2025年5月
久米田康治『かくしごと』(講談社)の主人公は週刊誌で連載をもつ漫画家だが、年末年始の休みになると決まって体調を崩すという。それまで気を張り続けていた反動で、無理やり押し込めていた心身の疲労が一気に押し寄せるが故の現象だ、そんな風に説明されていたような記憶がある。
今年……いや、厳密には昨年末からだが、まさに自分の身に似たようなことが立て続けに起こっている。まずは年末にインフルエンザを発症して年末年始の休みのほぼすべてをベッドの上で過ごすことになり、そして仕事で新たな担当に変わった4月を乗り切ってゴールデンウィークに入ると、少し喉の調子がおかしくなった。
最終日、喉は完全には治らないままだった。本当ならここでしっかり休んで恢復に努めればよかったのだが、連休明けこそ仕事がかなり詰まっていたし、文学フリマをはじめ、休みの日にもいくつか用事を控えていた。そこでいつもは飲まない葛根湯なんかを飲んだりしながら騙し騙しやっていたら、やがて、関節は痛いわ喉は痛いわ鼻水は止まらないわ、果てに一瞬だったとはいえ38度超えの熱は出るわと悪化。ようやく少し落ち着いたのが下旬も半ばに差し掛かるくらいのことだった。これを書いているのは月末だが、未だに若干、痰の絡んだ咳が出る。まあ数年前に新型コロナウイルスに感染した際は恢復後も1、2カ月は喉の調子が悪かったから、これも仕方ないのかもしれない。
ただでさえ仕事が立て込んでいたうえにこの体調では、本を読むどころではない。結局の所、本を読むにはそれ相応の安息の時間とそのための体力が必要なのだろう。改めて、少なくとも私にとっては「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いは、そこまで突きつめて考えようと思えるほどのテーマにはならないようだ。読むときがくれば読む。そうでないときには読めない。案外そんなものなのかもしれない。
そんななかでいま私がおぼろげに求めているのは、「心配しない」ことを勧めてくれる本だったりする。10年ほど前に大きく心身の調子を崩して以来、私は体にちょっとした異変があるとそれを過剰に気にしてネットで検索し、そこに出てくる大きな病気に怯えるという、「サイバー心気症」とか、俗に「Google病」とか呼ばれる状態に陥りがちだ。概ね杞憂に終わることは分かっているのに、自分で膨らませた不安でストレスを増幅させて体調を崩すという悪循環にはまり込んでいる。手元のデバイスで簡単になんでも調べられてしまうのも考え物だ、と思うのはこのときである。
心配性な自分から抜け出したい。そんな望みにダイレクトに応えてくれるのは、やはり自己啓発本ということになるのではないだろうか。事実、私は何度となく、書店やブックオフの自己啓発本の棚の前を、この際まやかしでもいいから「君は心配しなくてもいい」と言ってくれる本はないものかとウロウロした経験がある。結局それで手に取った本は未だないわけだが、自分の中に自己啓発本を求める心があることは認めざるを得ない。
思えば、「本好き」による過剰とも思える自己啓発本批判に嫌なものを覚えるのも、私自身にそれを低俗なものだと断罪できるような「強さ」というか、「高潔さ」がないことへの後ろめたさ、コンプレックスが影響しているのかもしれない。まあそう批判している人々がどれほど高潔な精神の持ち主なのかは分からないがそれは措き、なんだかますます、自分は現代文学の世界にはお呼びではない人間のように思われてならない。しかし己が俗な人間であることを認めたところからでないと、私の場合はなにも始められないような気がする。まあこういう人間がひとりくらいいてもいいだろう、と若干開き直りつつ、気長に向き合っていきたい。
このような事情で、今月はなにかを語れるほどものを読んでいない。故にこうして引き延ばしを図っているわけだが、とはいえいつまでもこれを続ける訳にもいかない。文学フリマの話でもするかと思ったが、この読書日記を始めるきっかけにもなった荒木優太に直接挨拶できたことと、友人を通して、新たに本を作って文学フリマに参加してみたい、という意欲を持つ同志(とこっちで勝手に呼ばせてもらう)に出会えたくらいで、あとはあまり語れるようなことも感想もない。なにか積極的に取りあげてみようと思う文学界隈の時事ネタもない。読み始めたばかりの磯﨑憲一郎『日本蒙昧前史 第二部』(文藝春秋)の文章が妙に馴染み、最近小説の文体がどうにもしっくりこなかったこともあって、やっぱりこの作家は自分に合うのかもなあと変なところで感心していたが、さすがにまだ全然読んでいない段階でここに入れるのもどうかと思う。
間が悪い……。そうだ、この「間が悪い」をテーマに、と思ったが、それも厳しい。
難しいものだ。まだ本調子でもないし、もうここは諦めて、ただつらつらと書き連ねていくことにする。
今月、本について私にとって一番大きな出来事といえば、冬目景『百木田家の古書店暮らし』(集英社、全6巻)が完結したことだ。あ、もう終わるのか、というのが正直なところではあるが、読み終わってみれば、案外ちょうどいいところだったようにも感じた。
神保町を舞台にした作品である本作は、祖父の遺した古書店を突然引き継ぐことになった三姉妹を軸にした恋愛群像劇、と謳われており、1巻の帯には「『イエスタデイをうたって』以来の恋愛群像劇」とある。登場人物が揃いも揃って面倒くさく、三歩進んで二歩どころか、ときに三歩も四歩も戻るようなもどかしい恋愛模様は『イエスタデイ』を彷彿とさせるが、『イエスタデイ』ほど、全体に占める恋愛要素が濃くはないようにも感じる。
少し話が逸れるが、「本」というものをはじめ、芸術や映画などの「表現(者)」をテーマにした作品を最近、しばしば目にする。そしてその手の作品はよくSNSなどでそれこそクリエイターやそのファンに称賛されている印象だ。その多くをちゃんとは読んでいないので印象論となっていることは承知のうえで、しかし私はその種の作品の表現至上主義的な価値観というか描かれ方に、どうにも馴染むことができない。そういったものを目の前にすると、つい後退る。あまりにも「表現」を美化しすぎだと思ってしまうのだ。
これは小説家による読書エッセイなどでも思うことだが、あたかも本(小説)を読むことが人間の精神を養う最上の方法のひとつであると素朴に信じているような語りに接すると鼻白む。たしかに私も小説を読むことは好きだし、そんなに悪いものとも思ってはいない。だが、果たしてそこまで手放しで称賛されるようなものなのかどうか。
私はおそらく平均的な人よりも多く、文学や映画に精通した人々と付き合ってきた人間だ。その経験則からして、芸術に親しんでいる人が必ずしも人間的に優れているとは、贔屓目に見ても、希望的観測を込めても言えない。本当に芸術に親しむことによって人間の精神が涵養されるのだとすれば、本格的に文学に親しむようになったのが大学に入る直前という私なんかよりずっと本や芸術に触れている人ばかりに囲まれていながら、なぜ20歳の私はあれほど人間の振る舞いに振り回され、些細なものではあったが理不尽な暴力を受けねばならなかったのか。あの夜、年甲斐もなく母親の前で泣き腫らして世の中への呪詛を叫んだ90分はなんだったのか。そんな八つ当たりにも似た不満を並べたくもなるものだ。
良い人もいれば、ちょっとこれは……と言わざるを得ない人もいる。その比率について、文学に親しまない群との間に有意の差を見ることは、今のところ私にはできていない。
もっとも、私にも文学や芸術がそういうものであって欲しいという気持ちが多少なりともあることは認める。だがそのような願望が、あたかも芸術に親しまない者は知的水準であり人間的情緒で劣っているかのような語りに繫がっているような文章に接してしまうと、すごくいやーな気持ちを覚える。これもまた選民意識だ。結局の所、人間とはなんらかの事象をもって自分と他者を区別し、自分をその上位に置きたい生き物なのかもしれない、と厭世的な気分にもなる。芸術に親しむ、従事する自分を肯定するために、果たしてそこまで肩肘張って価値付けしなくてはならないものなのだろうか。自分自身についても言える、ここ数年の私が持つ問題意識のひとつだ。
閑話休題。その点、『百木田家の古書店暮らし』はメインのテーマがあくまで人間群像劇であり、古書/古書店の実情を描くことが主ではないから必然と言えば必然かもしれないが、そこまで本本(?)、古書店古書店しておらず、それでも本や古本屋街が作品全体のテーマとして重要な意味を持つその按配が、私には心地よかった。思えば、作者は多摩美出身ということもあってか、『イエスタデイ』もそうだし、他の作品でも美大予備校だったり音楽だったり、芸術を舞台にしたものが多々あるのだが、そこまで押しつけがましさを感じない。私も文学とか小説をテーマにした創作をしてみたいし、いくつか試みているのだが、どのくらいの濃さでいくのが良いのか、しばしば悩んでいる。文学の良さをそれとなく伝えつつ、しかし説教くさくならないものを志向している。これがなかなか難しいものである。
日本の近代から現代の出版シーンにおいて、あまり言及されていないがしかしその実見過ごすことができないのが、『百木田家の古書店暮らし』でも当然のことながら風景として描かれている、立ち読み、という現象だ。
本に親しむひとは勿論、そうでないひとも、なんらかの形で本や雑誌を立ち読みした経験があることだろう。一回の立ち読みは、その客がその店でなにかしらの本を買わない限りは店に利益をもたらさない、場合によっては迷惑行為ともなりうるものだ。しかし立ち読み客は潜在的消費者でもある。必ずしもその完全な排除が出版業界に利益とはならない一方、現代は講談社文庫のシュリンクパックにも代表されるように、従来的な立ち読みが物理的に不可能となっている状況でもある。
その影響が本格的に現れるのはもう少しあとのことになるだろうが、そもそもその立ち読みとはなんなのか。その歴史を追ったのが、小林昌樹『立ち読みの歴史』(ハヤカワ新書)だ。国立国会図書館のレファレンス業務で培った調べる技術を駆使して、様々な観点から立ち読みという現象を紐解く過程はなかなかおもしろい。出版現象の研究にはまだまだ地脈があるのかもしれない、と期待を抱いた。
しかしながら本書については内容ではなく、ハヤカワ新書の組版、組み方について、不満というか、どうにも釈然としないものを感じてしまった。
細かく挙げると切りがないので多くは割愛するが、たとえば連続する受けのカギと起こしのカギの間が全角アキだったり、句読点とカギの間が全角アキだったりするところは、文字通りかなり間が空いていて締まりがないように、私には感じられる。
また、折り返し行頭の括弧類は天ツキではなく二分下げ。欧文が交じった箇所の和文の字間があまりにも大きいところがある、など。ルビの付け方も、ちょっと気になるところがあった。
念の為に言っておくと、これらのことのすべてがすべて、別に間違っているとまではいえない。一冊のなかでブレてさえいなければ一応問題ないとはいえる。だが、活版印刷ならいざ知らず、このDTPの時代になぜ本レーベルはこのような組み方ルールを採用しているのか、その理由がどれだけ考えても私にはまったく想像できなかった。
ふと、そういえばほかの早川書房の本はどうなっているのだろうと思い、それこそ本屋で立ち読みして確認してみることにした。すると、少なくとも最近の早川書房の本は新書に限らず、単行本も文庫もポケミスも、すべてこのような方針を採っていた。そして手元にあったハヤカワ文庫JA、伊藤計劃『ハーモニー』2012年11月25日15刷を開いても、そうなっていた。どうやら早川書房自体がそういう組み方をするらしい。そもそも早川書房の本を多く読んではこなかったこともあるが、これまでまったく気付かなかった。
こうなると、もしかしたら単純に過去の傾向を踏襲しているだけの可能性もあるが、なにか積極的な意味があってこのような組み方を採用しているのではないか、という想像もされる。あるとすれば、それはいったい何なのだろう。最初に感じた不満にも似た釈然としないものはもはや薄れ、単純な好奇心が芽生え始めている。それくらい個人的にとても大きな発見であり、正直今は、立ち読みよりもこのことの方に興味がある。著者はいま『近代研究出版』の編集長を務めているが、もし私が本誌に論考を掲載するとすれば、組版について研究してみたい。まあ非常に難しそうなテーマだとは思う。
若木民喜『ヨシダ檸檬ドロップス』(小学館、既刊3巻)は、タイトルからピンとくる人もいるだろうが、作者の出身校である京都大学が舞台となっているラブコメ作品だ。前作『結婚するって、本当ですか』(小学館、全11巻)で、それまでの少年誌から青年誌へとシフトした作者だが、今作は大学生のモラトリアムであったり、何者にもなれない自分であったり、さりげなく新型コロナウイルスが最初に物語を動かす大きなきっかけになっていたりと、大人な作風になったなあ、という印象を強くした。
少年誌時代からエロティックな表現自体はあるにはあったが、そこに若干の生々しさが加わるようになった。これもまた掲載誌の違いなのだろうか。
話は逸れるが、ある程度リアリティのある世界の物語を描くとき、人間の欲求を無視することはできない。とりわけ性欲は、生きることと切っても切り離せないものであると同時に、たぶん多くの人が悩んだり囚われたりする厄介なものだ。
だから、たとえば大学生の恋愛を描いているのにそれがまったく感じられない、というよりは徹底的に排除されていればファンタジーな世界観にもなる一方、あまりにもねちねちと描写すれば、それはそれで眉をしかめたくなるときもある。純文学系の作品においてしばしば、なんだか無理やり性描写や性的話題を入れているような、それこそが純文学らしさとでも言いたげなものを感じることがある。たぶんそういうことではないと思うのだけど、と疑問を呈したくなるが、だったらどういうことなんだと言い返されたら、上手く答えられる自信もない。難しいものである。
ところで本作の主人公とヒロインはすでに両想いの状態であり、いまのところは三角関係などになる雰囲気も感じない。
もちろん二人の恋愛模様が作品の主題ではあるのだろうが、同時に、自身も京大生でありながら、突出した個性的な者ばかりが集う環境のなかでコンプレックスを肥大させて京大生恐怖症となっている主人公が、いまやもっとも有名な京大生になっていると言っても過言ではないほど輝いているヒロインと、自意識を含めどのように向き合っていくのかが根っこのテーマになる、と感じる。なにせ、相手はずっと好きだと言ってくれているにもかかわらず、自分では釣り合わないから付き合えない、それよりも自分は変わって彼女と同じ場所に行きたい、付き合うとすればそれから、と断る主人公である(余談だが、このときフラれてショックを受けているときのヒロインの表情が妙に好きだ)。みみっちいプライドと言えばそうかもしれない。しかし、この意地を笑えるほど、強く、確固たる自分を持った人間が果たしてどれだけあるものか。個人的にはこのやや卑屈な主人公に親近感を覚える。京大を舞台にはしているが、これはかなり普遍的なテーマだ。
無論、昔からこの種のコンプレックスは広く存在していたことは前提の上で、しかしSNS全盛の現代においては、これを幼い内から世界規模のフィールドで絶えず経験させられる。井の中の蛙になることができない時代を、私はあまり良いものだとは思わない。お山の大将でいられるのならば、それはそれで良いのではないか、と思う者でもある。
だが、彼はそこに立ち向かうことにした。プロレス興行で大観衆を集める彼女とは対照的に、観客3人のマンドリン演奏で一歩を踏み出した。この決意がどこに向かうのか。ちょうど彼と同じくらいの年の頃にそこから逃げた私は、幾分かの嫉妬と尊敬を抱きながら、その行方からきっと目を離すことができないだろう。
学園系の漫画やアニメにおいてしばしば絶大的な権力を有する生徒会だが、現実の生徒会は縁の下の力持ち的な、まあ地味なものである。そんな割と地味な生徒会を舞台にした相田裕『イチゴーイチハチ!』(小学館、全7巻)は、王道の成長物語だ。憧れ、失望、嫉妬、羨望、友情、恋慕……主要登場人物はそこまで多くなく、相関図もけっして複雑ではないのだが、そこに流れる感情は非常に錯綜している。どこかしらは自分にも思い当たるものがあるはずで、やはり自分に引きつけて読みたくなる作品だ。
主人公ふたりももちろん良いのだが、個人的にはサイドストーリー的に少しだけ描かれる2年生のふたり、三春と東の関係性が印象に強く残る。なんでだろうと思って考えてみたら、なんとなくだが三春が、私の人生(部分的には大学の選択すら)に影響を及ぼした、十代から二十代初めくらいまでの思い人に似ているのだ。私は10年近く、東と違って一歩を踏み出すことができなかった。自分が摑み取れなかったもの、その土俵にすら立たなかったものへの憧憬が、そうさせているのかもしれない。
なんだろう、『ヨシダ檸檬ドロップス』もそうだが、こんな体調の悪いときに、心の奥底にいまだ燻る繊細な部分をここまで鋭く突き刺さなくてもいいではないか。なんとも「間が悪い」……。予想外のかたちで冒頭に適当に挙げたテーマを回収することになったが、嬉しくはない。
長い作品で言えば、小林尽『スクールランブル』(講談社、全22巻+『スクールランブルZ』全1巻)を読んだ。かの昔、いとこの家に置いてある週刊少年マガジンで読んでいたことをふと思い出し、懐かしい気持ちになった。王道……かどうかは分からないが、想像以上にまっすぐなラブコメディで、個人的には好感をもった。
本作については噓か誠か、主人公(といっていいのだろうか?)播磨拳児を巡る二人のヒロインである沢近愛理と塚本八雲、このふたつの派閥に割れていた、なんて話を聞いたり聞かなかったりするが、それも然もありなん、と感じた。ちなみに私は八雲の方を推したい。
これ以上言うと余計な争いを招きかねないので、さっき伏線も回収できたことだし、このあたりでやめておくことにする。
今回こそ大ピンチだったのだが、今月もこうしてなんとかなった……のだろうか? 自信はない。曲がりなりにも執筆歴は12年になろうとしているのだが、いやはや、文章を書くとは相も変わらず、難しいものである。
(矢馬)