2024年12月
10月末、自分への30歳の誕生日プレゼントとしてiPadを買った。外で作業するための道具として考えていたのだが、いまのところはそれ以上に、Kindleで漫画を読むのに使っている。だいぶ前にKindle専用端末も買っていたのだが、頁のめくり方などがどうにもしっくりこず、本棚で埃を被っていた。iPadは見開きにして違和感なく読めるのがいい。やっぱり漫画は見開きでなきゃ、というこの感覚は、しかしもう間もなく世の中から薄れていくのだろうか、と考えることもある。
そんなわけでいまは小説などよりもずっと漫画を読んでいるのだが、熊倉献『ブランクスペース』(小学館クリエイティブ)は、自分の好きなタイプの作品である一方で、違和感も含め、ちょっと一読ではまだ飲み込めない部分、考えさせられるところが多々ある作品だった。
恋に恋するような普通の女子高校生・ショーコはある雨の日、読書好きの目立たないクラスメイト・スイが見えない傘をさしているところに出くわす。スイは想像したものを実体化する能力を持つ。しかし対象はその仕組みを理解しているものに限られ、実体化したそれは透明で、スイ自身以外には見ることができない。なんの役に立つのか分からないそんな力にショーコは惹かれ、やがて二人は仲良くなる。
年度が変わり、二人はクラスが分かれる。ショーコの知らないところで、スイはクラスで虐められるようになってしまう。それを誰にも打ち明けられないスイはその鬱憤をぶつけるように能力でハサミを生み出して自傷行為に走る。やがてその想像の対象は拳銃から、ミサイルや戦車などの近代兵器へと移り、そしてカフカ『ジャッカルとアラビア人』から「飢えた凶暴な犬」、三島由紀夫『金閣寺』から「空から落下する巨大な斧」と、日常を破壊する「触り心地のある暴力」への志向と広がっていく。
スイが危険な方向に進みつつあることを知ったショーコはそれを止めようと、スイに空から落下する巨大な斧ではなく、空から降ってくる「彼氏」を作ることを提案する。人体の理解に苦戦していたが、ついに空からスイの彼氏・テツヤが降ってくる。辛い現実は変わらないが、自分を理解し寄り添ってくれるテツヤの存在に支えられるスイ。しかし、実はこのとき生み出されたのはテツヤだけではない。「飢えた凶暴な犬」もまた、この町に現れていて——。
この町、空代町はもとは「空白」と表記されていたという。この作品のテーマはまさにその「空白」である。何もない、というよりは空いている/空いてしまった空間=ブランクスペース。「人間たちが生活する中 たまたまできてしまうスキ間」である「その泡みたいな存在が物語を持つ」と現れるのがテツヤのような存在だ。スイは決して、なんでもかんでも創造できるわけではない。仕組みを深く理解したものしか作れない。その知識を彼女は本から得る。そして、彼女の想像力を刺激するのは小説や詩などの文学作品である。人の地に足のついた想像力が空白に物語を生み、そして物語がまた空白に想像力を与える。本作はまた、ひとつの「物語」論としての側面も持つ。
空白の漫画的表現も含めてなかなか意欲的な作品で、その試みはそれなりに成功しているように思う。好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きな作品だ。しかしその一方で、物語はやや消化不良に終わった感も、私には否めない。それまで人を好きになったことのないスイが、テツヤとの触れ合いなどを経て精神的に成長したのは間違いない。しかし、虐めが解決した訳ではない。ラスト、翌週に控えた新学期からまたスイは理不尽な暴力に晒されるだろう。「やっていくよ なんとか」とスイは言うが、そんな楽なものではない。スイへの虐めは、その原因がおそらくスイが「気持ち悪い」からであり、内容も、上履きにゴミを入れるなどの物に対するものばかりではなく、直接的な身体への暴力もある。こんな奴ら、一度くらいその頭上に巨大な斧でも落として教室をぶった切るくらいのことをしてやった方がいいのではないか、と思ってしまう私は、やはりいま、物語の力をそこまで信じられていないのかもしれない。思えば、最初にスイに引き金を引かせたのは、本が踏みつけられた後だった。物語、創造の力というものが強く信じられている、信じようとしているのがこの作品なのだろう。
もしこれをもっと文学に期待を抱いていた大学時代に読んだなら、あるいは10年後、20年後に読んだら、きっと引っかかるところがまったく違うのではないか。そんな風にも感じた。
本作は朝日新聞の書評で、「純度の高い文学的SF」と評されている。それはおそらく本作の雰囲気や表現であり、数々の文学作品を引用しているところを指しているのだろう。だが私はそこではなく、「既に見知っているはずの文章をなぜかまた読みたいと思うとき、読者はそれを純文学として見出している」(荒木優太)という点において、たしかにこの作品を「純文学」として見ているのかもしれない。この度に新装版が出版された同じ作者の短篇集『春と盆暗』(小学館クリエイティブ)と併せ、近いうち、私はこの作品を読み直していることだろう。
ところで、『ブランクスペース』でしばしば引用される作家のひとりが坂口安吾だが、その安吾の『堕落論・日本文化私観』(岩波文庫)を、このときちょうど読んでいた。子細を語れるほどはこの評論集を理解できてはいないが、しかし安吾という作家は根本的に反骨精神、もっと言えば潮流に対する対抗心が非常に強かったのだろう、と感じた。かの有名なファルス論についても、たしかに安吾はファルスが持つ意味が大きいとは思っていたのだろうが、それと同等、あるいはそれ以上に、笑いが軽んじられ、「泪」ばかりが価値のあるものとされる文壇の価値観に対する反抗がその根本にはあったのではないか。この評論集の中で、安吾は志賀直哉や島崎藤村などの文壇の中心人物をこっぴどく批判している。ここにもまた、文壇の評価に抗おうとする彼の反骨心が窺える。
そんな安吾の態度は、現代では「逆張り」「負け惜しみ」などと揶揄されることも多い姿勢だろう。いや、当時だってそうだったのかもしれない。実際、そういう側面もあったのかもしれない。しかし同時に、文学をやる者は多かれ少なかれ、みなこういった心を持っているものではないのか、とも言いたくなる。現状に満足する者、主流に違和感なく乗れる者が、果たして文学などに目を向けるのだろうか。そこにいくと、現代の文学はその実、随分と素直なものに思える。「正義」のお墨付きを得た価値観にフリーライドしていて、果たして文学はできるのか。現象としての潮流を疑うことは、決してその価値観を否定することにはならないはずだ。
そういった視点で自分を顧みてみると、決して強い信念からそうしている訳ではないが、とりわけ大学時代からの私はその時々の流行にはあまり乗れない人間ではあった。私が属していた学部はサブカルチャー的なものに関心のある人が多かった。(私はちゃんとは観ていないが)『花束みたいな恋をした』に出てくるような作品等が高く評価されるような空気があった、と私は感じていた。滝口悠生『茄子の輝き』は私も好きではあるが、『宝石の国』は途中まで読んでいたもののあまり乗れず、『ゴールデンカムイ』は手に取ろうと思ったこともない。音楽方面はほとんど知らず、押井守にもあまりコミットしていない。多くの人が揃って高く評価しているとかえって疑い、流されるようにして手に取るのもなんだか業腹で、たとえば保坂和志などは一時期、学生のみならず教授らも揃って褒めるが故に避けていたくらいだった。
そのおかげでたとえば小沼丹のような作家に接することができたが、こと漫画については、実のところ私は『宝石の国』のような高尚な(といったら怒られるかもしれないが)ものより、適度に軽い感じのものの方が好きだったりする。また、出版業において「エロ」が持つ力が、それこそ安吾が泪と笑いで対比したように不当に低く見積もられていることが気になっていたこともあり、電子書籍の単価が異様に安く、Amazonポイントがやたら付与されることも手伝って、柚木N’『カレシがいるのに』(秋田書店)を買ってみた。ざっくり言えば寝取られもの(と言うほど深刻でもないが)のオムニバス作品で、絵は水準以上だとは思う。しかし表現はかなり直接的、言ってしまえば性器が描かれていないだけであり、読む前からそんな予感はしていたが、これは成年コミックでやればいいのでは?との根本的な疑問が最後まで解消されなかった(実際、作者は過去成年コミックを多数刊行していたらしい)。
制限があるから表現は洗練されていく。『週刊少年マガジン』が一時期、袋とじとして露骨な性行為シーンを描いたおまけ漫画を付録にしていて盛り上がっていたが、少年誌、青年誌での露骨なセックスシーンの連発は逃げではないか。個々の媒体において、それぞれに相応しいエロの描写がある。最近は漫画に限らずアニメでも、モザイク的なものがあるだけで内容はほぼ18禁としか思えないような露骨な作品が散見される。この傾向が続くなら、漫画、アニメ業界のエロの表現は洗練からほど遠い場所に向かっていくのではないか。エロの表現のレベルが落ちるということは、言うまでもなく他の表現の水準にも波及する。それにしてもこの本の電子版の安さはいったいなんだったのだろう……。
そもそもこのような動機で本を選んだことが間違いだった。深く反省した。文学もそうだが、古典的な作品の方が良い。せっかくだから、名前は知っているけど巡り合わせの問題か、手に取ったことのない作品を読んでみよう。そうして選んだひとつが、PEACH-PIT『ローゼンメイデン』(集英社、愛蔵版全7巻)だった。『ローゼンメイデン』といえばかの昔、麻生太郎が読んでいたとして話題になったことがあった記憶がある。今にして思えばなんでそんなことで盛り上がっていたのかよく分からないが、それは措く。
本作のあらすじを述べる自信はない。ファンタジーということもあり独特な用語が多く、私はどんな作品でもそのような設定を覚えることができないので、本作の本当のファンのような楽しみ方はできていないと思う。これもまた『ブランクスペース』同様、近く読み直したくなるだろう作品になっていると確信しているが、いまのところでも、「闘うことって 生きることでしょう?」という本作の象徴的な台詞は身体のどこかに刺さっている気がする。短い命しか持たない人間と、ほとんど無限の時間にある人形が織りなす物語のテーマは一貫して、与えられた生を如何に生きるか、というところにある。この直球のテーマが、潔い。物語は大団円と言っても良いだろう結末を迎えるが、私の好みとしてはやはりこちらにある。
この作品について深く考えるのは、時間を置き、他のいろいろな作品や世界に触れてもう何度か読んでからにしようと思う。ただ個人的に驚いたこととして、本作で重要な位置を占めるアンティークドール「薔薇乙女」7姉妹のうち、ボーイッシュな第4ドール・蒼星石が異様に私の胸に響いたことがある。いままでいろいろと漫画を読んできたが、基本的にボーイッシュなキャラはあまり私の好みではなかった。蒼星石についても登場当初はそうなる予感がしていた。だが中盤以降に急に一番好きになり、いったいこれはなんなのだろう、と自分でもかなり戸惑っている。
ただ、そのキャラが好きだ、ということについて、格好つけて触れないこともできるだろう。だが、漫画にはそういった視点での楽しみ方も当然ある。それを俗な、低い水準の鑑賞だ、と否定することはできない。故にここではそのような素朴な感想も、場合によっては素直に記そうと思う。それしかできないだけだろ、と言われたら頷かざるを得ない。
そのほかだと、文学界隈ではおそらくとり上げられることはないであろうが、葵梅太郎『ひねくれ騎士とふわふわ姫様 古城暮らしと小さなおうち』(スクウェア・エニックス、既刊2巻)が、個人的にかなり気に入っている。それぞれが自分の安心して暮らせる「家」を持たずに生きてきた15歳の姫と23歳の騎士が辺境の古城で、二人には見える妖精たちの家を、姫のミニチュアクラフトの技術で作ってあげていく、というファンタジー作品だ。今後の展開に繫がるであろう伏線はあれど、今のところは深刻になりすぎないほんわかしたストーリーが心地いい。「論争」をせねばいられないSNSなどを見ていると勘違いしそうになるが、フィクション作品について、なにか考察したり、社会的見地から鑑賞したりしなくてはいけない訳ではない。
しかし本作は、15歳の少女と23歳の青年が婚約関係にある、という設定が、現代においてはなんらかの批難の対象にならないこともないのかもしれない(——といった心配をしてしまう自分に嫌気が差す)。無論、作者は多くの人に自分の作品を読んで欲しいと願っているだろう。それを承知の上で、しかし一読者としては、願わくば、有名になりすぎないほどほどの人気でこの二人の物語が続き、そしてひっそりと終わらんことを——そんなことも思ってしまうのである。有名になるとは、必ずしも良いことばかりではない。むしろSNSで必要以上に名前が出ても、リスクの割にリターンがあまりにも小さすぎる印象すらある。SNSの宣伝が実売にどれだけ反映されているのか。正直、甚だ疑問なのだが。
小説では、谷川流「涼宮ハルヒ」シリーズの最新刊が4年ぶりに出るという情報に接し、そういえばその4年前に出た12巻を読んでいなかったことを思い出した。これは良い機会だと『涼宮ハルヒの直観』(角川スニーカー文庫)を読んだ。何年か前、学生時代に好きだったライトノベル作家の新作を懐かしさもあって手に取って、しかしまったく文体に馴染めずにほとんど読み通せず小さくないショックを受けてから、久方ぶりのライトノベルだった。だが、本作はそのような違和感はほとんどなく読めた。その要因は何なのか考えてみているが、まだいまいち分からない。
短篇、中篇、長篇の3篇からなる作品集だが、予想以上にミステリー色が強い。米澤穂信の「文芸部」シリーズなどが近い。作者の谷川はミステリー研究部出身であり、その辺りの経歴が強く反映されているのだろうか。私がこのシリーズを読み始めたのは中学生のときだった。第1巻『憂鬱』や第4巻『消失』をはじめ、いま改めて読めばその構成の妙にもっと唸らされるのかもしれない。
上でキャラの話をしたから言うと、私は当時も今も、このシリーズでは対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイスの長門有希が好きだ。特に理由はない。初めて読んだ時から、無性に好きになってしまったのである。『涼宮ハルヒの消失』が映画となったときには、土曜日の封切りの日に授業後、午後からの部活をサボって友人と観に行ったことが良い思い出だ。
なぜだか分からないがどうしようもなく惹かれてしまうもの。キャラクターに限らず作品についても、そういったものとこれからいくつ出会えるのだろうか。2025年以降も、そんな邂逅を待ちつつのんびり生きていきたい。
本以外では、群馬県立土屋文明記念文学館の企画展「文豪・谷崎潤一郎 —美を追い求めて」(〜2025年1月26日)を観に行った。やはり谷崎という人間は、とりわけ女性関係において非常に問題があると言わざるを得ないと再認識させられる。『男流文学論』で標的になるのも当然である。それはそれとして、展示を観ていて、いままで避け続けてきた谷崎源氏が非常に気になってきた。読むなら「新訳」かな、と思うのだが、一番手に入りやすいのはおそらく「新々訳」だろう。さて、どうするか。
なにか大長篇にも挑戦したいと思う、今日この頃である。
(矢馬)