまだしも、書籍というものは商品単体で見れば基本的にリピーターを作れない。同じ本を何冊も買う人はそう多くはないし、本はそうそう壊れるものでもない。故に元来、本屋の売り上げの土台となっていたのはむしろ雑誌の方であったのだが、その雑誌が書籍以上に低迷している。言うなれば、いま本屋は定期収入がどんどん小さくなっている状況だ。

 だとすれば、より利益率が高く、かつリピーターも作りやすい飲食に手を出すのは分かりやすい。また、座ってゆっくりできる場所を提供するという点で、本との相性は間違いなく良い。それに、本屋は基本的にそんなにうるさくもない。なるほど、うまくできていると思わされる。

 一方で、あまりにも「コーヒーが飲める」「ご飯が食べられる」「〜も売っている」「〜もできる」ということばかりがフィーチャーされていると、果たしてこれでいいのかな、と違和感を抱くこともある。

 もちろんそれは本屋としての経営方針がシフトして、必ずしも本を主軸に置かないで他の本屋と差異化していく、という生存戦略なのであろう。

 しかし私は、はて、そこまでしなくちゃいけないか? と思ってしまう。特に、カフェに未購入の本も持ち込める店もある、といった話を聞いたときは、いよいよ本を商品ではなくてカフェに誘導する道具として扱っているようにも思え、なんだか憐れに思えてきた。

 第一、水は本にとって天敵のようなものではないか。購入済みの物であれば購入者がそれをどう使おうが自由だから構わないが、しかしまだ商品である物に対してその天敵の接近を店側から推奨する……。そんなことがあっていいものか。「多くのカフェ併設型書店が提案している、販売用の本をカフェ席に持って行って、読んだあとは元の場所にも戻さなくてもよいというサービスは、明らかに過剰だし、本の紙切れ化を推奨しているようにしか僕には見えない」という山下賢二の言葉に、私は全面的に賛成する*2*3

 しかしながら、少なくとも今のビジネスモデルのままで本屋を存続させていこうとするならば、複合化はもう避けられないだろう。私は複合化、それ自体を批判する気はない。他の業種で利益を確保してそれで本屋を継続できるのならば、それは良いことなのかもしれない。ただ、本屋の魂までは売って欲しくない。少なくとも私は蔦屋書店をはじめいくつかのカフェ併設型の本屋に足を運んだことがあるが、たしかに洒落た空間だなとは感じたものの、正直なところほとんど、そこにある本を見よう、探そうとはならなかった。というより、探しにくかったのだ。結局これは「映え」ではないか、という印象を拭えないでいる。

 その点、広島の郊外にある「ウィー東城店」はあまりにも独特だ。本屋であるから本はもちろんのこと、CD、たばこ、化粧品を販売しているほか、美容室、コインランドリー、年賀状の宛名印刷サービス、写真の焼き増し、そしてパン屋まである、複合型中の複合型、とでもいうべき本屋だ(ここにもカフェがあるらしいが、果たして未購入の本を持ち込めるかどうかは確認できていない)。本書『本屋で待つ』(夏葉社)はその元店長、現代表取締役としてこの店を作りあげた佐藤友則によるエッセイだ*4

 なぜウィー東城店はこのような店になったのか。そこには、佐藤が本を主力にした万屋の生まれであること、都市ではなく地方の郊外の店であることなども要因としてはあるだろう。もちろん、本だけの利益ではなかなかやっていけないという抜き差しならない事情もある。

 しかし、それでもその経営の根幹にあるのは「本」だ。いろいろな物を売ってはいるが、ここは紛うことなき本屋なのだ。

 なぜ本屋がこのような多岐にわたることをできるのか。佐藤はその理由を「本には信頼があるからだ」と言う。

 ウィー東城店も〔祖父が始めた佐藤商店と〕同じで、本のほかに、文房具、タバコ、化粧品、CDを取り扱っているが、主軸は本だ。

 本がもっとも売上が見込める商品だからではない。そうではなくて、本がもっとも信頼される商品だからだ。

 モバイル端末がこれだけ普及した現在では必ずしもそうではないが、ある時代まで、人々はなにか困ったことがあれば、本を開いた。そのころの書棚には、さまざまな辞書や家庭医学事典、手紙の書き方といった本が並び、料理が好きな人であれば、そこにたくさんの料理書、旅行を趣味とする人であれば、そこにいろんな地方、外国の旅行書、ロードマップ、時刻表が加わったはずだ。

 そういうふうに、本は人々の生活に根づき、読む人にいろんなことを教えた。実用的なことはもちろん、生き方や、歴史、社会のこと、恋愛のこと、性差のこと、問う人がいれば、だれかがその問いに答えた。(64頁)

 確かに、本屋とはある意味でなんでもある場所だ。先の年賀状の宛名印刷サービスだって、書店には年賀状作成のムックや年始の挨拶集のような本があるし、美容室であれば美容本、ファッション関係の女性誌がある。当然写真関連本だってあるし、パンの作り方の本もある(このパン屋は、かつてこの店でパンのレシピ本を買って座右の書にしてきた女性が作った)。他にも、参考書であったり、ペットの飼い方であったり、健康本であったり、様々な本がある。

 そして、それらの本は、少なくともかつては人々の情報インフラの代表格であり、内容の硬軟はあれど、やはり本になっている時点でそれなりに信頼が置けるものであったはずだ。だから、「本屋に行けばなんとかなる」という感覚も生まれうる。そういったお客の認識に応えようとした結果、ウィー東城店はこのような複合店になっていった。

 面白かったのは、本屋の「ライバル」として多くの人がスマートフォンやAmazonのようなものを挙げがちな一方で、佐藤は、特に地方においてのライバルとしてコンビニエンスストアを挙げていることだ。

 大型ショッピングセンターが乱立し、本も食べ物もお水でさえもインターネットで購入できる社会になってから、町には困ってる人が増えたように感じる。

 若者たちにとっては、すべては便利になっているのかもしれない。けれど、長時間の運転に自信がなく、パソコンもスマートフォンもつかえない人たちにとっては、世の中は日に日に不便になっているように思う。

 その意味でいえば、東城のような田舎では、本屋の最大のライバルはコンビニエンスストアになるのかもしれない。

 どちらも、店として大きすぎず、なんの用事がなくてもフラッと立ち寄ることができる。

 地域におけるほっとする場所。あるいは、とまり木。(98頁)

 言われてみればコンビニもある程度の雑誌や本を扱っているし、公共料金の払込やチケット購入など、さまざまなサービスを提供して大きくなった。つまり、主力にしているのが本なのか、飲食物・雑貨なのかの違いしかないとも言える。「本屋に行けばなんとかなる」と先に言ったが、「とりあえずコンビニに行けばあるんじゃないか」という認識を、きっと多くの人が持っていることだろう。この二つの共通点は「コミュニティーの核」になれることだと言う。近年は大型ショッピングセンターが乱立し、そしてネットショッピングも普及した。ここで言われているように、確かに便利な世の中ではあるが、当然のことながらそれはそれらのものを利用できる人間にとっては、というものだ。すなわち、車の運転が難しく遠出ができない、あるいはネットを使いこなせない高齢者などにとっては、かえって不便になったのかもしれない*5

「店として大きすぎず、なんの用事がなくてもフラッと立ち寄ることができる」

 そう。私がいま、いわゆる大型書店よりも街中にあるワンフロアの中くらいの「普通の」本屋に関心を寄せるのも、同じような理由からだ。出版業自体が落ち込む中、どうすればこのような書店が可能なのだろうか。

 佐藤は「本には信頼がある」と言った。私もそう思う。いや、そう信じたい。しかし、過度のファッション化は山下が言う「本の紙切れ化」に繫がる。最早、本屋自身が一番本を信頼していないのではないか。だったら本、本屋ってなんだろう。改めてそう考えさせられる本だった。

 付言すると、私はウィー東城店を理想の本屋だと言いたいわけではない。凄いなと思いつつ、いややはりそこまではやり過ぎじゃないのか? と思う部分がないわけではない。しかしそれは私がその地域、あるいはそのような地方に住んだことがない人間であるからそう感じるのであって、実際に住んでみたら「とても良い本屋」と思うのかもしれない。それは分からない。

 結局のところ、その地域や住民によって良い本屋の形とは変わるものであり、絶対的かつ具体的な一つの形式として「理想」と呼べるものは本屋にはないのではないか。そうではなく、大事なのはやはりその精神だ。結局、方法論だけを真似たって仕方ない。最短距離はない。永遠に辿り着かない「理想」を、それでも絶え間なく目指す姿勢、それが肝要だ。いや、それしかないのかもしれない。

 そしてこれは人間同士の繫がりについても言えることではないか。佐藤が「コミュニケーション・エラーというのは、十中八九、言語で起きるのだ。どういうことかというと、言葉とは自分の気持ちを伝えられる便利な道具であると同時に、誤解を招き、人々の心と心を遠ざける欠陥品でもある」(147頁)と言っていることと、緩やかに繫がっているように思う。

 いま、多くの人々はネット上の「言語」によって連帯しようとしている。お互いを理解、共感し合える者は手を結び、それを理解できない者は時に「敵」として攻撃、糾弾する。共通の「敵」を攻撃することでまた、繫がりを確認する。そんな様相を呈しているように私には思える。しかし外から見ていると、「敵」同士はもちろんのこと、「味方」同士であっても、言葉だけでのやり取りのなかでかなりのディスコミュニケーションが起きているように思える。にもかかわらず、それを棚上げして分かったことにした上で、ただ言葉だけが上滑りして乱射されている。そんな印象を受ける。言葉とは欠陥品でもあるという意識が微塵も感じられない。なぜそこまで言葉を信頼できるのだろう。とても危うく思う。

 他者とは絶対的に理解できないものだ。ましてや、言語だけを使っていてはかえって遠ざかるくらいではないか。言語の外まで含めて、絶対に理解できない他者を分かろうとすること。その不可能性を追求することでしか、人と人は繫がれない。辛い道だ。しかし、それを受け容れずして手っ取り早く相手を理解しようなど、あまりにも虫が良い。いまSNSなどで刹那的に広まる共感があっという間に忘れ去られてしまうように見えるのも、人間が忘れっぽい生き物ということもあるかもしれないが、結局その場限りの言葉で触れただけでそれほど真剣ではなかったということの表れではないのか。私はここ数年、良識を自認しているような作家や読者がそのような振る舞いをする場面を何度も見てきた。「本は遅効性」と、作家や読書家は好んで言う。だが、その「遅さ」を捨てているのは一体だれなのか。

 本屋、ひいては本とは「言語」のものであろうか。たしかに大部分が「言語」によって構成されている。しかし、本屋は人、街が作るものであり、そして本とは「物質」でもある。人と人とのやり取りが、物を介して行われる場。もちろん、だからといって絶対的に他者のことは理解できないのだけれど、それでも分かろうとする絶え間ない生活の営みの場。

 本屋がそういう空間であろうとすればまだ、街の風景として、形を変えながら残っていくのかもしれない。もちろんそれは「本屋」としての魂を売らなければ、という前提でである。

(矢馬)

*1:

https://www.nippan.co.jp/ryutsu-gakuin/n-column-cat2-3/ 閲覧日2023/02/01

*2:『ガケ書房の頃 完全版——そしてホホホ座へ』ちくま文庫、2021年、174−175頁

*3:ちょうどいま読んでいる本に、同じこと、というよりおそらく同じ店に触れたこんな文章があった。

「未購入の本を自由に持ちこめるカフェが併設された店もあった。

 開きっぱなしの頁の上に両腕を乗せ、友達との会話に興じている人。書籍を何冊も積み上げ、やはり遠慮なくガバーっと広げている人。どうみても汚損本となる扱い方をしている客があちこちにいる。あれは大問題だぜ、と出版社の知人が怒っていたのを思い出す。

 だが、これも降ってわいたように発生したのではない。立ち読み客をはたきで追い出したという神話みたいな時代、コンビニが雑誌の立ち読みを歓迎した時代を経て、いまは『水滴まみれのアイスコーヒーを横に置いて座り読みをしてください』というサービスを大手チェーンが導入している。中国・北京で書店巡りをしたとき、客は飲食やメモを自由にしていて、床に座って読む人も多かった。常識は、時代や場所によって変わるのである」(石橋毅史『本屋な日々 青春篇』トランスビュー、2018年、158-159頁)

 つけ加えると、この著者はだからといってこのサービスを素直に肯定しているわけではなく、ここに書店の苦境を見ているように思う。著者は本書中、読んでいるこちらがちょっと気の毒に思うほど、ずっと思い悩んでいるのだ。

 確かに、常識なんてものは時代や場所どころか、その人個人個人によってすら平気で変わってくる。それは分かる。しかし……。きっと私や著者が思い悩む以上に、現場の人間には複雑な感情が渦巻いているのだろう。

*4:正しくは佐藤と島田潤一郎の共著なのだが、大部分は佐藤が話したことであるようだ。「この物語は僕が話したこと九割と島田さんが想像して書いてくれたこと一割で出来ています。その一割がこの物語に命を吹き込んでくれました」(200頁)

*5:元々セブン-イレブンの理念に共鳴していた佐藤が、2017年頃に導入した新レイアウトについて、以前と比べて分かりにくくなったと言っている。ちょうどその頃に私の近所に開店したセブン-イレブンの新店舗はおそらくその新レイアウトなのだが、確かに最初はかなり困惑した。なかなか目的のものを見付けられないどころか、見当も付けづらい。なぜ慣れ親しんだ分かりやすいレイアウトを壊すようなことをしたのか。その理由の一つを佐藤は、セブン-イレブンが「小型スーパー」を目指そうとしているからではないか、と推測した。コンビニはスーパーではないから良いのだ。コンビニはコンビニエンス(便利)の理念を捨ててはならなかった。この事例は、小さな本屋についても大きな教訓になりうるのではないだろうか。(

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閲覧日2023/01/30)