ソガイ

批評と創作を行う永久機関

物事、とりわけ好きな/嫌いなことを論じる難しさ—『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』メモ

 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)は、社会人となってから本を読まなくなってしまったことにショックを受け、3年半後に本を読むために退職、現在は文芸評論家として活動している著者が日本の近代以降の労働史と読書史を並べて俯瞰したうえで、働きながら本を読むためにはどうすればよいのかを考え、提案していくものである。

麦「俺ももう感じないのかもしれない」

絹「……」

麦「ゴールデンカムイだって七巻で止まったまんまだよ。宝石の国の話もおぼえてないし、いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」

絹「読めばいいじゃん、息抜きぐらいすればいいじゃん」

麦「息抜きにならないんだよ、頭入んないんだよ。(スマホを示し)パズドラしかやる気しないの」

絹「……」

麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」

 本書の序章、冒頭で引用される坂本裕二『花束みたいな恋をした』の一節だ。大学時代に出会い、小説や漫画、ゲームなどの趣味が合って交際を始めた麦と絹の二人だったが、仕事が忙しくなって本を読まなくなった麦の姿に、絹は失望するようになる。

 この労働と読書が相容れないものとして描かれている近年のヒット作をとっかかりに、著者は「『労働と読書の両立』というテーマが現代の私たちにとって、想像以上に切実なものである」のではないか、と問題提起する。そこからAmazonの「読書法」ランキングの売れ筋を並べ、「現代の読書法には、読書を娯楽として楽しむことよりも、情報処理スキルを上げることが求められている」とし、「速読法」や「ファスト教養」が求められる背景には、現代の労働を取りまく環境が影響している旨を説明。

 同時に、地方の花火職人の息子で決して裕福ではない麦と、都内出身で親がオリンピック事業にも関わるような広告代理店に勤める絹との間には「階級格差」があることを指摘し、それもまた読書の意思の有無に影響を及ぼしている——すなわち、恵まれない環境で学ぶ動機付けを持てずにいて、恵まれた者たちを僻む者と、そういった者たちとは違うとどこかで見下したい恵まれた者との対立がある——と述べる。

 その上で、長らく長時間労働が問題となってきた日本で、果たして労働と読書はそもそも両立できていたのか、だとすれば、人々はどのように読書に向き合ってきたのか。そのような問いを立て、「労働」という言葉が使われ始めた明治時代にまで遡ってから、労働史と読書史を追う本論が始まっていく。

 実際のところ、本書はこの労働史と読書史についての考察が大半を占め、おそらく書名を見て手に取った多くの読者が期待するであろう、今現在「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」、そして働きながら本を読むためにはどうすればよいのか、という部分については、終盤まで待たなければならない(先取りすると、それもまた著者の言うところの「読書」に伴う「ノイズ」なのかもしれない……が、それによって本書のタイトルと内容の齟齬を批判する意見を封じているのだとすれば、少々ずるいようには思う)。

 本書について論じようと思えば、この大半を占める歴史の部分について集中的に取りあげるべきであろう。そして本書の結論である「全身全霊ではなく、半身で働く社会になろう」という提案を評価し、深めていくのが著者の求めるところかもしれない。

 しかし、今回は割愛する。この点について論じたいことはある。もちろん、良いと感じたところや参考になったものもあれば、疑問に思うところもあった。後者についてはたとえば、一部のベストセラーを以てその時代を語ることにはかなり無理があるのではないか、とか。だが本書について最も強く感じていること、考えさせられていることは、このような具体的な内容についてではない。それは、物を論じるということ。とりわけ、身近なこと、自分が好き/嫌いなものについて論じることの難しさだ。問題設定はおもしろいし、着眼点も悪くない。しかしながら、その論じ方には幾分か問題があるのではないか、と私は感じた。

 著者は読書が大好きだ。子どものころから本に親しみ、大学院まで進んで萬葉集を研究史、あげく、本を読むために会社を辞めているくらいだ。それは良い。しかし、この種の文章には付き物の問題だが、ゆえにどこか「読書」を過度に称賛しているようにも思える。 著者は、「読書」は良いものだと疑っていない。無論、私も良いものだと思っているし、そう思いたい。エッセイであれば百歩譲ってそれでもいいかもしれないが、対象として論じるときには、せめて恰好だけでもフラットな視点から始める必要がある。

 そして厄介なのが、その「読書」はどうやら、ただ「書を読む」ことではないということだ。後で問題にもなるが、著者の言う「読書」は、小説や漫画などの物語作品やエッセイを読むことにかなり寄っている。さらに言えば、著者の中には、それを読むことは「読書」ではないと見なす書籍群が存在する。しかしながら、その定義がどうにも曖昧なまま、論が進んでしまう。

 その危うさは、すでに序文にも顔を覗かせる。先ほどの階級格差の説明は読書猿『独学大全』を引いた上での論だ。たしかに『独学大全』は「読書法」のジャンルにも入る本だから、一見それっぽい説明にも見える。しかし『独学大全』はどちらかといえば「研究」的営みについて論じた本である。そこで使われる「読書」と著者の「読書」は必ずしも一致しない。『独学大全』で論じられる「読書」を以て、著者が言わんとするところの「読書」を語ろうとすることには、かなりの無理が生じるのではないか。

 そもそも、「現代の読書法には、読書を娯楽として楽しむことよりも、情報処理スキルを上げることが求められている」証拠としてAmazonの「読書法」ジャンルの売れ筋を示していたが、いわゆる「読書法」の本において「読書を娯楽として楽しむ」ことを指南する本は古今東西、少数派ではなかろうか*1。どちらかと言えばそれは読書エッセイが指向するところだろう。結論ありきのソースの選択が無意気にでもなかったか。

 また、いわゆる「読書法」の本は、主に調べ物や勉学的な手段としての「読書」の技法を示しているのであり、娯楽的な「読書」の存在を否定しているものはそんなに多くはないのではないか。故に、これらの「読書法」の本が売れている*2ことを、現代が「読書」に効率性を求めていることの証左とするのは無理がある。

 これは「速読」を巡る状況と似ている。速読本は、文章を扱う際の情報処理技法の一つを示したものであり、たしかに、一部には「本をゆっくり読むなんてあり得ない」という過激派もあるかもしれないが、大半は、速読以外の読書法の存在を否定しているわけではない。だが、少なくない「読書好き」が、速読を「読書」を壊す外敵のごとく嫌い、貶している。著者にも、これに似た錯誤があるように、私には思える。

www.sogai.net

 もっとも、それは自覚しているのだろう。だから、直後にこうつけ加えている。

 もちろん、『花束みたいな恋をした』の麦が「スマホのゲームならできるけど、本や漫画は読めない」と述べたときの「本や漫画」は、勉強というよりも文化的な娯楽、という意味だ。しかし『独学大全』が述べる「勉強・学問」と、『花束みたいな恋をした』の指す「ゴールデンカムイ」や「宝石の国」が離れたものであるとは私には感じられない。というか、ほぼ同じもの——自分の余暇の時間を使って文化を享受しようとする姿勢——だろう。(29-30頁)

 立ち現れた二つの「読書」を一致、いや、自身の「読書」観に吸収しようとしている。無論、個人がどう感じるかは自由だが、しかし論述として見るなら、「勉強・学問」と余暇時間に漫画を読むことを、これだけの説明で「ほぼ同じもの」とするのはさすがに強引だろう。

 それに、娯楽として漫画を読む行為を「自分の余暇の時間を使って文化を享受しようとする姿勢」とするのは、いささか美化しすぎている。読書の良さを伝えるという本の性格上やむを得えず、また同種の本に共通する特徴であることは承知の上、しかしこのように言われると私などは、別に自分はそんな高尚な意義を求めて本を読んでいるわけではない、と言いたくなる。仕方なく「趣味は読書です」と言ったとき、頭が良いなとか、文化的な、良い趣味を持っているのですね、といった反応が、私には不愉快であり、そしてなんだか申し訳なくなる。詮ずるところ、楽しいから、おもしろいから、そんな理由で読んでいるのだ。私は、こうした俗な感情を「文化」という言葉でコーティングして意味づけすることに、なんとなく反感がある*3。他の趣味と差別化してより「良い」ものとしようとする意識が、どうにも鼻持ちならない。

 ともかく、これは「読書」が好きであるが故に、過剰に評価、意味づけをしてしまっている一例であるように思われる。論じる対象が近すぎるときに起こりうる弊害であろう。

 一方、歴史的な論述については、突っ込みどころは多々あるが、トーンとしては比較的冷静であるように感じた。それは時間的な距離に加え、過去に書かれた多くの書籍や資料を通すことで、対象とほどよい距離を保てているからだろう。この箇所について労作であるとする意見には、特に異論はない*4

 だが、時間が現代に近づき、話題が現代の「自己啓発書」に及ぶ段になるにつれて、筆致が乱れてくる。

 牧野智和の論を援用し、自己啓発書とは「ノイズを除去する姿勢」点に特徴があるとする。すなわち、「他人や社会といったアンコントローラブルなものは捨て置き、自分の行動というコントローラブルなものの変革に注力することによって、自分の人生を変革する。それが自己啓発書のロジックである」。

 一方で、「文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍はむしろ、人々にノイズを提示する作用を持っている」。本を読むことは働くことの「ノイズ」になる。しかし時代は「新自由主義」的価値観が広がり、経済の大きな波に乗れたか乗れなかったかですべてが決まる社会だ。「全身全霊」で経済活動、すなわち労働に向かわなくてはならない。そんな世の中ではこの「ノイズ」が邪魔になる。だから本が読まれない。——かなりざっくりした説明だが、これが本書の提示する一つの答えとなる。

 ここには明確に、著者が自己啓発書を読むことを「読書」と見なしていない、あるいは見なしたくないという姿勢が見える。本の最大の価値は「ノイズ」にあるという。しかし「自己啓発書」にはその「ノイズ」がないとしているのだから、著者は「自己啓発書」を「本」だとは思っていない、故にそれを読むことは「読書」ではない——そう結論づけても間違いではないはずだ。

 事実、たとえば「本が読めなくてもインターネットができるのは、自分の今、求めていない情報が出てきづらいからだ」と述べたすぐ後に、「就職氷河期の若者にとって、自分の社会的階級を無効化して勝者になるべく求めていたものが、まさにインターネットや自己啓発書のなかに存在していたのである」と言っている。著者にとっては、「自己啓発書」は、「本」と対立するものとして想定されるインターネットと同類のものなのだ。

 だが、「自己啓発書」はその形において、著者が愛する「本」と変わらない。故に、そこに向けられる感情は激しいものになるようだ。

 よくビジネス書では、人に好かれる能力を磨きなさいと説かれていますが、僕は逆だと思っています。人を好きになる能力の方が、よっぽど大事だと思います。

 

 人を好きになることは、コントローラブル。自分次第で、どうにでもなります。でも人に好かれるのは、自分の意思では本当にどうにもなりません。コントローラブルなことに手間をかけるのは、再現性の観点でも、ビジネスにおいて当然でしょう。(前田裕二『人生の勝算』)

『花束みたいな恋をした』で、絹が書店で手に取る自己啓発書の一節だ。これに対して著者はこのように評する。

 コントローラブルなものに集中して行動量を増やし、アンコントローラブルなものは見る価値がないから切り捨てる。それが人生の勝算を上げるコツであるらしい。(211頁)

 当該書を読んではいないが、しかしこの引用箇所だけをもって見るのならば、いささか意地悪な見方だ。前田が「見る価値がないから切り捨てる」と言っているとは、少なくともこの一節からは私は明確に読み取ることができない。さらに言えば、このような言説は自己啓発書に限ったものではなく、割とありふれた地べたの人生訓ではないだろうか。著者が悪意をもって、そこまででなくとも、これは悪いものだという色眼鏡で見ているのではないか、と疑う。

 著者は、前田のこの本が新自由主義的発想を内面化した、自己決定・自己責任論の書だと断ずる。本書は特に終盤、この「新自由主義」という語が頻出する。だが、昨今の人文系の文章の例に漏れず、やはりこの言葉の使い方は雑に感じる*5。一応定義はしているのだが、現代社会の悪いものの原因をすべて詰め込めるマジックボックスのようだ。そして、自己責任論的な自己啓発書については、著者自身、序盤で『西国立志編』、原題は「Self-Help」について、その「修養」の考えが現代の自己啓発書に通じている、と論じているではないか。たしかに時代背景は異なるが、はて、これでは現代の問題の根源を新自由主義と断定できるのか? と私は疑問に思う。最近の「新自由主義」という言葉の使われ方は、既存の「悪い」ものを一見論理的に批判するために持ち出されるマジックワードとしてのもののように思えてならない。

 著者は、「この前田の価値観は社会がつくり出したものでもあるので、このような発想を持つ個人を批判する気は毛頭ない」とし、自分で自分のことを決める、という価値観は自分も大事だと思っている、という。

 だが、以下に続く文章を見ると、それは前もった言い訳であったようにも思えてしまう。

 一方で、「自分が決めたことだから、失敗しても自分の責任だ」と思いすぎる人が増えることは、組織や政府にとって都合の良いことであることもまた事実である。ルールを疑わない人間が組織に増えれば、為政者や管理職にとって都合の良いルールを制定しやすいからだ。ルールを疑うことと、他人ではなく自分の決めた人生を生きることは、決して両立できないものではないはずなのだ。しかし『人生の勝算』にそのような視点はない。当然である。仕事や社会のルールを疑っていては——たとえば「こんなに飲み会をやっていたら、誰かいつか体を壊すのでは?」とか「そもそも日本のアイドルの労働量は過多であり、配信まで増やしたら彼女たちの時間の搾取は進むばかりでは?」とか——ビジネスの結果を出す「行動」に集中できないからだ。

 市場という波にうまく乗ることだけを考え、市場という波のルールを正そうという発想はない人々。それが新自由主義的社会が生み出した赤ん坊だったと言えるかもしれない。(214-215頁)

 さすがに言い過ぎだ。特に「新自由主義的社会が生み出した赤ん坊」という表現は、あまり品がない。普通に「それが新自由主義的社会が新たに生み出したものだったのかもしれない」くらいで良いように感じる。ここを読んで、著者が『人生の勝算』の著者を批判していない、と私は思えない。いや、そもそも前田個人を批判してもまったく構わないのだ。にもかかわらず、なぜ「個人を批判する気は毛頭ない」と前置きしたのか。一般的な予防線の意味もあるだろう。だが私はそれだけではないと感じる。

 ここに至るまで、文体的な特徴故、多少筆が滑っている箇所は多々あったが、ここまで辛辣、乱暴な言い方はしていなかった。冷静さを失っているように見える。

 ここで「赤ん坊」という言葉を使っているのを見ると、やはり著者は前田、ひいては「自己啓発書」(的価値観)を軽蔑、憎悪しているのだろう。「読書」の過剰な讃美が「好き」が前面に出過ぎたものであるならば、こちらは「嫌い」に突き動かされた文章である。前述の前置きは、それを正当化するための建前の役割を果たしているのではないか。

 こういうことを言うと、「強く批判してはいけないのか」「思ったことを言ってなにが悪い」などとの声が飛ぶかもしれない。言うまでもなく、批判をしても良い。ただし節度は持つべきだ、と言いたいだけだ。そして、心のなかでなにを思おうがそれは自由だが、しかし口にする、公にするときには、なにもかも言って良いという訳ではない。言ってはいけないことだったり、言わない方がいいことはある。社会で生きるとはそういうことだ。これは忖度などというものではない。

 なにより、物を書くという行為は、自分の内部から出た言葉を文字という他者の形に預けて相対化することが最大の効果の一つだ。手直しするチャンスを与えてくれる。すなわち、推敲だ。せっかくその機会があったのに、と私は思う。

 言ってしまえば、批判にも品が必要だ、というのが私の信じるところである。本書は、途中まではそれをギリギリ保てていた。故に、後段の怒りに突き動かされたような文章の数々に戸惑い、そして残念に思う。

 つけ加えると、私も自己啓発書についてはなんとなく嫌な印象をもっている。前田についても、本は読んでいないが、この本が売れたときに彼に密着したテレビ番組を偶然見て、なんかいけ好かないなあと思ったことを覚えている。だが、そこには幾分か、それこそ『独学大全』で論じられていたような僻みや、相手を見下したい感情があるように感じて、後ろめたさもあるのではないか——と、図らずも本書を読んで気付かされた。

 故に、その評価には慎重にならざるを得ない。油断すると、好きではない、嫌いという感情に流されて、言わなくてもいい余計なことまで口走ってしまいそうな気がするからだ。とりわけ、文学や人文系の本を好み、自己啓発書に象徴されるビジネス界隈を嫌う「仲間」内にあるときに、注意しなければならない。適当な憎悪の言葉も容易に肯定してくれる。仲間とは尊いものであると同時に、恐ろしいものでもある。仲間の結束を確認し、強めるためのサンドバッグとして雑に他者を用いること。やはりそれは慎重に避けなければならない。油断すると、人は容易に、自分が嫌う者たちと同じロジックに陥る。

 好き嫌いが悪い、という気はさらさらない。なんでも好き、なんていう人間を、私は信じない。その感情でものを書いても、まあ構わない。しかし、少なくとも物を論じるときには、適度な距離をとる必要がある。論じるとは、評価することである。狭窄した視野では、些細な、しかし実は大事かもしれないものを見落とす。ただでさえ、一人の人間の視野、知れることなんてかなり限られているのだから。

 これらのことは、言うまでもなく私自身、何度も失敗してきたことだ。怒りや鬱屈に任せて書いてしまった文章の数々が思い出される。それらのものについて、読みかえすと、どうしてこんな風に書いてしまったんだろう、対象にも文章にも申し訳ない、と後悔する。だから偉そうなことを言える立場ではないのだが、しかし、誰しもが容易に陥りやすい穴について頭の片隅に置いておくことが必要だと確認したかった。

 もう一点。物を論じるときには、当たり前の語句ほどちゃんと定義しなくてはならない、と感じさせられた。

 本書で言えば、「読書」や「本」がその代表だ。

 どちらも当たり前すぎる言葉だ。ざっくり言えば、主に紙が綴じられたものが「本」で、それを読むことが「読書」だ。

 しかし上で見てきたように、著者の中ではそう一言で言い表せない言葉になっている。「読書」とは、「ノイズ」があるものを読んで文化を享受することであり、その対象となる「本」は、主に文学書や人文書、漫画やエッセイのことを指す。

「自己啓発書」については、「ノイズ」を排除しようとするものだから、それを読むことは「読書」ではない。それはむしろインターネットの仲間であると考え、「本」とすら見なしていない。だが以上のことは本書に直接書いてあるわけではなく、後半部まで読み進めて私が導き出した仮説にすぎない

 著者は、情報と知識、という二項対立を立てている。簡単に言うと、知りたいことそのものが「情報」で、そこに他者や歴史や社会の文脈などの偶然性、すなわち「ノイズ」が含まれるものが「知識」である。一見それっぽいが、しかし厄介なのが、著者はこの二つについて、それぞれ対立する言葉を使ってそれを説明していることだ。

読書して得る知識にはノイズ——偶然性が含まれる。(中略)文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。

 しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。コミュニケーション能力を上げたいからコミュニケーションに役立つライフハックを得る、お金が欲しいから投資のコツを知る——それが情報である。

 情報とは、ノイズの除去された知識のことを指す。(205-206頁)

 混乱する。情報が知識で、知識が情報で……。それ、本質的には差が無いのでは? と*6。つまるところ、「ノイズ」の有無だけが問題になるのは分かった。しかしその「ノイズ」が、やはり曖昧模糊としている。本書で説明されているように、他者や歴史や社会の文脈などの偶然性が「ノイズ」である、と一旦認めよう。しかし、それが全く排除された「情報」なるものが、果たして存在するのだろうか。著者はそれをインターネットであり、そして「自己啓発書」に見る。確かに、「本」よりは「ノイズ」が少ないようにも、なんとなく思える。だが皆無ではない。言葉自体が公共物であるのだから、それを使用して物事を語る時点で、私たちは他者や歴史、社会といった「ノイズ」と無関係ではいられない。また、それに接する私たち個々の行動やそこに至る経緯には、やはり固有の文脈があるはずだ。コミュニケーション能力を上げたい理由も、お金が欲しい理由も人ぞれぞれだ。「情報」の立場に立ったとき、それらもまた「ノイズ」と言えるのではないか。いや、厳密に言おう。それを「ノイズ」とはしない根拠はどこに見出せるのか。

「私たちはノイズ性を完全に除去した情報だけで生きるなんて——むりなのではないだろうか」と著者は言う。その通りだ。しかし私はさらにこう言いたい。そもそもそんな「情報」とやらは無いのである、と。第一、「本」も「ノイズ」を志向しているわけではないだろう。それは結果である。

 なぜこうなるかといえば、「ノイズ」の定義が甘いからだろう。その大きな要因は、これがインターネットや「自己啓発書」を「読書」と対立させんがために想定された概念であることだと思われる。

 それらの問題点の飲み込み、とにかく著者の言う「読書」は文学書や人文書などの類いの本に限られるのだろう、ととりあえず私は理解した。しかしその途端、このような文章に出くわし、また混乱してしまう。

 読書とは「文脈」のなかで紡ぐものだ。たとえば、書店に行くと、そのとき気になっていることによって、目につく本が変わる。仕事に熱中しているときには仕事に役立つ知識を求めるかもしれないし、家庭の問題に悩んでいるときには家庭の問題解決に役立つ本を読みたくなるかもしれない。読みたい本を選ぶことは、自分の気になる「文脈」を取り入れることでもある。(233頁)

 ここで例示されている「本」は、明らかに著者が言うところの「情報」寄り、ハウツー本や実用書、そして「自己啓発書」になるのではないのか。また気になるのは、「仕事に役立つ『知識』」と、「情報」に対立させた言葉をさらっとここで用いていることだ。おそらくこの「知識」とは一般名詞的なものなのだろうが、このあたりの不徹底も、著者が綿密なロジックの構築をなおざりに「知識/情報」という二項対立を立てたのではないか、と疑う要因のひとつだ。くどいようだが、ここを「コミュニケーション能力を高めたいときにはコミュニケーションに関する知識を求めるかもしれないし、お金を稼ぎたいと思っているときには資産運用の本が読みたくなるかもしれない」としてはいけない理由が、私は本書から見えてこないのだ。

 これを「読書」と言うのならばなぜ自己啓発書を「本」から除けるのか、感覚的には多少分からなくもないが、その論理的なロジックが分からない。仕事であり人間関係であり、あるいは人生に悩む者が書店の棚を巡り、「自己啓発書」に惹かれることだって十分にあり得そうなものだが、それでも自己啓発書は「文脈」を生まない、とする根拠はいったいどこにあるのか。本書では「読書」や「本」という言葉が、どこか玉虫色なのだ。いささか意地悪な見方かもしれないが、本書における「自己啓発書」とは、著者にとって「本」の価値を毀損している、具体的には、ホモソーシャルな価値観を内包した旧来的サラリーマンが好む、前田や堀江貴文、Daigoなどの「悪い」奴ら、「新自由主義的社会が生み出した赤ん坊」が書いたもの、ということになるのではないか。

 1冊の本のなかにはさまざまな「文脈」が収められている。だとすれば、ある本を読んだことがきっかけで、好きな作家という文脈を見つけたり、好きなジャンルという新しい文脈を見つけるかもしれない。たった1冊の読書であっても、その本のなかには、作者の生きてきた文脈が詰まっている。(同上)

 その通りである。だがなおさら、なぜ「自己啓発書」だけはここから排除できるのか、やはり分からない。「自己啓発書」だって、生きた人間が物しているのに違いはない。もちろん、こっぴどく批判しても良い。実際、その作者はしょうもない人間なのかもしれない。だが、そこには生きた人間がいる。それだけは最低限、忘れてはならないのではないか。

 ここで気がついたのだが、著者は本書の性格上必然的ではあるが社会から見ている一方で、私は作者についても読者についても、あくまで個々の人間を見ようとしているのかもしれない。どちらが正しいというのでは当然ないが、その違いが、私の違和感を生んでいる可能性はある。

 閑話休題。そもそも、私は著者の「読書」像は読書の一面でしかないように思える。本にもいろいろある。たとえば辞典・事典、レシピ本、ハウツー本、健康書、資格参考書、受験案内。これらは著者の言う「情報」に特化したものだ。読者も、それを求めて使う。つまり、本とは元来、著者が言うところの「情報」と「知識」、どちらの役割も担ったメディアだった。そこに、より「情報」の分野では利があるインターネットが普及したから、結果として「本」における「知識」の面が強調された——ように感じられるようになった、というのが実際のところではないか。「読書」において「ノイズ」は本質的なものではなく、時代による結果論的なものだと考えた方が自然に思える。  

 もっとも、本書が著者的「読書」共同体のなかで読まれることを想定しているのならば、それも方向性の一つではあろう。「自己啓発書」好きなど最初からお呼びではない、というのも、一般論としてそれはそれでありだろう。だが、本書の趣旨に鑑みるに、果たしてそれで良いのだろうか。言うまでもないことだが、文学や人文書等は世の中の「本」の一部だ。アルバイトで5年程度であるが書店で働いた経験がある身として、いわゆる「読書好き」に共有される文学・人文書至上主義的な価値観を、私は長年、どうしても飲み下せないでいる。

www.sogai.net

 著者はそれを、薄々分かっているように文章の端々からは感じられる。だが、ここで「好き」が顔を出す。著者が思う「読書」を価値のあるものだと言いたいばかりに、その気持ちが先走って、後付けで論を組み立てているきらいがある。だから語句の定義が曖昧なまま進み、結果として論が揺らぐ。

 しかしながら、私はいま引用した著者の言葉は好きだ。一人の人間が社会で生きていくことを端的に表しているからだ。

 その上で、私は「情報」と「知識」という言葉をこのように定義してみたい。すなわち、自身の内外の文脈のなかで「情報」を解釈、咀嚼、消化し、血肉となったものがその人の「知識」である、と。「ノイズ」は絶対的なものではない。その人の心構えや気の持ちようで、その瞬間瞬間に立ち現れるものなのだ。だから、自己啓発書やインターネットの情報にノイズがあらわれることもあり得る。反対に、どんなに高尚な本を読んでいても、そこにノイズが極めて薄いということも起こり得るのだ。さらに言えば、一人の人間が生きる、それ自体が大きな「ノイズ」であり、一人の人間の存在もまた固有の「文脈」なのだ。つまり、私のこの定義からすれば、個々の環境やモード、態度の問題ということになる。同じ本を読んでも、ある人には「ノイズ」に満ちているが、ある人にはほとんどない。そういうことだってあり得るのだ*7

 しかし、ここまで書いておいて、このように言うことが本書を論じる上で適切なのかどうか、まだ分かりかねる。「ノイズ」の定義が曖昧で、私が言う「ノイズ」が、著者の言うところの「ノイズ」と同じであるかが分からないからだ。結局はそこに立ち戻る。

 物事を論じるときには、まず自分がこれから使う言葉をちゃんと定義することの重要性を強く感じた。他人事ではない。当たり前のことのようだが、これができている人の方がおそらく、ずっと少ないのだ。

ある論文の中で一貫した説明ができるのならば、その限りにおいて、そういう記号だよねと処理することができる。「新自由主義」だろうが「ちちんぷいぷい」だろうが「54739012」だろうが、ただの記号なんで、定義が固ければなんでもいい。重要なのは、その概念の説明を綿密に詰めていくってことなんだと思う。○○は新自由主義である(だから悪である)、で終わるのではなく、反対に新自由主義でないのは××であり、歴史的経緯にはAやBがあって他と混同されない仕方で記述できるのだという論述をしてほしい。新自由主義が悪いと言ったとき、具体的にどういう働きをして、どういう種類の悪さと結びついているのか、どうやったらその新自由主義なるものが克服されるのかの道筋を明示してほしい。これは「新自由主義」に限らず、学術的な用語一般に望んでいるものであって決して意地悪で要求しているわけじゃない。その場合に限り私としてはそれなりに付き合ってもいい。逆に言うと、カジュアルに使わないでほしい。悪口やレッテルの代わりに、新自由主義だから冷酷な人間なんでしょうみたいなのはやめてほしい。(「どうしてわれわれはなんでもかんでも『新自由主義』のせいにしてしまうのか?」『宇宙・動物・資本主義 稲葉振一郎対話集』(稲葉振一郎、晶文社)所収、荒木優太の発言より)

 同意である。その上で、本書については「学術的な用語」のみならず、「本」「読書」などの一般名詞においてもその必要性があった、と私は思う。

 最後に、本書は評論である一方、「読書家」にとっては自身の趣味に対しての自信を深め、「読書」という行動を促そうとする自己啓発的性格がある。著者の言う「自己啓発書」と同じかはともかく、あえてジャンル付けするならば私は本書に自己啓発のタグを付けるだろう。目指す方向性には共通点がある。

 著者にとっては屈辱的かもしれない。しかし私は、それが本書にとって悪いことだとは少しも思わないのだ。

 

(矢馬)

*1:当該ジャンルランキングを見ると、英文解釈から名著解説のようなもの、さらには「Hanako」まであり、いわゆる「読書法」と言えるのかかなり疑問なものも多く、参照するソースとしてそもそもあまり適切ではないようにも感じた

*2:そもそも、本当にジャンルとして特筆して売れているのか、というところから私は疑っている。つまり、ごく一部のベストセラーがあるに過ぎないのではないか、と。これは、前述した「一部のベストセラーを以てその時代を語ることにはかなり無理があるのではないか」という疑問にも通ずる。やはり、司馬遼太郎を以て70年代のサラリーマンの心性を読み解こうとするのは無理だと思うのだ。

*3:著者は冒頭で「人生に不可欠な『文化』は人それぞれ異なります」と述べているが、読み進めると、しかし著者が認める「文化」は割と限定されているように思えてならない。その感覚は各々固有のものでよい。しかし、このようにまとまった文章、本で論じるのであれば、それはその中で明記、定義づけをして欲しいのだ。一方では「人それぞれ異なる」と言いながら、他方では、たとえばインターネットに没頭することや「自己啓発書」を読み漁ることをどうにも「文化」的趣味とは見なしていないような記述をされると、読者としては困惑せざるを得ない。

*4:細かいテクニックについていえば、さくらももこについて、女性向けになりそうな題材を広く開いたものにした点で、「女性エッセイストの歴史で見ても、真似できる人がほかにいない」と書くのはどうなのか。有名無名を問わなければ多少はいたかもしれないだろう。全部を調べることなどできないのだから、「稀有な存在だ」くらいにして躱せばいいのに、などと私は思った。無論、このように言い切ってくれる人の方が好まれるのはわかるが、物を論じるときにはそれくらい慎重になるべきだし、それに、それは著者が嫌うタイプの言論ではないのか。スタイル故やむを得ないのかもしれないが、全体的に筆が滑りがちであることは気になった。

*5:「新自由主義」という言葉の使われ方に疑問を抱く矢野利裕は、試しにこの言葉を使ってみたところ、「『めっちゃ議論が早い!』と思って、それが逆に怖いと感じました」と言う(「どうしてわれわれはなんでもかんでも『新自由主義』のせいにしてしまうのか?」)。本書も、この「新自由主義」という後が頻出し始める辺りから議論が異様に早くなっているように感じる。使ってはいけない言葉ではないが、非常に注意を要する言葉なのだろう。

*6:さらにいえば、別の場所では「読書=ノイズ込みの知を得る/情報=ノイズ抜きの知を得る」という二項対立が用いられており、この「知識/情報」の二項対立と重なっているようで微妙にずれている説明が厄介だ。どうやら「情報」には名詞的なものと動詞的なものがあるらしい、と判断してみるが、後者の二項対立に用いられる「知」は「知りたいこと」を指しているのか、あるいは「知識」のことを言っているのか判然としない。しかしここでは「小説などのフィクションを『知』とまとめるのは抵抗がある人もいるかもしれない。しかし本書では、メディアに掲載されている内容すべてを『知』と呼ぶことにする」とまた違った定義が示され、非常に紛らわしい。また、続く「というのも本書は冒頭から、『勉強・学問』と『娯楽としての本・漫画』を区別していないからだ」という説明も、なんだかトートロジー的で、いまいち飲み込めない。

*7:本来なら蛇足だが、私がこの文章で書いたようなことを考えるようになった大きな要因となっているものの中には、荒木優太がWEB版「文学+」で連載している文芸時評や彼のYouTubeライブ、競馬評論家の水上学のブログなど(なぜか最近、一番過去のものから順番に読んでいる)、ネット上のものがある。その他、日常生活の様々な場面において考えたことがいまの私を形作っているのであり、「ノイズ」を文学・人文書の特権とすることを私は疑う。