6月15日
いまさらだが、豊﨑由美が1月17日にXにて、「安堂さんのその件はたしかに良くなかったと思っています。でも、だからといって『じゃあ安堂ホセの小説も読まないでキャンセルしてやる』という態度は不毛と思います。安堂さんに限らず、誰でも読まずに批判してはいけません。それが書物を前にした時の基本的姿勢とわたしは思っています。」と投稿していたことを知った。
「その件」とは、安堂ホセの過去の発言のことだ。KADOKAWAから邦訳の出版が予定されていた『IRREVERSIBLE DAMAGE』について、ほとんどの人が原書を読んではいないにもかかわらず「トランスジェンダー差別」の書だと見なされたために大バッシングを受け、結果として刊行中止(のちに産経新聞出版から『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』の題で刊行)となったことに対して安堂は、どんな本でも全部読まなければ批判してはいけないなんてことは噓だ、つまり本書については人々が読まずに批判したことは間違っていない、との旨の発言をしていた。
安堂が芥川賞を受賞した際に、一部の人がこの「読まずに批判する」という箇所をほじくり返し、だったら自分も安堂の本は読まずに批判してやる、的なことを言った(らしい)。それを受けて(?)豊﨑は1月16日、「『芥川賞』で検索して、安堂ホセ氏への授賞に怒って『芥川賞なんてくだらない』みたいなことを投稿してる皆さん、安心して下さい、あなたがたは文学から選ばれてませんから。どうか、文学のない世界で頭の悪い愛国精神を発揮なさっていて下さい。あと批判する際は読んでから、ね……あ、読めないか。」とXに投稿し、これはこれでまたちょっとした炎上騒ぎになった。この件については過去に触れたので割愛する。冒頭の豊﨑の投稿は、ある意味でその釈明のようなものだろう。謝っているようで謝っていない感じもあるが、それは本題ではない。
正直な感想を言えば、ああ、いつものことか、との感がある。ことXとは常に喧嘩をしていなくては死んでしまうような空間になっている。そして、その一投稿の短さ故か、双方の主張共あまりにも言葉足らずというか、短絡的・感情的なものに過ぎないように思え、本件に限らず、私はSNS上での「論争」について腰を据えて真面目に考えよう、という意欲は、ここ数年でほとんど湧かなくなってしまった。それに、放っておいても1週間も経てばそんなことも忘れて新たな「論争」に身を投じているだけなのだ。いい加減、今の人間が使う限りSNSは冷静な議論にほとんど適していない空間である、ということに気付いて欲しいものだ。
それは措き、しかし冒頭の投稿を流し読んでいて、あれ、と首を傾げた箇所があった。「だからといって『じゃあ安堂ホセの小説も読まないでキャンセルしてやる』という態度は不毛と思います。安堂さんに限らず、誰でも読まずに批判してはいけません」という部分だ。
内容の是非ではない。ここで言っていることは凡庸だし、私はそもそもこの手の「読まずに批判してはいけない」という意見には諸手を挙げて賛成することはできない。だが、いまそこはどうでもいい。そうではなく、前提となっている議論を正確には追えない(それもまたSNSで議論をすることの不毛さの要因である)ので読み違えている可能性はあるが、しかしここだけを見ると、微妙に論理の飛躍があるのはないか、そう感じたのだ。
こういったとき、まずすべきなのはそこで使われている言葉の定義だ。昨今は新たな「用語」がバンバン生まれているが、どうにも定義を曖昧にしたまま、語感を以て議論するが故にすれ違い続ける、という現象が頻発しているように思う。地味な工程だが、ここを疎かにすると、のちのち、取り返しがつかなくなるほどのズレや論旨の破綻が生じる。……もっとも、論考のなかでそこを丁寧に定義したところで読み飛ばされることもしばしばなのだが。だが、だからといってやらなくていい、ということではない。
さて、ここで考えるべきは「キャンセル」と「批判」だ。ここでの「キャンセル」とは、最近よく聞かれる「キャンセルカルチャー」などで使われるもの、すなわち「社会的に相応しくないものを排除する」という意味の言葉だろう。一方で「批判」は、「瑕疵や誤りを指摘する」という、辞書的な意味のものと考えてよいかと思う。
無論、多くの人々の「批判」の結果として「キャンセル」が生じるものではあるが、しかし「批判」行為=「キャンセル」行為ではない。すべての「批判」が対象の「キャンセル」を意図するものとは限らない。ここを曖昧にすると訳の分からないことになる。
だから、上記の豊﨑の文章が気になった。「読まないでキャンセルしてやる」と「読まずに批判してはいけません」を並べている。「キャンセル」と「批判」をごっちゃにしているように見える。勢いで書いてしまっただけなのかもしれないが、私はここをこの文章の瑕疵と考える。
その結果の良し悪しの議論は措くが、前提として『IRREVERSIBLE DAMAGE』については、刊行を予定していた邦訳が多くの人の批判を受けたことで刊行中止となったのだから、これはたしかに「キャンセル」されたと言えるだろう(安堂を含め、これはKADOKAWAの自主的な刊行中止だ、とする主張も散見されるが、私はそのような主張には肯けない)。
一方で、安堂に批判的な人物のなかに、「安堂がそう言ったんだから、自分も読まずに安堂の本を批判してもいいよね?」「そんなことを言うやつの本なんか買わん」ならまだしも、「安堂の本を出版中止、回収に追いこんでやる」「これから文章を発表できないように出版社に圧力をかける」とまで凄んでいる人が、果たしてどれだけいるのだろうか。私が見る限り、大体は前者程度のものであり、絶版だとかを求めているような人はほとんどいないように思われる。だとすれば、別に安堂は「キャンセル」させられようとしているのではないのでは、とも思うのだが。
なるほど、これもまた「キャンセル」だと見なすことにしたとしよう。しかしそれはそれで、不買運動を煽動するようなものでもない一個人の「読まない」「買わない」という意志まで「キャンセル」行為に含めて良いのかどうか。良いとすればどういった論理的根拠に基づくのか。その議論を経た上でなければ、ここでの発言はやはり論が飛躍していると言うほかない。端的に言えば、言葉の選び方、論の進め方が雑であるように感じる。
しかし、見たところこれは豊﨑ひとりの問題ではない。ほとんど「批判」の意味で「キャンセル」という言葉が使われている空気は、そこかしこに見られる。キャンセルカルチャーについての議論がどうにも嚙み合わない要因のひとつがここにあると思うのだが、たぶん多くの人はそこについて、あまり気にしていない。そんなことよりもこの言論空間で自身のポジションを確立することの方が大事なのだろう。そんななかで「キャンセル」という言葉が選ばれるのは、現代的なキーワードであること、「批判」よりも語感が強いことが大きな理由としてあるのではないか、と私はにらんでいる。
もっとも、これも現在だけのものとは言えない。思い起こせば10年ほど前、上級生の人が飲みの席で洩らした後輩への不満を、「うちの代に対するヘイトスピーチだ」と怒っていた者があった。私はその場におらず内容を知らないからもしかしたらよほど酷いものだったのかもしれないが、だとしても、別に関係のない人にまで大々的に訴えて私たちの代を貶めようとしていたわけでもあるまいし、それを「ヘイトスピーチ」とするのはさすがに大袈裟すぎるのでは、と当時でも思ったことを覚えている。後から考えると、その者が上級生であり、その団体にかなり不満を抱え込んでいたが故にそういう風に言わせたのだろう、と思っている。怒りというものは往々にして言葉を荒くするので、公にするときはゆめゆめ気を付けなければならない……ということを、豊﨑がけんご関係で炎上したときにも私は書いたりしていたのだが。
言うまでもなく、私はここで『IRREVERSIBLE DAMAGE』がキャンセルされたことの是非とか、キャンセルカルチャーのあり方について論じているわけではない。あくまで豊﨑の発言を端緒に、キャンセルを論じる際の言葉の使い方について、もうちょっと厳密に定義をしなければならないのではないか、と疑問点を挙げただけだ。しかし、こういうことをいうと、「こいつは『IRREVERSIBLE DAMAGE』の邦訳が刊行中止されたことを批判している、反トランスジェンダー主義者だ」的な糾弾が即座に飛んでくるのが現代のSNSだ。想像以上に、人は目の前の文章を読んではいない。読みたいことしか読まない。たかだか140字ですらそうだ。それを痛感したから、私はSNSで発信する頻度をかなり減らしたし、言うときも、ちゃんと読む人はほとんどいない、という前提でやや過剰なくらい丁寧に書き、下書きのなかでうまくいきそうにないときはそもそも発信を止めることにしている。自分でも、こんな風に読み手を信頼していないのは嫌だなあ、いくらなんでも冷たすぎやしないか、と思ってはいるが、こればかりはやむを得まい。こう言っては身も蓋もないが、世の中、一個人が公に向かって言わなければいけないことなんてそうあるものではない。言っても言わなくても良いようなことなら、言わなければいいのである。
とにかく丁寧な議論を心掛けなくてはならない。それでも、やはりどこかで瑕疵は生じる。人間がやることなのだから当然だ。だから仕方ない、ということではない。自らの不完全さを認めたところからでなくては、地に足のついた議論など成り立たない。
もっとも、その姿勢との相性が最悪なのがSNS的なネット言論空間になるわけなのだが。
(矢馬)