2025年2月
芥川賞に関心を持たなくなって久しいが、相も変わらずSNSではこの時期になると、文学周りので「論争」が巻き起こっているようだ。
今回の受賞者のひとりである安堂ホセは、過去に『IRREVERSIBLE DAMAGE』(KADOKAWAが邦訳の刊行を予定していたがトランスジェンダーヘイトだとの批判が相次いで刊行を中止。のちに産経新聞出版から『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』の題で刊行)について、読まずに批判することを公言していたという。
豊﨑由美によれば、芥川賞がそんな安堂を選んだことを理由に、賞そのものを腐す人がいたらしい。それを踏まえ、「安堂ホセ氏への授賞に怒って『芥川賞なんてくだらない』みたいなことを投稿してる皆さん、安心して下さい、あなたがたは文学から選ばれてませんから。どうか、文学のない世界で頭の悪い愛国精神を発揮なさっていて下さい。あと批判する際は読んでから、ね……あ、読めないか。」とXに投稿した。挑発的な物言いだが然もありなん。この発言をきっかけに、なにやらいろいろと議論が起きている、とのことである。
もっとも、この議論自体にはさほど興味はない。いまやあまりにもありふれた、SNS上であっという間に消費される「論争」のひとつに過ぎないようにしか思えないからだ。安堂の過去の発言についても、良くも悪くも最近の文学界隈では珍しくない種のものだし、そもそも豊﨑の言う「『芥川賞なんてくだらない』みたいなことを投稿してる皆さん」が一体どれだけ居るものなのかもよく分からない。ごくごく一部の声を取り出して大きな敵を作って叩く、これまたSNSでよく見られる言説のタイプのひとつ、といった疑念も拭えない。
強いて言うならば、わざわざ相手を煽るような豊﨑の言い方に対しては多少思うところがある。豊﨑は少し前に、けんごに代表されるTikTok書評の隆盛に対して、酔った勢いもありSNSで猛烈な批判をした。そのときの自身の行為について後日「反省」したと言っていたのだが、これを見るに、もうその反省を忘れてしまったのだろうと言わざるを得ない。そのことに対し呆れる気持ちはあるが、しかしこれは本題ではない。故にここでは、怒っているときに書いた文章を安易に表に出すべきはない、という普遍的な教訓だけを添えて、先に進もう。
それでもこの豊﨑の発言で一点だけ興味深いのは、「あなたがたは文学から選ばれてません」「文学のない世界で頭の悪い愛国精神を発揮」という箇所だ。
「選ばれていない」の部分について、選民思想的だという批判は妥当だし、私も同意する。私も嫌いな、文学界隈の嫌なところが出ている。
しかし一方で、たしかに文学を読める人とそうでない人はいるだろう、という実感もある。いくつもの文学作品を思い返してみる。どれも、とても万人が読めるようなものとは思えない。たとえば30人のクラスがあったとして、その全員が大江健三郎の小説に耽溺していたら、やはり気味が悪いだろう。大江作品が好きな人もいれば、こんなものは読めない、嫌いだ、という者もそれなりにある方が、よほど健全な社会だ。私の感覚では、大江作品好きは30人の中で1人、多くても2人くらいがちょうどいいと思うくらいだ。そんな風に考えてみると、「文学から選ばれていない」という物言いはやはり選民的でかなり気になるが、ここは一考には値するかもしれない。
そのうえで同時に考えるべきは、豊﨑のこの発言のなかでは「文学から選ばれていない」ことが、「頭の悪い」という知能や意識の低さを示すような評価と直結していることだ。そして今回のことで騒ぎがやや大きくなっている原因は、主にここにある。
いうまでもなく、このような価値観はなにも豊﨑に限ったものではない。「読書=良いこと」「読書家=賢い」といったイメージはやはりある程度は社会で通用しており、とりわけ読書・出版界隈ではこの図式をほぼ自明のものとした上で、露骨な言い方をすれば「本を読まない奴は馬鹿だ」「だから本を読みましょう」といった啓蒙的な言説を展開している。そこには、本が売れれば自分にも利益があるというポジショントーク的な要素も多分にあるだろうが、しかしそれだけとも思えない。彼らは本心から、それも善意や正義感でそのような言説を繰り広げているように感じられる。
たしかに、読解力、知的能力の問題もある程度は存在するのだろう。しかしながら、読書においては資質、嗜好、向き不向きといった要素も大きいとは考えられないか。運動能力が、やはりある程度は先天的な部分や生まれた環境によって決まってしまうのと同じように。
昨今の文学業界は、マイノリティへの理解が主要テーマになっている。無論、そこに意義はある。一方で、そのようなことを訴える作家が文学や小説、本に親しまない人々に対してはあまりにも冷淡で、どこか侮蔑の眼差しを向けているように感じられることについて、私はここ数年、ずっと考えている。人間は時にして、外よりも内のことの方が見えていないのである。
読書とは知的な活動であり、それは知的コミュニティに属することの証である。そんな認識はいまだそれなりに社会で共有されている。だからこそ人は、自分が本を読まない/読めないことを恥じ、「なぜ本が読めないのか」と悩むのかもしれない。三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(光文社新書)が大ヒットした理由のひとつは、ここにあるのではないか。少なくとも私には、働いていると本が読めなくなる理由よりも、なぜこの本がここまで売れたのか。そのことの方が気になっているし、おそらくここに、なにか重要な問題点が隠れているような予感がしている。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にもその気はあるが、作家や読書好きが読書を勧めるエッセイを書くと、「小説を読むと他人への共感力が増す」「思考力があがる」「思いやりの心が育つ」「語彙が増える」などとプラスの効果を語る。しかし、その大半はその人(読書家)の身近な数例を元にしていたり、漠然とした印象論だったりする。いかにもそれっぽいのだが、しかし本当にそうなのだろうか。
猪原敬介『読書効果の科学 読書の“穏やかな”力を活かす3原則』(京都大学学術出版会)では、皆が当たり前のように語るそういった読書の「効果」を証明するための研究・調査がどれだけ、そしてどのように行われているのかが示されている。読書家が訳知り顔で語るその「効果」の検証に、本気で挑み続けている人々がいるのだ。「ただ一言『読書は○○を伸ばす』というだけのために、多くの研究の蓄積と議論のぶつかり合いがなされていることを感じ取っていただけたのではないだろうか」(240頁)。本書の趣旨のひとつは、この言葉に尽きる。
「読書は言語力を伸ばすか」「読書は人格を高めるか」「読書は心身の健康に寄与するか」「読書は学力や収入を伸ばすか」。主に子どもの教育をテーマに行われてきた世界の研究では、読書家が望むような結果ももちろん出る一方で、たとえば「中学3年生の国語の成績において、1日の読書時間が30分未満までは読書時間が長いほど成績が良いが、30分を超えると読書時間が長いほど成績が落ちる」といった、彼らの期待に反する結果が出ることもある。
あるいは、確かに効果は見られるが、読書をすればがらっと変わるといったような劇的な効果まではそうそう期待できない、という結論も見えてくる。そして、本が読めるか読めないかについては遺伝的資質に因る部分も大いにある可能性も示され、良し悪しの問題ではなく、そもそも読書が合う人と合わない人がいる、とも述べられるのだ。これまで高らかに読書の効果を謳ってきた人には不都合なことかもしれない。だが、それも当たり前のことだ。世の中、そんなに自分にとって都合の良い事実はないのである。自分の主張にそった事柄だけを選んで並べ、いかにも真実っぽく語ること。それは陰謀論の構図とそう変わらない。
長くなるが引用しよう。
読書行動が遺伝の影響を受ける以上、読書が合う人と合わない人がいるのは事実である。100%遺伝によって「決まっている」などと言うつもりはなく、読書教育の影響によって読書行動が変化することはあるだろう。しかし読書が合う児童には、ちょっと本を薦めるだけで読書行動が変化するかもしれないが、読書が合わない児童には、同じ変化を引き起こすのに、保護者・教育者の多大な労力と、なにより本人への大きなストレスが発生するだろう。
果たして、そこまでの苦労をしてまでも、読書でなくてはならない理由があるだろうか。筆者にはそうは思えない。図0−2に示した広範な読書効果が確かに魅力的である。読書本来の「楽しさ」「知識獲得」という目的を果たしながら、言葉、人格、精神的健康という読書以外では高めることが難しい領域についても直接効果を持ち、間接効果として学力、仕事(収入)、身体的健康へのプラス効果が見込める。(中略)
しかしそれは、あくまでも「読書が合う人にとっては」という前提がつくものである。読書そのものが合わない人にとって、上記のメリットはすべて絵に描いた餅にすぎない。読書は社会にとって有益で、教育の中心として存在して良い活動であると筆者も考えるが、読書が教育の中心にあることで、読書が合わない児童・生徒を苦しめたり、除外したりすることになるのであれば、いずれ読書は教育から追いやられるであろう。(246頁、太字は原文ママ)
読書を勧めることはなにも悪くない。読書ができないことを理由に劣等生と見なすことが良くないのだ。これが教育現場に限った話ではないことは、改めて述べるまでもないだろう。
今月読んだ漫画は、図らずも読書や本がテーマであったり、道具として大きな役割を担っている作品が多かった。
イマイマキ『あのこが好きだった本』(光文社)は、もともと本を読む習慣がなかったが「人を知るため」に本を読むようになった主人公の嘉山と、各々読書が好きな人々との交流が描かれる。読書好きには心くすぐられる描写も多々あるだろう。
しかし、シンプルな線と、1話10頁に満たない短さもあってか、全体的にあっさりしすぎていてあまり印象には残らなかった。嘉山は複数の女性と付き合っており、彼女たちとの性的な交わりが事後的な表現ではあるものの描かれるのだが、これが作品の雰囲気のなかでどこか浮いているように私には感じられ、なぜこんな描写を入れたのだろう、との疑問は解消されない。
飄々としているように見える嘉山だが、中盤で、学生時代に両親の無理心中により母と妹を失い、父は心神喪失により施設に入り、ずっと会っていないことが明らかになる。彼が「人を知」ろうとする理由がこの過去に起因するのは明白だが、そこから導かれる結末も、あまりピンとは来ない。
雰囲気で押す作品というのが、漫画や小説に限らずある。このとき、読者にその雰囲気が刺さるか刺さらないかは非常に大きな意味を持つ。本作はその部類に入る作品だろう。そして、その雰囲気が私にはあまり合わなかった。これもまた、良し悪しの問題ではない。
その上で、人のことを知るために本を読むという設定と、そういった本の用いられ方が、やはり紋切り型というか、あまりにも綺麗すぎるように感じたことも事実だ。無論、紋切り型が悪いわけではない。ただ、上述のように私はそのような本の語られ方にずっと違和感を持ってきた。その意識が作品への没入の邪魔をする。近頃、本であったり、芸術的な表現行為を礼讃する種の作品をしばしば見るが、そういったものにはどうにも手が伸びない。その意味でも、やはりこの作品は、少なくとも今の私には合わなかったのだろう。
石黒正数『それでも町は廻っている』(少年画報社、全16巻)の主人公・嵐山歩鳥は読書好きだ。特に推理小説が好きで、自分で小説を書いて投稿したこともあり、将来の夢は女子高生探偵だと語っている。
もっとも、本作のメインテーマは小説ではない。ジャンルとしては、商店街の喫茶店でメイドとしてアルバイトをする歩鳥とその周りの人々が織りなす日常コメディだ。日常とは言うものの、描かれるのはタイムトラベラーや宇宙人などのSF要素、それこそ謎解きといったミステリーのエピソードも同一平面上で繰り広げられる、少し不思議な日常だ。時系列がシャッフルされているのも大きな特徴のひとつで、およそ3年間のことが話ごとに行ったり来たりして語られ、思わぬところで伏線が回収されることもある。
この時系列シャッフルは、しかし現実に日常を「物語る」ときのことを考えると、むしろその方が自然というか、本来はそういったものなのではないか、ということに思い至る。日常にさまざま起きる事件は、必ずしも直線的な時間軸で把握され、そして時系列で語られるわけではない。あるまとまった時間の「これまで」と「これから」を丸ごと内包したものが「町」であり、そしてそれは「廻っている」のである。
特に印象深いのは第124話「大事件」。最初の頃はかなり粗も目立った歩鳥の推理力だが、3年生になる頃にはなかなかに鋭くなっている。この話では自身に向けられた脅迫状の一枚の写真から、その送り主がある女性教師だと暴く。この女性教師はこの学校の生徒だった時代に数学教師の森秋に思いを寄せていた。そんな彼女の告白は、しかし教師と生徒という関係性からにべもなく断られた。だが教師となったいまもその思いが消えることはなかった。そうして森秋のことをつけ回すなかで、森秋が、過去の自分と同じ生徒である歩鳥とは教室に二人きりで過ごしたり(実際にはただの補習)、休日に一緒に食事をする姿(ただの偶然)を見て、嫉妬の炎を燃え上がらせたのだった。
真実を突き止められた女性教師は歩鳥と、歩鳥を庇って間に入った真田に暴行を働き、歩鳥への脅迫ともども森秋の知るところとなる。結果として彼女は教師の職を辞し、故郷へと帰っていった。
結果として大手柄をあげた形になった歩鳥だが、しかし後日、嘆息するようにこう洩らす。
学校で事件でも起きやしないかなんていってたけど 本当に事件が起きりゃ加害者がいて被害者もいて 暴いた所で皆傷つくんだよ
小説世界と日常の生活。その間、あるいは入り交じったところに立ち上がる「町」。いわゆるネット言論に大きく欠けているのは、もしかしたらこの「町」のような感覚なのかもしれない。そしてなにより重要なのは、それでも歩鳥は書くのをやめなかったことにあるのだろう。
こういった漫画を読んでいて、ふと思い出して書棚から取り出してきたのが町田洋『砂の都』(講談社)だった。人の記憶にある建物が建つ砂の町を舞台にした連作短篇で、やがて崩れていく砂という物質性と、細い線に最低限の背景という絵がマッチし、儚さが全体に滲む佳作だ。
本作のヒロインの姉は、5年ほど前に文学誌の新人賞を受賞したのちにこの町を出ている。ヒロインはそんな姉の作品に心酔し、デビュー以来発表されていない新作を待ちながら、自分でも小説を書いている。
そんな姉が、夫を連れて帰省してきた。しかし、以前は「女という型」に怒っていた姉は、夫の横ですっかり肩の力が抜けたような笑みを見せている。自作の小説への感想を求めるヒロインに姉は「物語に興味を持てないの」「書けないの からっぽで なぜかしら」、しかし「でも苦しくはない」とこぼす。そして、
いつかは消えてしまうものを 売り物にしてしまった
この一言は、ものを書く者にずしりと響く。このときヒロインが書いた小説は、この町を舞台にした物語だった。砂の家が建ち、そして崩れることを繰り返すこの町もまた、いつかは消えてしまうものだ。いまの気持ちも、やがてはみんな忘れてしまうのだろうか、と悲しむ彼女の言葉は、人が物語を書く大きな動機のひとつだ。一方で姉は、それを売り物にしてしまったことが筆を折る要因になった。ここには出版、あるいは言葉を発信することの宿痾があるとも言えないか。このジレンマと向き合い、葛藤し続ける覚悟を問われている。
「町」と「記憶」と「物語」をテーマにした本作は『それでも町は廻っている』とどこかで通底している——と言うのはさすがに強引すぎるだろうか。
このほかには久米田康治『かくしごと』(講談社)が、漫画・漫画家がテーマの作品で、こんなにもモチーフが重なることがあるものなのだろうか、とこの一月を振り返ってみておもしろかった。
講談社の作品が並んだなあ、と思ったところでひとつ余談。北条裕子「美しい顔」の剽窃問題を巡る一件で、講談社不買運動が一部で立ち上がった記憶がある。これもまた、実体はどれだけのものだったのか分からない。それはそれとして、しかし当時高らかにそう宣言していた者たちの、いったいどれだけがこれを完遂できているのだろうか。そもそも、自分がそれを言ったことをどこまで覚えているのだろうか。あれからさまざまな不買運動がSNS上で巻き起こるようになったが、その度にふと考えてしまう。私が当初から、いわゆるハッシュタグ社会運動にいまいち乗れないのも、この経験が大きく影響している。
さて、私はこの1、2年、話題となった新書——具体的には『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』と『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』(稲田豊史、光文社新書)——を手に取って後悔してきた。だから、話題先行で売れ筋の新書を手に取るのはやめよう、と自分を戒めていた。だが、性懲りもなく読んでしまった。桜庭一樹『読まれる覚悟』(ちくまプリマー新書)である。
「書き手の心を守り、読む/読まれるという営みをよりいっそう豊かにしていくための《読まれ方入門》」との煽りだが、本書が桜庭作「少女を埋める」評を巡る鴻巣友季子との応酬にその執筆の動機があることは明白だ。当時、その「論争」をそれなりの問題意識をもって見ていた者として、やはりまったく無視することはできなかった。
きっと文句を言いたくなるんだろうな、とそれでも手に取る自分に呆れながら読み進めたが、それは杞憂に終わった。桜庭の意見に共感したからではない。本書で書かれていることにほとんどといって良いほど関心を持てなかったからだ。私が怖れすぎていたせいか、全体的に肩透かしを食らったようだった。
誰もが意見を発することができる現代社会で作家がサバイブする術をエッセイ的に語っている本書だが、その考察は、どれもどこかで聞いたことがあるような表層的なレベルのものにすぎない。いくらエッセイとは言っても、売れっ子ベテラン作家・桜庭一樹の名と、そんな著者だからこそ体験できたエピソードを隠したとき、果たして今ほどの評価を受けられるのだろうか。
つまるところ、ライトすぎるのだ。それは著者の意識が低いということではない。本人にとって切実であることは伝わる。ただ、それを語る文章と、全体を支える理論的根拠が弱いのだ。広い層に読んでもらいたい、という著者と編集の意図は理解できる。しかしながら、本書のようなテーマは非常に複雑で、センシティブな論点をいくつも抱えている。著者は「小説家による『小説の書き方入門』はありますが、『小説の読まれ方入門』はなかなかなかったのではないかと思っています」と言うが、当たり前である。まずもってそれを語るのは困難である上に、それを書く側が言うのはさすがに恥ずかしいという意識もあるだろう。またそれは、読者にそのような読み方を強いる力として働きかねない。著者自身もダイレクトに意見を投稿できる時代においてはなおさらだ。慎重になるのは当然だろう。
著者は「批評家と小説家の間に、対等ではない権力の勾配が存在する」と言うが、同じことが小説家と一般読者の間についても言えるのである。果たしてそこにどこまで自覚的であったか。たしかに、そのような旨について言及がない訳ではない。だが、批評家に向ける厳しさと比べると、自分(小説家)に向けるそれはあまりにも優しい。他人に対するのと同じ尺度を以て自分自身を見ることがいかに難しいか、改めて思い知る。
身も蓋もないが、やはりこのテーマを扱うのであれば、新書判176頁のエッセイという長さ・ジャンルでは無理があったのではないか。なにより、本書は明らかに鴻巣友季子への批判が込められている。対象が明確である批判には、それ相応の覚悟と時間が求められるだろう。
ところが、その鴻巣の名前が、本書では不自然なほど出てこない。匂わせはある。「新聞の文芸時評」について、「毎月、たとえばディストピアや介護離職など、社会でいま興味を持たれていることをテーマに選び、新作小説を数本紹介しながら、テーマについても語り、最後にオチもつけるという短い論評」と例を挙げるが、これは露骨に鴻巣の朝日新聞の文芸時評のことだ。あるいは「おわりに」では、「少女を埋める」を巡る論争について説明するものの、そこでも「文芸評論家」と言うだけだ。
そうか、意地でも鴻巣の名前を出す気はないのか、と納得した矢先である。「少女を埋める」について触れた「ある読書会のZINE」を引用しているのだが、その中には「今回の鴻巣さんの仕事についても」との一節が出てくるのだ。確かに引用文だから、そこに書かれていたら仕方ないのかもしれない。だが本書でこの名前は初出なのだから、本来なら「鴻巣(友季子——引用者註)」などと入れるべきものだ。また、意地でも出さないなら「○○さん(原文では実名)」とすることもできた。中途半端だ。批判はしたいが、しかしどこかはぐらかそうとする。邪推かもしれないが、そんな意図を感じる。
著者は批評家の冷笑的な論評を批判している。だが、それをされた作家のSNSでの声などは取り上げる一方で、その冷笑的な論評の具体的な例についてはまったくと言って良いほど言及しない。かつて新人小説月評で冷笑的に自作を評されたという西崎憲のXでの発言を引用し、「批評家の側から『自分はこの小説を評価しないが、理由を論理的に説明することもしない』『冷笑的にイジることしかするつもりがない』という意思が伝わってきてしまいます」と言うが、しかしその当の新人小説月評を見なければ、それは判断の仕様がないのではないだろうか。
議論の進め方としてアンフェアだ。学術的な文章であればほぼ間違いなく撥ねられるだろうし、はたしてエッセイだからと言って、このテーマを語ることにおいてそれを許容して良いものかどうか。著者は、作品をちゃんと読まずに批判することをきつく戒めている。——はっきり言おう。ミイラ取りがミイラになっているように、私には見える。
なぜこのような論述スタイルになったのか。思うに、最初から作家側に大きく肩入れしていることもあるが、それ以上に、余計な火種を生むことを避けようとしたことがあるのではないか。具体名を出して批判すれば、どうしても角が立つ。だから、ふわっとした総体としての冷笑系論評を批判した。鴻巣の名前を直接的には挙げなかったのもその表れのように私には思える。
だが、そのようなやり方で現代における小説、文章の「読まれ方」を本当に論じることができるのだろうか。本書の書評で、「近年ネット上で話題になった書籍どころかネット記事、さらにはSNS上のポストそのものまで引用し紹介していく」本書のスタイルが、「少女を埋める」の実質的続篇「キメラ」「夏の終わり」にも共通していることを指摘し、「この閉域にいつまでも釘づけになり、そこで起きる諸々の業界的トラブルやリプライ論争を『文学』や『批評』の本格的な問題だとみなす、そうした私たちの視野狭窄自体を問題にすべきではないか」と問題提起する森脇透青は、「『読まれる』ことへの防御策」や「リスクヘッジ」を超えた覚悟、すなわち「書く覚悟」の必要性を説く(「『リスクヘッジ』を超えて」「ちくま」2025年2月号所収)。ミクロな点で言えば、本書にはまず、鴻巣友季子の名前をしっかりと書く、その覚悟が欠けていたのではないか。それがあれば本書はいわゆるエッセイではなく、エッセ・クリティックの書になりうる余地が十分あっただけに、もったいなく感じる。そしてこの「書く覚悟」の問題は、冒頭に述べた芥川賞をめぐる「論争」や「不買運動」にも通底するだろう。
今月は他に、蚕がモチーフとなっているほそやゆきの『シルク・フロス・ボート』(講談社、既刊1巻)を読んだ。大きな衝撃を受けたのだが、これをどのように言語化すればいいのか、考えがまとまっていない。まだ繭を作るまでにも至っていない、ということだろう。糸として紡ぐまでには時間が必要だ。本作についてはじっくり、桑の葉を食むようにしながら考えていこうと思っている。
(矢馬)