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読書日記的備忘録 2025年4月—エッセイ/批評の時代

2025年4月

 人類の歴史に精通しているわけではないのでそれを専門とする人間からすれば浅い認識と言われるかもしれないが、実感として、現代ほど人間が自分のことを語り、それを公に広く発表することが日常になった時代はないであろう。

 自分、そしてその生活を語る文芸ジャンルとしてエッセイがある。クオリティ云々は措いて、見方によれば今は「エッセイスト」が溢れている世の中だとも言える。そんな時勢のなかで、人々は「自分」を不特定多数の者に語ることにこの短期間で一気に慣れてきた。

 しかし、その「自分」とは果たしてどこまで自明のものなのか。「自分」を語ることの難しさや危うさ。そういったことが社会的な問題にもなっていることを思うと、このエッセイというジャンルについても今一度、なにかを考えてみる時期にきているのかもしれない。

 この度エッセイ専門の文芸誌として創刊された『随風』1号(書肆imasu)は、そういった問題意識のもと生まれたものであろう。宮崎智之は巻頭随筆にて、「特権的な一人称が『真実』を専有してしまう恐れがある」ものとして「随筆」を見ている(なお、本来であれば「エッセイ」と「随筆」という呼称の選択についても考えるべきなのだが、あまりにも話が広がりすぎるので割愛する。ここでは引用を除いて基本的に「エッセイ」を使用し、「随筆」も包括するものとする)。

随筆とは特権的な一人称が「真実」を専有してしまう可能性のある散文スタイルでもあるのだ。仮に、他者からの批評を受け付けず、自身の考えや経験を特権的な一人称の名のもとに拒絶してしまうなら、随筆は文学とは呼べないだろう。

 エッセイとはその人固有の「真実」を書いているものであり、それを外部の人間がジャッジするのは野暮だといった共通認識がある、と宮崎はいう。最近は純文学系の小説なんかも割とそんな感じでは、とも思うのだがそれは措き、だからこそ宮崎はエッセイの「批評」が必要だと訴えてきた。宮崎の言う「エッセイ批評」の中身については同誌収録の柿内正午「随筆時評 第一回」に詳しい……のだが、そこで言われていることはあまりピンとこず、消化できていないというのが正直なところである。

 そんな柿内の「随筆時評」だが、非常に興味深い記述がある。あるイベントで小川哲が、小説誌における1ページもののエッセイコーナーは、編集部がデビューしたての新人などに書かせて、〆切を守れるかなど人間として信用できるかを確かめる「面接」代わりのものとしてあるのではないかと思っている、と話していたというのだ。

 その真偽は別にして、しかし現場からも読者からも、どこか軽く見られているようには確かに思えるエッセイだが、私も、このエッセイというものを重要なものとしてここ最近考えていた。 だがそれは、おそらく宮崎や柿内のものとは別の観点ではあるだろう。

 この考えにはおそらく多くの反対もあるだろうが、小説とエッセイを比較したとき、良い悪いの問題ではなく、小説はフィクションであるからだろう、結構ごまかしが利くように感じる。エッセイにテクニックが必要ないと言う気はないが、しかし小説は、時には内容云々以上にテクニック一本で押し切ることも、案外可能ではある。それも関係しているのか、エッセイを書いた途端に文章が著しく緩む小説家は珍しくない。「私」のことしか書けないがために思考の深度もそこでは残酷なまでに表れ、ときには「あれ、小説ではあんな大きなこと言ってたのに、この程度の認識?」と思ってしまうこともある。それ故、私はひとつの基準として、エッセイが良くない小説家はダメだ、という持論を持っている。

 小説とエッセイを比べたときに、なんとなくエッセイの方が簡単に書けるものと思っている書き手、読み手は少なくないだろう。小川の言を信じるならば、当の出版現場においてさえ、短いエッセイはそのようなものとして見なされている。エッセイは軽いという認識はある意味では当たっているのだが、しかしその軽さ故に、如実にその人物を表してしまう恐ろしいものでもある。そのようなジャンルとしてのエッセイを捉えてみるのはどうだろうか。そういったおぼろげな問題意識をいまの私は持っている。

 しかしながら、やはり私のこのようなエッセイの捉え方は、本誌における主張とは根本から異なるものであるだろう。

 本誌の批評欄には今回、3つの文章が掲載されている。ひとつは先述した柿内の「随筆時評」で、残りのふたつのうちのひとつが、横田祐美子「わたしがエッセイである」だ。おおざっぱに言えば、このふたつの文章はエッセイのなかの私と現実の作者を同一視することが自明であるかのような読み方を問題視する点で共通している。横谷に至っては、「エッセイの『わたし』と書き手のトーンが完全に同じだと信じて疑わないひとには、やっぱり辟易としてしまう」とまで言う。

 作中の私と現実の私を同一視しない、というのは理想としては分かるし、そもそも現実そのものを文章で完全に再現することはできない以上、ものを書く、あるいは表現するということがおしなべてそういうものであることに、私は大きく賛成する者である。その上でことエッセイについては、そうは言ってもなあ、との思いが拭えない。これが私小説であるのならばまだ納得の余地もあるのだが(私小説とエッセイの区別の問題についても、ここでは立ち入らない)、エッセイは、「私」のことを話しているという建前のもと書かれ、そしてそうしたものとして読まれることで成り立っている側面がある。そこになにかしらの問題が生じているのは分かるが、しかしそれを疑ってはもはやエッセイというジャンルの文章が書かれて流通し、読まれる、といった空間が成立しないのではないか、との素朴な疑問がある。そこを踏まえた上での批評でなければ、それは批評をするための批評、とでもいったものになりかねない。

 無論、そういった既存のエッセイ受容(?)の形を踏まえた上での主張にはなっているのだが、私はあまり説得されなかった。私がいう「説得されなかった」というのは、共感できなかった、ということではない。それを問題だと感じる理由、ないしはその解決を目指すために提示された論理に、あまり強さを感じることができなかった、ということを意味する。この私の素朴すぎるであろう疑問を踏まえ、乗り越えるだけの論の強さが、まだ感じられない。

 また、理想はどうであろうと、エッセイは他の文章作品と比較してどうしても属人性が強くなる。いくら批評者が「私が批評しているのはエッセイ作品であって、書き手の『あなた』ではありませんよ」という姿勢を宣言したところで、それはどうしても現実の書き手の人物や生活への直接的な言及にならざるを得ない。見ようによっては宿痾とでも言えるこの問題に対する議論は、あまり成熟されてなかったように感じられた。

 柿内は最後に、朱喜哲のエッセイに触発された「おしゃべり観」を念頭に、文芸誌掲載のエッセイの批評を軽く試みている。たしかにそれは「エッセイ作品を批評している」のだが、その切り口については、少なくとも私には文章作品一般、小説や評論におけるそれをさほど違いがないように思われた。批評の対象となることがない(らしい)エッセイというジャンルの文章も他の文章作品と同様に批評的視点で論ずることが目的ならばそれでもよいだろうが、思うに、本誌が目指しているのは「エッセイを批評する」ことではなく、「エッセイの批評を確立する」ことにある。となれば、やはりこのような批評ではまだ弱い。対象がエッセイである必然性が、私には分からなかった。

 この種の疑問点は、冊子全体からも感じられる。執筆陣の並びも含め、既存のエッセイ像、エッセイ観を打破しているようにはあまり思えなかったからだ。

 ここに掲載された「友だち」をテーマにしたエッセイが、果たして宮崎の掲げる「批評」に適うものかどうか。私には、「やっぱりよくある『エッセイ』だなあ」との印象が拭えない。このエッセイを、エッセイというジャンルのなかで「批評」するという方向での食指は動かない。これは作品の質の問題とは異なるものを抱えている。

 また、これは本誌に限らず文芸誌全般、あるいはネット言論空間にも言えることなのだが、そこで語られている言葉が、内容は違うはずなのにどこか全体的に似通っているように感じられる。宮崎が求める「僕が書かなければ、おそらく誰かが書く文章」とは、果たしてこういうもののことを言うのか。

 ここには私の感じ方にも要因があるような気はしている。この感覚の正体はいったいなんなのだろう。私にとってはそちらの方が重要な問題だ。もっともそれはエッセイというよりもそれも含んだ現代の言論シーンを対象としたもののようにも思うが、ともかく私は私自身の問題意識において、しばらく本誌を追うつもりでいる。

 いまさらだが、本誌のエッセイのなかでは浅井音楽「ばしばし飯田橋」が好きだ。だがそれも批評的観点ではなく、構成の妙とか作品の余韻とか、技術的な面に拠るところが大きい。やはり私は、宮崎たちが掲げるような視点からエッセイを読もうとはまだ思えないのだ。

 果たしてエッセイは批評できるのか。今のところそれは厳しいのではないかと私には思えているのだが、この認識がひっくり返るような可能性に期待したい。皮肉ではない。本誌の試み自体はそれなりに高く買っている。

 その上でいくつか苦言を呈すと、たとえば巻末の執筆者プロフィール。各々が最後にひとこと、「奈良と日本酒が大好き」「今年も世界と和解できない」「昔はギャルでした。今はマインドがギャルです」「健康体」などと呟くようにつけ加えているのだが、この学生同人誌的なノリはちょっとイタいというか、読んでいて小っ恥ずかしい。このようなノリがエッセイの私と現実の私を同一視する読みのもっともらしさを補強しているのではないか、とも思うのだが、どうか。

 そして座談会。私はこれを自社広告として読んだ。というより、そうとしか読めなかった。さほど「エッセイ」と関係があるような内容には思えなかったからだ。もう少し、冊子全体に必然性が欲しい。

 エッセイの「批評」を謳うのであれば、もっと思い切って重厚な構成にしてもよいのではないだろうか。しかし、これは外野の勝手な意見だ。実際にそういったものを作ったとして売れるのかどうか。だいたい、私のような天の邪鬼の意見をバカ正直に採用したら、売れるものも売れなくなるだろう。念の為につけ加えるが、売れることを目指して方針を立てること自体はなにも悪いことではない。

 出版が厳しい時代のなかでニッチな本誌がどのような戦略を立てていくのか。しがないいち出版人としても、非常に興味深く見ている。

『随風』には3つの批評があると言った。そのうちのふたつについては触れたが、まだ触れていない残りのひとつが、仲俣暁生「ペーパーバック2.0としての軽出版」である。仲俣は破船房という個人出版プロジェクトにおいて、従来的な「重い」商業出版に対する「軽出版」を提唱して活動している。「ペーパーバック2.0としての軽出版」はまさにその軽出版について紹介、解説した文章であり、仲俣の活動を多少は追っている読者にとっては既知のことも多いだろう。小さくて軽い個人出版である軽出版はエッセイと親和性が高いことは確かだが、直接的にはエッセイについて触れていない文章なので、ここだけ『随風』のなかで浮いているように感じたがそれは措き、もっと具体的に軽出版について語られた『もなかと羊羹——あるいはいかにして私は出版の未来を心配するのをやめて軽出版者になったか。』(破船房)は、同人誌やミニコミなどを作っている、作ろうとしている人なら手に取ってみるのも悪くはないものではないか、と感じた。特に、「思い切って1.5倍つくる」「思い切って1.5倍で値付けする」というところは、自分もそうだが、文学フリマなどを回っていて感じる一番の急所でもある。そもそも損益分岐点をあまり考えていない人も多いし、高すぎると売れないからと、ページ数も特殊加工も関係なく周りに合わせなんとなくワンコインの500円にしている私のような人間は、きっと少なくないことだろう。

 同人出版は互助的なコミュニティだとする向きもあり、そうして成り立っているのならばそれはそれでいいだろうが、もし出版業という枠組みで自分の活動を考えているのであれば、赤字になること前提で本を作って売るのはあまり健全とは言い難く、また持続させることも難しくなる。ものに正当な値段を付けて売る。市場経済活動の基本に立ち返る必要性を改めて感じた。

 軽出版の魅力は、私のようなアマチュアの人間であれば多く抱えているであろう作品のストックを、死蔵で終わらせずに比較的小回りが利く形で出版できるところにある。数年前から、自分の作品集をひとつかふたつ作ってみたいと思ってもいたので、これを参考に動いてみようと考えているところだ。

 本書についてひとつ疑問点があるとすれば、紙がちょっと固すぎるところだろうか。束幅を出すためなのだろうとは思うのだが、文庫サイズでこの厚さは少し厳しい気がする。とはいえ、この分量で薄い紙を使えば十分な背を確保することができないので、難しいところではある。

 来月映画化すること(とその主演女優が二股不倫?していることがスクープされたこと)で話題になっている東村アキコ『かくかくしかじか』(集英社、全5巻)は、作者自身の過去を題材にした自伝的漫画だ。

 度を超えたスパルタ的指導、ハラスメント的な暴言、竹刀ので暴力など、現代の価値観……というかおそらく当時の価値観に照らしても多分に問題のありそうな絵画教室の先生との出会いから別れを描いた本作だが、主人公は名前から経歴まで作者本人のものである一方、もう一人の主人公である先生・日高健三の名前はモデルの日岡兼三の名をもじったものであることは見逃せない。人物、地名、学校、作品名など、実在のものが多数登場するなかで最重要人物の名前が仮名であるのは、その指導法が指導法であり、また故人であるために当人に直接許可を得ることができないなかで故人の尊厳を守るための配慮という側面もあると同時に、「あくまでこれは自伝『的』漫画ですよ」という意思表示であるようにも考えられる。

 たとえば、現実の日岡氏には妻がいて彼の活動を献身的に支えていたというが、作中では妻の影は微塵も感じられない。作者が日岡氏と出会ったときにはすでに結婚していたからその存在を知らないはずはないのだが、作者はそれを描いていない。もっとも、「日高先生は独身だった」などとは一言も書いていないはずだから、噓をついている訳でもない。しかしながら、事実をまるっきりそのまま描いているのでもないことには違いない。「物語る」とは、多かれ少なかれこのような操作が行われるものであり、それを認めて読者にもそのあり方を明示する方法のひとつとして、仮名というものが用いられたのではないだろうか。

 とはいえ、やはり読者はこの作品をある程度は実話として読むだろう。当然のことながら誇張や脚色はあるだろうが、それもそこに基づく事実があってこそのものであり、まったくの虚構として読む方があまりにもひねくれている。仮名であるとはいえ、その中には実在した人物の影を感じずにはいられない。

 難しいのはここだ。厳しいながら愛すべき人物として、作者からは親愛の眼差しをもって描かれている先生だが、先述したようにその指導法については賛否両論あるだろう。現代の価値観から見れば批判の方が多いかもしれない。作者も、必ずしも先生の指導のあり方のすべてを肯定している訳ではない。しかし、先生の真意に気付かず、期待にも十分に応えることのできなかった当時の自分への後悔を抱きながら、それでも今の自分を形作る大きな存在であったと回顧している語りを目の前にしたとき、この物語に対し現代的な社会的価値観から判断して「正しくない」「間違っている」などと批判することのみならず、単純に「おもしろくない」などと言うことさえも、私のような小心者はどうしても一抹の躊躇いを覚える。

 作者を作品から切り離し、作品単体で評価すべきだという主張は分かる。正義という側面から考えるならば、そうしなければならないとすら思う。これがまったくの創作であれば、まだそこへの抵抗感は薄くなるのかもしれない。しかし事実が、しかも作者自身の過去がかなり直接的に反映されているとなると、その評価は意図するせざるにかかわらず、生身の人間のこれまで生きてきた時間に対する審判にもなる。

 たしかに、作者自身がそれを「作品」として提示しているのだから、「おもしろい」「感動した」といったポジティブな感想と同様に、「つまらない」「人物に魅力がない」などとネガティブな感想を語ってもなにも問題はない。それは理解しつつ、しかし少なくともその元となっている作者やそこで描かれている人々はべつに他所の誰かを喜ばせるために生きてきたのではない。当人たちが良い、あるいは尊い思い出として記憶しているのであれば、よほどの外道の所業でもない限り、外野の人間があまりとやかく言うこともないのではないか。そんな風にも思ってしまうのだ。

 最近は権力勾配やグルーミングなどといった観点から、当人達の認識にかかわらずその関係性を批判する言説が増えている印象だ。あえてこういう言い方をすれば、他人の関係性への口出しがおおっぴらに行われ、しかもそれは単なる野次馬根性ではなく、社会的正当性が与えられている。

 たとえ当人達が良いと言っていても許されない場面が増えてきた。そういった状況に鑑みると、上述の、エッセイとはその人固有の『真実』を書いているものであり、それを外部の人間がジャッジするのは野暮だといった共通認識がある、といった宮崎の認識が、実のところ現代においてはどこまで当てはまるものなのかという疑問も感じないではない。

 もちろん権力勾配やグルーミングによって覆い隠されるハラスメントや暴力、性犯罪があるのは確かで、そのような視点が必要であることは間違いないし、そこに反対するつもりもない。最近の事象で例を挙げると、旧ジャニーズ事務所の問題がある。たとえ内部の人間がそれを良しとしていたとしても社会的にそれを認めることが難しいケースは、実際に多々ある。

 一方で、同時に昨今の最重要テーマでもある多様性のことも考える。多様性は尊重されるべきもの、というテーゼに真っ向から反対する者はあまり多くないだろう。その射程は、当然のことながらそれは人間の関係性にも及ぶはずだ。すると、果たして外野の人間は個々人のプライベートな関係性にどこまで踏み込んでジャッジしてもいいものか、という悩みも同時に浮かぶ。「一般的」な感覚から他者を評価することが、お節介であるのみならず暴力とすらなり得る(と評価される)ことを、私たちはよく知っているはずだ。

 難しい。思うに、やはり現代における「エッセイの批評」は、この種の問題と向き合うことから始めなければならないのではないか。いや、むしろこのような葛藤がテーマと言えるのかもしれない。やたら横文字の用語が増える昨今だが、その概念が当てはまることで、個別のケースの内実に目を向けるプロセスを省くことが正当化されているように感じられることがしばしばある。だが、それはたとえば性的指向の多様性を主張する者が一番やられたくないこと、そして一番やってはいけないことではないのか。とはいえ、ひとつひとつにあまり深く入り込みすぎると批判ひとつもできなくなっていくし……考えれば考えるほど難しい。

 一部では批評離れが進んでいると言われているが、見方によっては全人類が批評者であり、被批評者にもなり得る世の中だ。そのとき対象となるのは、明確な意図をもってなされた主張のみならず、日々のおしゃべりや生活、ちょっとした人間関係、夢、ものの考え方、好きな色や食べ物、人となりといった、一人の人間を形作るすべての事象だ。言うなればいまの世の中は、ひっきりなしに「人」が「人」を批評している時代である。

 ある人の語りをエッセイとするならば——。先ほどは難しいと言った「エッセイの批評」に関する考察は、喫緊の課題と言えるのかもしれない。

『随風』、そして桜庭一樹『読まれる覚悟』でも触れられていた福尾匠『ひとごと クリティカル・エッセイズ』(河出書房新社)については、いまの私にはあまりピンとこなかった。難しかった、というのもあるが、私の興味関心とは微妙にずれていたように感じた。著者が関心を寄せるインスタレーションという表現手法が、私にはそもそもしっくりこないのだ。ただ、なるほど、インスタレーション作品はこのような捉え方をすることができるのか、と勉強になった気はする。

 今月は仕事上での大きな変化があった関係で、特に前半はまったくといって良いほど本を読めなかった。そんななかで接した作品のなかで印象に残っているのは、『スパイラル 〜推理の絆〜』(作・城平京、画・水野英多、スクウェア・エニックス、全15巻)と、アニメ『ななついろ★ドロップス』(原作ゲームは未プレイ)だ。前者は友人が好きだとよく話していたから気になっていたもので、後者はそれこそずっと前からなんとなく気になっていたなか、先月、旅行先の名古屋で夜の散歩がてら「まんだらけ」に寄ったときにDVDを見つけたから記念に買っておいた、というだけでとくに繫がりはない。——と自分では思っているが、果たして「批評者」はこの2作から、私という人間を批評することまでもできてしまうのだろうか。

 私が言っても説得力がないかもしれないが、上述の二股不倫の女優の言動についても然り、あまりなんでもかんでも批評して意味や理由を求めようとしすぎない方がいいだろう。人間という生き物は概ねろくでもないものだが、そんなに悪いものでもない。そのくらいのスタンスがちょうどいいのではないか、と思ったりもする今日この頃である。

(矢馬)