2025年3月
本を読むとは、かくも大変なことかと改めて思い知る。
いくつかやらねばならぬことが重なるともう本を手に取る気力は起きないし、なにもなかったらないで、もう少し軽く時間を潰せるものに手が伸びる。
読書をしない人々を見て嘆く読書家が見落としがちなのは、そもそも本を読むというのはわりかし難しい、ということだ。ましてや自発的に、自分のお金と時間と体力を進んでそこに投入するとなると、その実、かなり特異ですらあるのかもしれない。
私が読書家としては極めて怠惰な人間であることは認めた上で(もっとも、私は自分のことを「読書家」とは謙遜の意ではなく本心から微塵も思っていないし、他人からそう言われたら積極的に否定するつもりだが)、しかしたとえば作家や大学教授の対談や講演を見ていて、なんでこの人たちはこんなに多くの作品のことを知っていて、内容まで記憶しているのだろう……本当に全部を「読んでいる」のか? とつい訝しむことがしばしばある。
無論、書評家のように本を読むことが仕事の大きな部分を占める人もある。しかし彼らとて、読む「だけ」でお金が入るわけではない。むしろそれ以外のことをしている時間の方が圧倒的に多いわけで、可処分時間のすべてを読むことに充てるというのはあまり現実的ではない。そもそも、過去に読んだものの内容をどこまで正確に憶えているのか。本を多く読めば読むほど、その疑念が付き纏う。
ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳、ちくま学芸文庫)は、自身も大学教授として教壇に立つなかで、読んでいない本について語り、評価を下すことがあるが、人はその本を読んでいなくてもコメントをすることができるし、むしろ読んでいない方がいい、とすら言う。おそらく真面目な読書家ほどこのような言説には反感を覚えるだろうが、しかし彼らとて、中身をまともには、あるいは一切読まないで評価したり批判している本があるはずだ。日頃の会話を考えると、私たちは案外、ちゃんとは読んでいない本や作品について普通に語っているものである。
私が本書において最も関心を抱いたのは、「本を読んでいる/読んでいない」とはどういうことなのかを知ることは非常に難しい、という箇所だった。
たとえば「読んでいない本」にも、①ぜんぜん読んだことのない本、②ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本、③人から聞いたことがある本、④読んだことはあるが忘れてしまった本がある、と著者は言う。②と④は「読んでいない」とは違うではないか、という反論もありそうだ。それはある面では正しいが、たとえば流し読みについては、「流し読みではちゃんと読んだことにはならない」という、平野啓一郎的な速読批判が思い出されるし、内容をほぼ完全に忘れてしまったならそれは読む前と実質的にはほとんど変わらず、それについて語ろうにも、「読んだには読んだはずだけど……」と口ごもらざるを得ない。
一方で③については、自分では読んだことはないのだが、メディアやSNS、友人たちが盛んに語っている作品などは、ちょっと読んだことのある作品よりも内容をよく知っているケースもある。果たしてそれは「読んでいない」と言えるかどうか。このように考えると①についてさえ、私たちはそれを本当にまったく「読んでいない本」と言い切れるのかどうか、疑わしくなってくる。
そして、「読んでいない」と表裏一体の「読んでいる」も、普通人間は本の一語一句をすべて暗記できるわけではなく、記憶というものは曖昧なものだから、「完璧に読んでいる」と言い切れる場面はほぼ皆無だ。同じ本について語り合っているはずなのに、話を聞いていると相手が別の作品の話をしているように感じられ、自分が「読んでいる」と思っていたそれの輪郭が揺らいでくることが多々ある。「作品」とは、それほど確固たる存在ではない。
本書の言葉を借りれば、「われわれはたいていの場合、『読んでいる』と『読んでいない』の中間領域にいる」(64頁)のだ。
この考え方は、たとえば次のような一節にも繫がってくる。
われわれが記憶に留めるのは、均質的な書物内容ではない。それはいくつもの部分的な読書から取ってきた、しばしば相互に入り組んだ、さまざまな断片であり、しかもそれはわれわれの個人的な幻想によって歪められている。(100頁)
これは先月にも触れた鴻巣桜庭論争を考える上でもかなり有効な補助線となりそうだと私は感じた。念のため確認すると、とりあえず『読まれる覚悟』の参考文献に本書はなかった。
少なくとも、あまりにも唐突に出てきた上に、「日本特有のコミュニケーション術」というが私にはどうにもそれが眉唾ものにしか思えない「共話」の概念よりは、ダイレクトにこの問題に響くだろう。今の桜庭一樹はこういった本は嫌いそうだが、賛成するにしても反対するにしても、本書で提示される「本を読んでいる/読んでいない」の考察は「読まれる」ことについての論を深める上で新たな視点を与えてくれると思う。まあ余計なお世話だろう。
テクストの内容というのは不鮮明な概念である。何かがそこにない【傍点2字】とはなかなか確言できないものなのである。(240頁)
論争中、果たしてこの問題に踏み込んだ評言はあっただろうか。だからといって何でもかんでも解釈の余地がある、ということはないが、しかし書いていないことはないと言い切ってしまえば、果たして本を読むこと、そしてそれをもって語らうことの魅力は大幅に減じることになる。非常に繊細で複雑な問題なのだ。
本書の胆は、おそらくいまここで書いたようなことではないはずだ。これもまた、最初に引用した「個人的な幻想」により、いまの私にとっては本書がこのような形で「読まれた」という一例であろう。
『読んでいない本について〜』には、「ある本をまったく読んでいなくても、それについてまっとうな意見を述べることはできるという話」の一例として、アフリカ西海岸のティヴ族にシェイクスピア『ハムレット』を紹介した研究が挙げられる。彼らは『ハムレット』を読んだことはなく、かつ文化を異にするため、西洋的な主流の読み方からは創造できないような、しかし彼らの文化、価値観に基づく、それはそれで明確な評論をする。それは「その書物を読んでいたらもたらしえなかったかもしれない独創的な解釈」ですらある。
このような独創的な解釈は、いま難しくなっているように感じる。「主流」の解釈であったり、影響力のある他人の意見をあまりにも容易に知ることができてしまうからだ。SNSなどを眺めていると、皆が同じ文法で、同じような内容を喋るようになることを気味悪く思っていた。どこか他人の言葉を反復しているだけのように感じる。読書によってその書物(=他者)に従属させられる、過剰な読書は独創性を奪うこともある、として読書の危険性を認識していたヴァレリーが思い出される。
これを読んだ後だったからだろう、映画監督のアキ・カウリスマキがフィンランドの人口9000人の小さな町に映画館を作る、そのときの町の人々の語りなどを描いた映画「キノ・ライカ 小さな町の映画館」(監督ヴェリコ・ヴィダク)で最も印象に残ったのは、最初の方に出てきた、乗馬中のふたりの女性の会話だった。
その内のひとりが言う。「昔、『自転車泥棒』という、多分1940年代か50年代のイタリア映画を観たことがある」。ヴィットリオ・デ・シーカ監督作『自転車泥棒』は、ネオリアリズモ映画の代表作のひとつだ。その感想が語られるのかと思いきや、しかし彼女はこう続ける。
「そのとき放映ミスがあって、ポルトガル語の字幕になってたの」
ウラル語系のフィンランド語とイタリック語系のポルトガル語ではだいぶ異なる。そして映画内で話されているのは当然イタリア語だから、これでは話されている内容はほとんど分からないだろう。同伴者は笑う。だが彼女は、そのミスに文句を言うでもない。むしろ、「とても良い作品だった。言葉が分からなかったことで、かえって最高の鑑賞になった」と懐かしむのだ。
なにを話しているのか分からないのに「良い作品だった」と言えるなんてあり得ない、それは雰囲気を味わっただけで、「本当に」その映画を観たことにはならない、そう異議を申し立てる人もあるだろう。一見もっともな意見だ。しかしティヴ族の話を知った後では、なるほど、そういうこともあるのかもしれない、と思えてくる。言葉の意味が分かっていたらもたらしえなかった独創的な解釈ですらあるのではないか、と。絵画作品が、必ずしもその作者や作品の背景、技術的到達点などを知らずとも評価でき、むしろそれを熟知しているが故に抱けない感想があるように。いやそもそも、もし雰囲気だけを味わっていたとして、それが正しい鑑賞、感想ではないとする謂われがあるのだろうか。
彼女が観た『自転車泥棒』とは、いったいどんな映画だったのだろうか。大して映画を観ない私が、偶然にも一度観たことがある作品であったがゆえに、余計に気になる。
しかし、偶然というものは恐ろしく、そして素晴らしいものだ。ここまでの記述から言うまでもないことだろうが、私はアキ・カウリスマキのファンではない。作品は観たことがなく、名前をなんかの雑誌で目にしたことがある、レベルの認識だ。
ではなぜ、そんな私が、決してメジャーとは言えないだろうこの作品を観たのか。それは、自宅から割と近いところにカフェが併設された小さいシアターがあるということを少し前に聞いていて、休日出勤の代休に、天気も良さそうだからせっかくだし一度足を運んでみようか、という映画館ありきの動機からだった。その上でその日、昼から夕方辺りの時間帯に順番に上映される3作品のなかで、一番興味がありそうなものを直観で選んだ。それがたまたまこの作品だっただけなのだ。
そして、その1週間前に『読んでいない本について〜』を読んでいなかったならば、上記の女性のエピソードはさほど印象に残らなかったはずだ。作品とは、かくも複雑な網の目の中で個別的、かつ刹那的に立ち上がるものなのかもしれない。
ちなみに、作品自体は思いの外、構造が難しかった。最後までいまいち理解できなかったが、しかし妙に印象的なシーンは数多く、全体的には悪くなかったし、どちらかと言えば好きな作品だと思う。たまにならこういった映画を観るのも良い。そしてそれは大劇場ではなく、こぢんまりとした名画座のような場所が私にはちょうどよさそうだ。家でだと、却って観ようとは思えない気もした。というよりもそもそも、滅多に家で映画を観る気にならないんだよなあ……。
今月はひとり旅行もした。その間で読むのにちょうどいい漫画はないかな、と思っているときに見つけたのが、山田鐘人『ぼっち博士とロボット少女の絶望的ユートピア』(新装版・上下巻、小学館)だった。『葬送のフリーレン』の原作者として有名な作者だが、この作品では絵も描いている。
シベリアの山間部に大きな隕石が降ったのちに未知の伝染病が世界中で大流行し、人類の大半が死滅した地球を舞台に、数少ない生き残りの博士と、彼が友達になってもらうために作ったロボットの少女が、生存者を探しながら営む日常生活を描く。
基本的には博士の言動に対し、ロボットの少女が悪気なく辛辣な言葉を吐く、そんなコメディ作品ではあるのだが、ぼっちとなっていった博士の過去のエピソードで描かれる人間の心情の機微が等身大で、じんわりと、ちりちりとした小さな痛みを伴いながら、心に沁みる。設定はSFだが、この部分は妙にリアリティがある。最近の文学などでもしばしば見受けられる、現代的価値観に反する人間を描きたいのは分かるが、相当に倫理的にぶっ飛んでいて社会通念を大きく逸脱しているような者を除いて、そんなことを平気で言う人間が現実にどれほどいるのだろうかと思えて仕方のないような説得力に欠ける露骨な人物造形は、そこにはない。私は露悪的な作品が基本的に嫌いだ。私の視野が狭いのか、最近はそんなものばかりでうんざりしていた。そんななかで、これは得がたい作品だった。傑作とは言えないかもしれない。あまり売れなかったという話も聞いて、うべなるかな、と思わないでもない。だが、こういう作品があってもいい。
荒廃した世界での幸せな日常は、しかしいつまでも続くものではない。病魔は博士の体も着実に蝕んでいる。残された時間が長くないことを理解している彼は、だから自分以外の生存者を探す。自分亡き後、彼女をひとりに、「ぼっち」にさせないために。
この、微笑ましい日常のなかに、いつか訪れる別れを感じさせる切なさは、『葬送のフリーレン』において、1000年以上生きるエルフのフリーレンに対して、長くても100年が寿命の人間・ヒンメルが向ける愛情と言葉に滲む色に通じるところが確かにあるように感じる。もっとも私は、例の天の邪鬼が災いして『葬送のフリーレン』をちゃんと読んだことがないのだが。
最後に、人権・自由・平等を人間にもたらした近代は、しかしそれゆえに個々の人間を国家という枠組みに捉えていく側面もあると喝破する渡辺京二『増補 近代の呪い』(平凡社ライブラリー)は、現代のSNSなどにおけるリベラル論客やグローバリズム批判の担い手がおそらく見て見ぬ振りをしているジレンマを突きつける。
国民の一人一人が国政や外交方針などについて、十分な知識と見識を持たねばならぬなんて、しんどいことじゃないでしょうか。現実には、国民一人一人が国政に参加して論客となれば、そこに出現するのはメディアに煽動されたポピュリズム政治であることが多いようです。(47頁)
これは2010年の講演での言葉だが、あまりにも現代の社会状況そのままで笑うことができない。知識人(もどきも含む)はしばしば、政治に無関心な若者を叱責し、彼らのような存在は国を悪くしているかのように糾弾する。他の価値観についてもそうだ。いまはとにかく、関心を持たないでいること、それ自体が悪とされる。
たしかに、関心が払われてこなかったことで傷ついてきた人々がいたという事実に向き合うことは必要だ。しかしあえてこう言えば、全員が全員、政治に深く関心があるわけがないのではないか。そして、それは本当に「悪い」ことなのか。
選挙の度に、投票率の低さを持ちだし、この人達が投票に動けば政局が変わったかもしれない、などと与党批判者はよく言うのだが、私にはどうにもそれはあまりにも楽観的な想像にしか思えない。仮に強制投票させて投票率100%が実現したとして、各党の得票率はさほど変わらないか、むしろ政権与党やポピュリズム政党に票が集まるのではないか。というか、無理やり投票させたら多くは現政権を担う与党に投票するような……。昔からこの種の言説を聞く度にそうおぼろげに考えていたのだが、昨今のアメリカや兵庫県の事例を見ると、10代の私の直感も案外バカにならないのかもしれない。バカな考えであって欲しかった。
地下鉄サリン事件から30年。オウム真理教のドキュメントがテレビで流れていたので横目で見ていると、1990年に真理党が国政選挙に出た際、もっとも票を集めた麻原彰晃でも0.3%の得票率だった、と言っていた。
私は背筋が凍る思いがした。なぜか。現代なら、麻原をはじめとした真理党の候補者はもっと多くの票を得ているだろうな、と自分が思っていたからだ。それも自然に。
こんな世の中でものを論じるとは、文学を読むとは、いったいなんなのか。この絶望的な地平からものを考える必要があるのかもしれない。
余談。書店でこの本を手に取ったときに、平凡社ライブラリーが「半藤一利『昭和史』だけが平凡社ライブラリーじゃない、フェア」と題した一括復刊フェアをやっていることを初めて知った。復刊は結構なことだしキャッチーな名称が必要なのも分かるが、しかしそこまで卑下することはないだろう、とちょっと複雑な気持ちになった。
平凡社ライブラリー、私はなかなか良いレーベルだと思っている。5、6冊くらいしか読んだことはないが。
(矢馬)