第173回芥川賞・直木賞は両賞とも「該当作なし」となった。これは1998年1月の第118回以来、6度目のことだという。この6という数字をどう見るかだが、個人的には、思いの外多いな、という印象だ。その第118回の候補作の作者に、今回の選考委員が3人もいるのもおもしろい(芥川賞=吉田修一、直木賞=桐野夏生、京極夏彦)。
さて、今回のことに対する私の最初の感想は、「へー、珍しいこともあるもんだなあ」だった。両賞は日本の出版業界における半年に一回の祭典のようなものなのだから、候補作のすべての出来がよほど壊滅的でもなければなにかしらの作品に賞をあげればいいんじゃないの? とは正直思うが、あげないならあげないで、別にいいだろう。6カ月も経てば次の選考がおこなわれる。半年なんてあっという間だ。書店としては非常に困りもするだろうが、あくまで一読者としては、ちょっと待つだけのことだ(まあ、私はもう何年も受賞作を進んでは読んでいないのだが)。それに本は他にいくらでもある。
その程度の受け止め方しかできなかったので、三宅香帆のこのような投稿には純粋に驚いた。
「直木賞がブレイクショットじゃなかったら暴動起こすかも私」って予想スペースで言ってたけどそんなことより暴動起こしたくなる結果になるとは思ってなかった、本当に文芸界は小説をなんだと思ってるんだろう。
— 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 (@m3_myk) 2025年7月16日
てか冷静になると、芥川賞直木賞審査員に好きな作家さんも多いのに、この作品の魅力がわからないくらいの読み手なんだ…と思ってしまうこともまた悲しい…。
— 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 (@m3_myk) 2025年7月16日
どうやら三宅は直木賞の候補だった逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』を大層「推し」ていたらしく、本作が受賞しなかったことに激怒している(もっとも、他の作品が受賞していれば反応はまた違ったのだろうが)。そして激怒するのみならず、選考委員の読み手としての資質に疑問を呈し、文芸界が小説を軽んじている、とまで言うのだ。
私は『ブレイクショットの軌跡』を始め候補作を読んでないし、はっきり言えば今のところ読む気もまったくないからその評価自体の妥当性を語る立場にはない。そこではなく、このような発言に至る感情の流れや源泉が、私にはまったく理解できなかったのだ。
こういった投稿に対し、傲慢だ、といった声があるが、私はあまり問題にしていない。別に選考結果であり、選考委員の大物に文句を言ってはいけない訳ではないし、選考委員に必ずしも小説を評価する資質があるかどうかも分からない。それにこと彼女において、発言の上から目線感については今更感もある。ちょこちょこ目に入ってくる彼女の発言は、だいたいどこか上から目線だった。ただ、そのようなことは彼女に限ったことではなく、事実、京大大学院からリクルートに入って独立、という絵に描いたようなエリート路線を歩んできたのだから、ある程度そこは仕方ないのかもしれない。もっとも、出版業界にくっつく形で仕事を増やしてきたのにこんなこといって無駄に敵を増やしたりして大丈夫か? という老婆心が湧いたりもするが、余計なお節介でしかないだろう。(多分)抜け目ない彼女のことだ、今後はより一層「権威に嚙みつくことも辞さない新進気鋭の評論家」路線を強めて上手くやっていくはずだ。
ひとつ疑問を呈すと、「小説をなんだと思ってるんだろう」とは言うが、日本の出版界において小説ほど過剰に優遇されているジャンルはないと私なんかは感じるので、たかだかいち文学賞で一回受賞作がなかったくらいでそこまで言わなくても、とは思った。「文芸」に限っても詩歌やエッセイ、ノンフィクションの方がずっと厳しい扱いを受けているように見えるし、それこそ、公募の新人賞もどんどん減っている評論なんかにそれは言って欲しい、と個人的には思う。
このような投稿で私が驚いたのは、そういった理由ではない。なんでこんなに怒っているのだろう、とただ純粋に不思議なのだ。
そもそも、半ば冗談だろうが、「直木賞がブレイクショットじゃなかったら暴動起こすかも私」という発言が出てくること自体、私には理解ができない。繰り返すが、これは間違っていると言いたいのではない。本当に分からないのだ。自分の好きな作品が賞に選ばれるかどうかなんて、もちろん作者や出版社にとっては死活問題かもしれないが、一読者としては大した問題ではないように私には感じられる。賞に選ばれなければ作品が楽しめないわけでもないし、自分の面白かったという感情が毀損されるわけでもあるまい。
第一、文学賞が純粋に作品の価値や面白さで選ばれると思っているのであれば、あまりにも純朴すぎる。そこには様々な力学、言ってしまえば「大人の事情」があるのであって、それに加えて運に拠るところもある。つまるところ、文学賞は、ある一時の、数ある評価軸のひとつに過ぎない。賞に選ばれなかったからといって、その作品に価値がないということにはまったくならない。
それに、なにが価値があるか、面白いと思うかも、個々の感性に拠るところが大きい。ありきたりな言い方になるが、作品の評価は十人十色なので、自分の感覚とまったく乖離した選考がおこなわれることだって往々にしてある。言うまでもないことだが、賞に選ばれる作品を高く評価している読者が偉い訳でもない。
たとえば今回においても、三宅は『ブレイクショットの軌跡』を強く推すが、読者のなかには塩田武士『踊りつかれて』とか、青柳碧人『乱歩と千畝』こそが、と主張する人もあるだろう(青柳碧人は随分昔にちょっと好きだったので懐かしいのと同時に、直木賞候補になるような作家になったのか、と複雑な気持ちもある)。三宅の発言は、捉え方によっては他の候補作が受賞に相応しい面白い作品だ、と思っている読者をナチュラルに見下し、切り捨てるようでもあり、彼女の今の立ち位置を考えるとちょっと不用意ではないか、とも感じる。
とまあいろいろ書いてみたが、結局は「なんでこんなに怒っているのだろう」という純粋な疑問に収束する。いい加減しつこいだろうが、これは本当に皮肉ではないのだ。もっとも、自分の好きな作品が不特定多数の人間に妙に絶賛されたり、権威ある人物に評価されることが、あまり嬉しくないどころか場合にはよっては嫌で嫌で仕方なく、いっそのこと見つからないでくれ、と思う私がやや極端なのであり、その感性の違いといってしまえばそれまでなのかもしれない。その上で、やはり不思議で仕方ないのだ。
いま少し考えているのは、三宅が頻繁に使う「推し」という概念がそうさせているのではないか、ということだ。宇佐見りん『推し、燃ゆ』では「推しは人生の背骨」といった表現が使われており、三宅もまた著書『「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』にて「推しを語ることは、自分の人生を語ること」といった章を立てている(サブタイトルから分かるように、そもそも本書が自分の「推し」の良さを語るための言語化の術を解説している本だ)。たしかに「背骨」であり「自分の人生」が、その業界の権威とされる人物、賞によって評価されなかったとしたら、自分自身そのものが否定されているようにも感じてしまうものなのかもしれない。「背骨」が折られたら死にかねない。だとすれば、怒る理由はまだ理解できる。
だとすると、問題はこのような「推し」感情の有無であり濃淡であるのかもしれない。私にはこういった感情がほぼない。好きな物はもちろんあるが、「推す」とはどうにも違う。ましてや文学について、私は「推す」という感情で接したことが一度もないかもしれない。もっと個人的で、どこか秘かに楽しんでいるらしい。
もちろん楽しみ方は人それぞれだから構わない。私がドライな人間なのだ、と言われれば否定もできない。だが、もし「推し」感情がこのような少々過激で、視野狭窄的な反応を惹起させてしまうのであれば、やはり何事もほどほどの距離感を保ったほうが良いだろう。血肉とするのは良いが、体であり頭を支える「背骨」まであずけてしまうのは、ちょっと危うい。私はとりあえず今まで通り、「推し」感情とは少し距離を置こうと改めて思った。
それはそれとして、(己の天の邪鬼な性格が主な要因だが)自分の好きな作品が世間的な注目を浴びることがほぼなく、ましてや賞レースに乗ることなど皆無な人間からしたら、こんな風に一喜一憂できることが、ある意味では羨ましかったりもするのだが。……いや、やっぱりどうでもいいか。
(矢馬)