昨今、主に著名人に対するSNS等インターネット上での誹謗中傷が社会問題として盛んに議論されている。これが由々しき問題であることにはまったくの同意であるが、その一方、しかし——いや、それゆえにというべきかもしれないが——私が最近強く感じるのは、どこか強迫的なものも感じる「肯定」の空気である。
これはやや楽天的な認識なのかもしれないが、私は世の中、良くも悪くもそんなに悪い人ばかりではないと思っている。萩本欽一は、強く嫌っていたルー大柴と対面したことで、その感情が薄まってしまう。曰く、「だから会いたくなかった。会えば、大抵の奴は嫌じゃない」(関根勤談)。私はこの言葉に、どうしようもなく共感を覚えてしまう者だ。それに続く、「(ルーのことは)ずっと嫌いでいたかった」というところまで含めて*1。嫌いで居続けるというのは、そう容易ではない。
匿名性というものが人間の凶暴な部分を刺激する面はたしかにあるだろう。しかしネット上で明確な悪意を表出する人間は全体から見ればそれほどではなく、大多数は、内心はどうであれ穏健なところで収めておくか、見て見ぬ振りをして沈黙する、あるいは元から関心がないか、そもそもネットなんてやっていないかのどれかではないか。いやむしろ、これほどまでに誹謗中傷に対して人々が敏感になった、もっと露骨にいえば数字を稼げる「コンテンツ」となって拡散のリスクが高まったいま、多少でも先を考えられる人であれば、思うところがあっても変に取られそうな可能性のあるような下手なことは言わないでおこう、とリスク回避の行動をとるだろう。
「これが自分は嫌いだ」と言うことが難しくなっている。特にそれが好感をもって世間的な注目を集めている場合、そういった意見は和を乱すもの、ときには「間違っているもの」として晒しあげられる。
「嫌い」だけならまだいい。問題は、ちょっとした批判的な意見の表明ですら、その標的になる恐れが決して小さくないということである。それはもしかしたら、「誹謗」と「中傷」を合わせた「誹謗中傷」という言葉が定型句として語られすぎていることにも繫がるかもしれない。「誹謗」とは人を悪くいうことを指す一方で、「中傷」は根拠のないことを言いふらして他人の名誉を傷つけることをいう。どちらも褒められたものではないが、後者の方が悪質性が高いことは言うまでもないだろう。デマによって悪意をもって人を貶める行為を指す言葉にくっつくことで、あえてこういう言い方をすればただの悪口が、それと同程度の悪質性を帯びるものとして世間に認識されるようになっている——そんな想像も、あながち無根拠ではないのではないか。その上でこう言うこともできる。すなわち、悪口と批判が同一視されることも多いいま、批判は、デマによって議会を襲撃させることと本質的には同じくらいの批難の的になりうるのである、と。いまのネット社会で脅威なのは、誹謗中傷それ自体よりも、それも含んだ、たとえそれが一般的には「正義」とされる価値観に適った動機によるものだとしても、苛烈に繰り広げられる私刑の方にあると思っているのだが。
大きな潮流に水を差す行為は、とかくその原因になりやすい。それに、いつどこで、誰が見ているか分かったものではない。故に、人は「肯定」に走る。昔からそうであろうが、昨今のブームが非常に熱しやすく冷めやすいのには、そういった背景もあるだろう。皆が好きなものを好きでいれば、とりあえず安心できる。しかし、実のところ本心から好きになった訳ではないので、ピークが過ぎて世間が落ち着けば、もう固執する理由がない。その裏返しで、皆が酷評しているものに対してはこっぴどく批判することを厭わない。最近で言えば、NHKの朝ドラの放送毎に「#○○反省会」などのハッシュタグで、それこそ誹謗と取られても仕方ない言葉がSNSに並ぶようになっているというが、これは、皆と一緒なら批判しやすい、という人間の精神を現代的に可視化している卑近な例のひとつだろう。私はこの背景に、NHKというものはとにかく叩いてもいい、という意識があるのではないか、と邪推しているのだが、それは措く。
私はこのような生存戦略のすべてを否定する気はない。社会で生きていく上では、流れに乗らなければならないことがあることも知っている。だが、その方が楽だからこれでいいじゃないか、と諸手を挙げて身を預けられるほど物わかりのいい人間でもないし、いやしくも文学をやってきた人間であるならば、そういった心地よさそうな流れとは少し距離を置き、相対したい、とも思う。
いつからか、世間一般に流通する「書評」に違和感を覚えるようになったのも、そのような理由からだ。もう5年以上前になるだろうか、新潮社が百田尚樹作品の「ヨイショ感想文」を大々的に募集して炎上したことがある。その際、とある書店店主が、でも実際出版社はヨイショ感想文しか求めていないのだ、と身も蓋もない本音をどちらかといえば肯定的に語り、そこにある問題への意識が稀薄であることにほとほと呆れたものだったが、少なくとも現代日本の出版業界において書評は、それをシステム化したものとして機能している。とりわけ書評家とされる者については、求められている仕事上そうなるのはやむを得ないとはいえ年がら年中多種多様な本を絶賛しているのを見ると、いささか食傷気味になるのと同時に、果たしてどこまでが本心なのだろう、と訝しむ気持ちが出てくる。人はそんなにしょっちゅう感動はできない。そして、現在活躍する書評家の文章からは、その人の嫌いなものがあまり見えてこないのだ。
このような話をするとき、ネットではお決まりのように『ツギハギ漂流作家』(の一コマを『ONE PIECE』のルフィが言ったかのようにしたコラ)の「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」という一コマの画像が貼られる。しかし、自分がなにが嫌いかというのは、なにが好きかと同程度に重要なことなのだ。好きなものがあれば、嫌いなものもある。なんでもかんでも好きと言っている人の言葉は、眉唾ものに思える。なにを食べても「美味い!」と叫んでいるタレントの言葉は響かないが、一本の軸をもっていつも厳しいジャッジを下す料理人がハッとした表情になって目の前の料理を褒めるとき、それはよほど美味しいものなのかもしれない、いったいどんな味なんだ、と興味を惹かれる。ついでに言えば、上記のように、漫画やアニメ、ドラマの一シーンの画像を貼って自身の意見を代弁させてある言説を揶揄するようなやり方が、私は嫌いだ。
私が荒木優太という人間を、必ずしもその意見のすべてに賛成することはなくとも——そもそもそれがいくらとても近しい人であってたとしても、他者の意見のすべてに賛成できる、なんてことがあるとは思えないが——信用しているのは、良くないと思ったものは、相手が何であろうと、こうした理由で良くないと思った、と言うからだ。荒木が2021年から「文学+ウェブ」で月一での連載を続けている文芸時評がこの度「傑作選」として本になった*2。
その副題「炎上の炎に焼かれてアチチの巻」は、批判も辞さないこの文芸時評を続ける中で何度か自身も炎上(もっともそれは本人がどこかで言っていたように、世間的にはあまりにも小さな界隈で起きたちょっとしたものに過ぎない)に巻き込まれたこともそうだが、この文芸時評自体が、主に文学界隈で起きた炎上事件をよく取りあげていることも意味する。具体的には、『ルックバック』差し替え事件、桜庭鴻巣論争、樋口恭介「絶版本」企画問題、成田悠輔「高齢者集団自決」発言、小山田浩子の阿波しらさぎ文学賞選考委員解任問題、などなど。3年間でよくもまあこれだけの問題が起きたものだ、との感にも打たれる。
ところで、文学事情に詳しい、もっと言えばSNSに張り付いているようなタイプの文学好きのなかで、いったいどれだけの人がこれらのことを覚えていて、そして今もその問題意識を持っているのだろうか。時評とはその性格上、そのときに起きたことを記録する。議論が成熟することなくあっという間に消費されて忘れ去られる今、そこでなにが起きたのかを文字で残す時評の役割は、もしかしたらいままで以上に高まっているのかもしれない。
もっとも、この時評で取りあげられている作品を、現代文学に愛想が尽きかけている私はほとんど読んでいないので、その評価の妥当性を判断することはできない。まあ本来時評ってそういうものなのではないか、とも思うがそれは措き、それでもたとえば、現代の小説における「チェックポイント主義の跋扈」を論じる段における、「ただ、ああこういうふうに褒めてやればきっとこの作者は喜ぶんだろうなあ、と思わせる小説に出会う機会がずいぶん増えた」(41頁)という感慨には深く共感した。私が現代文学から距離を置こうと思った理由もそれだからだ。書評家をはじめとした読者はそれを読み取ることに長けていて、作者(と編集者)が狙ったリアクションを表明する。この「作者と読者=評者の双方の流し目がかちあった怠慢な共犯」(41頁)のなかの予定調和に、いささかうんざりしていた。
荒木はしばしば、文芸時評なんかやっていても敵が増えるだけ、とぼやくが、この共犯関係が強固なものになり、そしてそこにある種の後ろめたさも覚えないような空気が充満する中で文字通り空気を読まないことをしているのだから、当然と言えば当然だ。社会の空気を読んで振る舞う文学や批評って報国的なそれと本質的になにが違うのだろう、と思ったりもするがそれはさておき、その要因のひとつに、出版業界の窮状があるだろう、と考えられる。
本書でも触れられている、豊﨑由美がTikTok書評家が持て囃される状況を批判して炎上したときや、これは本書には無いが、『鬼滅の刃』最終巻発売日に書店に行列ができたことを言祝ぐ書店や出版社の楽天的な声をみたときに思ったことだが、発行部数や売上金額といった数への欲望をおおっぴらに肯定する言説が、業界内の人間からも数多く出ている。たしかに売上は大切だが、文化の担い手を自任する出版業界の人間は、本音はそうだったとしても露骨な数字狙いに対しては後ろめたさや照れを持っているものだと思っていた。だが、貧すれば鈍するか、建前を置いておく余裕もなくなり、売上に貢献しないものはどんどん仕分けされていっている空気を感じる。
上記の豊﨑も、のちの吉田豪との対談ではこのときの自分の発言を一部反省しているが*3——そもそも文筆で食っているものが、その名前において、酔っ払った状態でSNSで発信することがあまりにも迂闊である——、そのなかで、書評家は読者や書店員などと一緒に、作家と批評家が両輪で、前では担当編集者や版元が引っ張る小説が載った大八車を後ろから押している、といった表現をしている。この表現からは、書評家は作家と批評家という車輪の向きに沿って、編集者や版元が引っ張る方向に力を入れる、という構図が見えてくる。端的に、書評系TikTokerと本質的にあまり変わりがない。事実、豊﨑の不満の主眼はTikTokerそのものではなく、版元がTikTokerばかりを有り難がり、自分たち書評家を雑に扱うことにあった。気持ちは理解できる。しかし、これは本質的な出版論、書評論にも繫がりうる問題だと勝手に期待していた私が悪いのだが、なんだ、商売の話だったのか、といささか鼻白んでしまったのが正直なところだった。
その点を踏まえ、果たして、荒木の文芸時評は本の売上に貢献するだろうか。
無論、ゼロではない。一応私も、この時評などの影響で、朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』を読んでみようと思った。しかし、そもそもが売れない純文学を主な対象としていることも然る事ながら、批判も辞さない文章は、少なくとも編集者や版元、加えて作者の望みに適うようなものではないだろう。
私が知る限り、業界人でもいったいどれだけの人がちゃんと読んでいるのか分からない五大文芸誌を中心とした現代の文学シーンを現在進行形で追い、かつまとまった分量で評しているかなり稀有なものだと思われるのだが、この時評が始まった経緯(新人小説月評の文章の削除を巡っての『文學界』との決裂)を抜きにしても、書評紙がぎりぎりで、文芸誌周りで連載されることは少し考えにくい。たとえば『文藝』では水上文が文芸季評を連載しているが、これは『文藝』と水上の蜜月に加え、水上が現代文学において暗黙の了解のように存在する価値観を体現しているような書き手であることが大きいのでは、と私は推察する。念の為につけ加えると、作家が特定の版元と関係が深いことや、自分の主義主張に近しい作家を重用すること自体は問題ない。また、水上がそうだと言うつもりはないが、仕事を得るために空気を読んで、相手の求めるものをその主義主張に沿って提示していたとして、それは絶対に間違ったことであると言える論理的根拠を私は持たないし、たぶんそんなものは無いだろう。そして、大抵の利口な人々は、特に意識することなくこの方向性を取っているのだ。
一方の荒木は、おそらく現代文学においてはあまり歓迎されない考えをいくつか持ち、そしてそれを覆い隠そうとしたりはしない。本書で言えば荻上チキのポリアモリー論に対する批判が分かりやすい。思うに現代文学は、荻上が言うようなモノ規範(モノガミー=単一婚を自明視する思い込み)に囚われない〝多様な関係性〟を、わりと素朴に称揚する立場をとる。荒木はなにも単一婚を絶対視しているのではなく、ポリアモリーを正当化する主張における論の矛盾やそこにある欺瞞を批判しているのだが、たとえそうであったとしても、荒木の主張は、現代文学界隈の空気にはそぐわないものとして敬遠されるだろう。
先述の大八車の比喩を用いれば、荒木の評はときに、大八車を横から押して、予定された方向への運動に別ベクトルの力を与える。場合によってはバランスを崩し、倒してしまうかもしれない。それは、少なくとも今の現場では避けられるものなのだ。
「売り上げに貢献しない評文を二の次とする潮流はおそらくはもう不可避的なものだ。批評に必要な自由が——その自由は、縁故主義や商売道徳やよく分からない倫理規定にとって脅威的にうつってしまうほど大きなものだが——商業誌で確保できない以上、私的なものの方がより本質的で真剣な他人と出会える逆説がある」(23頁)
本書でのこの評は、まさにこの時評にもあてはまる。先述したように場の空気を読んで仕事をすることはなんら否定されることではないとはいえ、しかし一方で、結局仕事でやっているのか、とまあ随分と身勝手な感情が湧いてこないこともない。商業誌が悪い訳ではないが、ずっと読んでいるとどうにも痒いところに手が届かない感覚や欲求不満を覚える。では同人誌か。しかしこと批評においてはそれはそれで界隈化が進み、内輪感というか、一見さんお断りといった空気が感じられることもある。となると、こうしたかなり独立した個人の仕事にも目を向けることが今後、より必要になってくるのかもしれない。果たしてそれが良いのことなのかどうかは分からないがともかく、そんな感を今回改めて強くした。自分にここまでのことができる自信はないが、自分がその月に読んだり観たりしたものについて、まとまった文章を書いてみることを課してもいいのかもしれない、部分的に真似してみよう、とも思った次第だ。
余談だが、この時評で荒木は、掌篇小説を以てトーナメント方式で闘う、参加資格にプロアマを問わないネット上のイベント「ブンゲイファイトクラブ(BFC)」について毎年のように言及して、短いながら評を述べている。ところが今年、その評のなかでBFCの書き手のことを「有象無象」と表現したことについて、主宰の西崎憲からBFCを貶めたとして表現の削除・修正を求められた。
たしかに「有象無象」には「取るに足らない種々雑多な人々」といった意味がある。荒木にはその意図はなかったというから、あまり適当な言葉の選択ではなかったと言えないこともない。その上でしかし、これは削除、修正を求めるまで怒るようなことだろうか、と皮肉ではなく、素直に疑問だ(公式サイトでは「傭兵のようなプロフェッショナルも」と書いていて、今日日、金のために戦に身を投じる人というニュアンスもある「傭兵」は良いんだ、とも思ったり)。第一、これが「差別主義者だ」などと言っていたのならまだしも、もし荒木が本心からBFCの人々を「有象無象」だと思っていたとして、その評価すらも許さないというのはいささか乱暴だし、「ファイトクラブ」と暴力的な名前を冠している割には随分とナイーブだ。物を書いて公に発表するのならば、自分がくだらない書き手だと評価されることがあるかもしれないことくらいは覚悟して欲しいものである。もっとも西崎は主宰の立場から、参加者を守らねばならないという使命感があったのだろうが。
私はBFCについては、開始当初からその内輪性に疑問を覚えていた。内輪性の是非はここでは措くが、プロアマ問わない、なんでもあり、という割にはそこに残る作品にはどうにも画一的なものを感じ、そこに乗れたなら良いのかもしれないが、乗れなかった私には、自分などはお呼びではないひどく閉じた仲間内での私的なお祭り、としか思えなかったのである。少なくとも、この活動で既存の文学業界になにか大きな変革を齎すとは到底思えなかった。今回の西崎をはじめBFCの人々の反応は、まさにこの内輪性(=外敵に対する防衛反応)が表れたものなのではないか、と考えていた。
すると、今回本書を読んで、荒木がBFCについて「なだらかに共有するテンションの持続に本来味わうべき差異よりも形式の画一のほうがせりだしてくる想いを禁じ得ない」とし、そしてこう言っていたことに膝を打った。
「勿論、創作するにしろジャッジするにしろ、参加して初めて意義のあるタイプの催しものであるだろうし、各人が楽しんだり得たものがあったならばそれ以上とやかくいう筋合いがないことも十分承知しているのだが」(67頁)
そう思いながらも何年間か作品をすべて読んで短いながら評文も書いていたのに、私の知る限りではまったく無視され、今回に限って一語を取り出して磔にされ絶縁状を突きつけられたことを、とても気の毒だと思った。作者が求めるものに反する評価は間違ったもの、作者を傷つけるものとして拒絶される状況のなかで、批評、評論とはどこを目指せば良いのか。そんなことを考えさせられている。
(矢馬)