2025年7月
今月の関心事といえば、やはり参院選になってしまう。大躍進を遂げた参政党について、私はよくある泡沫政党のようにしか思えていなかったので、今回の選挙が始まる前あたりからの報道でここまで支持を集めていることを知って心底驚いたものだった。
その獲得議席数にも目を見張ったが、しかし米国でトランプが再び大統領に選ばれるのだから、あり得ない話ではない。どうしようもない世の中である。こんな世界で人間に期待するという方が無理なのではないか、とため息を吐かざるを得ない。
とりあえずこれからはなにを考えるにも「人間はダメなんだ」という地平から始めなければならない。厭世的思想ではない。現状をフラットに見つめるために必要不可欠、最低限の心構えだ。人間の愚かさを深く自覚し、そこから少しでもマシになるために学び、考える。本来的な意味での性悪説に立たなければ、その主張は地に足のついていない、ただただ空虚なものになるばかりだ。
もっとも、参政党がこのままの勢いで伸長していくとは言い切れない。なにせ、2024年の東京都知事選であれだけの旋風を巻き起こした石丸伸二が、たった1年でこの有様なのだ。石丸について、今回の失墜の理由を挙げる記事は少し見た。それ単体で見れば納得できるものもあったが、しかしそれは前々から分かっていたことだろう、と言うしかない要因も多く、だったら都知事選のときにすでに支持を失っていなければおかしくないか、とそれはそれで疑問だ。
あのとき石丸を熱狂的に推した人々はいったい、彼の何を見て支持し、そして何を以てたった1年で見放したのか。主義主張、思想の内容に関係なく、こうした人々の動き、そこにある感情の変化が、いまの私にはもうまったく分からない。人間ってこんなにも健忘的だったか? と言いたくもなる。
さて、文学の面においての一番の話題は、芥川・直木賞両賞が「該当作なし」となったことだ。私としては「珍しいこともあるものだなあ」くらいの感覚ではあるが(念の為つけ加えると、書店においてこれが大打撃であることくらいは言うまでもなく承知している)、驚いたのは、これに対する三宅香帆の反応である。
直木賞の候補となっていた逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』を大層「推し」ていたらしい三宅はこの結果に対してSNSで、「芥川賞直木賞審査員に好きな作家さんも多いのに、この作品の魅力がわからないくらいの読み手なんだ…と思ってしまう」「本当に文芸界は小説をなんだと思ってるんだろう」などと投稿し、激しい反感の意を表明した。
この発言の是非は措く。語弊を恐れずに言えば、『ブレイクショットの軌跡』が本当に直木賞に値する作品なのかどうか、この出版不況で受賞作を出さないことが間違っているのかどうかなどについて、さほど関心がない。良くも悪くも芥川・直木賞もいち文学賞に過ぎないし、そもそもいち読者としては文学賞にそこまでの絶対的価値を見ていない。だから驚くのは、言ってしまえばたかがそれだけのことで、三宅がここまで怒ること、それ自体にである。
賞に選ばれなければその作品の発表の場が奪われる、というのであればまだ分からなくもないが、『ブレイクショットの軌跡』はすでに単行本として出版されており、作者のデビュー作『同志少女よ、敵を撃て』の大ブレイクもあって(当時の書店での本作のゴリ押しには思うところがあるが、ここでは割愛する)、書店でもわりと大々的に展開されている部類の本だ。逢坂冬馬など、いまや直木賞よりも実売に直結している本屋大賞に選ばれていて、このまま書き続けていればその内に直木賞だって獲るだろう作家だ。書店での扱いも、現代作家の中でトップクラスに恵まれている。だから今回のことは少なくとも逢坂冬馬という作家については、大した問題には思えない。
そして、半年も経てば次の選考がおこなわれることを考えると、直木賞という賞についてもここで一度「該当作なし」としたことだって、たまたま芥川賞の「該当作なし」と重なったことで変に話題になってしまったが、全体として見ればちょっとしたイレギュラーな出来事に過ぎないのではないか。
だが、三宅にはとてつもなく大きな出来事らしい。皮肉ではない。私には本当に、彼女がここまで怒りに燃える理由が分からないのだ。一瞬、『ブレイクショットの軌跡』が直木賞を受賞したときに自分に舞い込んでくるはずだった仕事の機会が失われたことへの怒りなのだろうか、とも考えたのだが、さすがにこれは意地悪がすぎる見方だろう。よしんばそうだったとして、文筆業だって仕事なのだからまあそういう本音があって然るべきだろうとも思う。三宅にそのような本音がないとは言わないが、しかし、やはり彼女の怒りはどうにもそれだけではないように感じる。不思議だ、何故だろう……。そう考えてみてひとつ思い至ったのが、「推し」という概念だ。三宅は『「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』(ディスカバー携書)にて、「推し」が従来の「ファン」や「贔屓」と違う点として、「『推薦したい』、つまりは誰かに薦めたい、という感情が入っていること。単にこの対象が好きなだけじゃなくて『他人に紹介したい!』『魅力を言葉にしてその素晴らしさを分析したい!』という欲望を持つことが、推しの条件なのかもしれません」と分析している。「推し」とはただ好きなのではなく、どこか外にその感情をぶつけるものなのか。そして三宅はこうも言う。「推しを語ることは、あなた自身の人生を語ることでもある」。なるほど。だとすれば「推し」を否定されること、しかもそれがその業界の権威とされる賞や大物によってなされることは、自分自身の好きという感情をも断罪されるものなのかもしれない。
「推し」を語りたいがどうやって語ればいいのかが分からない、という人に向けられた本書は、書き出しの具体的な例や、一度書き上げた文章の修正方法の着眼点など、かなり初歩的だが、それ故に汎用性の高いテクニックが示されており、その点については参考になる。ただ私は、本書ではほとんど良いことが自明であるかのように語られている「推し」について三宅のようには礼讃しがたいため、そこで躓いてしまう。そもそも「推し」を外に向けて語らなければならない理由、その効能についても、本書にはある程度説明があるものの、いまいち釈然としない。
文学の世界でも、宇佐見りん『推し、燃ゆ』が話題になった。本書では「推し」について「人生の背骨」といった表現が用いられている。「人生」という語を使うところに三宅作との共通点を見出すことができる。いわゆる「推し活」をし、それを外向きに語る者が往々にする大袈裟な表現のメタファーなのかもしれないが、私は、やはり「推し」に自分の背骨、人生を預けるのは危うすぎると思うのだ。
これは、三宅が言う「それでも結局推しってただの消費行動じゃん、って言われることもあります」といった懐疑的な意見とは違う。そもそも、なぜ自分の行動を「消費行動」とされることをそこまで拒絶するのかも分からない。そうではなく、「推し活」というものが昨今の政治的なものを含めた情勢に根の深いところで影響しているのではないか、という感覚があるのだ。今回の選挙もそうだ。選挙自体が、どこか「推し活」のイベントのように見えてくる。「推し語り」には保留が乏しい。ノンストップでマシンガンのように繰り出される言葉の数々には、内容云々以前に引いてしまう。SNSでの特定政党に関する語りなど、まさにそうだ。政党、各候補もその流れに乗ろうとしている。私にはそれが怖い。結局、石丸が一気に伸び、そして失墜したのも、この「推し活」的反応の表裏によるものなのではないか。だから、選挙の時期になるとSNSでしばしば見られる、「推しの政党を持って選挙権をちゃんと行使すれば、選挙自体がエンタメ的なイベントになって楽しくなるよ」的な勧め方に賛同するのを躊躇う。本当にそれでいいのか? 選挙ってそういうものなのか?
三宅は「推し語り」の利点について「自分の推しの魅力を発信することによって、それを見た誰かが自分と同じ推しを好きになってくれるかもしれない。推しを他人に好きになってもらうため、推しの仲間を増やすために『好き』を言語化してみる」と言う。だが、たとえば参政党支持をSNSで表明し喧伝する人々の多くは、このような意識のもと、ほとんど善意で発信をしているのではないか。ゆえにこれは盛大な「推し活」であって、だからこそ厄介なのだ。
三宅は否定するだろうが、私には、「推し語り」はどうしても冷静さや客観性を欠く傾向にあると感じられる。肯定が悪いとは言わない。ただ、それは「推す」という前提での言葉であり、私はあまり好きな言葉ではないが「布教」を目当てとしているのであれば、やはり礼讃一辺倒になりがちだ(「布教」という言葉自体、こんな素晴らしいものを知らない可哀想なあなたに教えてあげる、みたいな響きを感じて嫌だ)。「推し活」特有の大袈裟な言葉遣いも、ここに起因しているだろう。
また、三宅は口酸っぱく「自分の言葉で語る」と言う。この「大SNS時代」においては他人の言葉が絶えず目に入り、その強い言葉に流されて自分の意見が持てなくなる、自分の意見のように思っているが、その実、他人の言葉で語っている、という指摘については、特に耳新しいものではないが、理解はできる。
だが、その上で私は少し違う意見を持っている。根本的に「自分の言葉」なんてものは存在しない。言語自体が借り物であり、公共物である。言語を覚えるのも、すでにある単語や文法を真似る形で行われる。そして言語によってすべてのものを十全に表現することはできない。形にならないものを、とりあえず目に見えるものとしてなんとかかりそめの形に整えて表現し共有、伝達するために使われるのが言語という道具だ。
だから、三宅が自分の言葉で表現するためにまずすることとして、「自分の感想を書く前に他人の感想を見ない」としているのには、一見それっぽいが、少し立ち止まりたくなる。その特定の作品等について、他人の意見を見ずに書いたくらいでそれが「自分の言葉」からなるものだと思い込むことの方が危ないのではないか。言うまでもなく、今自分が持っている言葉は多くの他人の言葉で作られている。その認識なき「自分の言葉」は、結局は巷に溢れるそれとあまり変わりない。皆が同じような言葉遣いで同じ言葉を話すことについてエコーチェンバー現象を指摘するのはクリシェとなっているが、私はそこに、もしかして皆が他人の言葉を聞いていないからなのではないか、という仮説を立てている。
もちろん流されないような意識付けは必要だと思うが、私はむしろ、そこに自分自身も含めて、複数の他人の言葉と適度な距離感で向き合い、そこから矢印の向きを内と外に何度も変えて積み重ねる形でひとつの(それは必ずしも「自分の」ではない)主張を構築していく方が、結果的に「自分の言葉」に近づくのではないか、と考えている。あるときから私は小説でもなんでも、他者の言葉を積極的に組み込むことで作品を構築しているが、それはこのような問題意識に拠るところが大きい。
私は三宅の出世作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を批判している。それは、すでに彼女のなかにできている価値観を「布教」するような筆致が、あまり受け容れられなかったからだ。ただ、受け止めたつもりではいる。今回も三宅の意見にはあまり賛成できず、もしかしたら彼女を「推す」人々からは私はアンチのように見られるかもしれない。だが私は、今回の件、そして彼女の「推し」についての考えを一旦は受け止めて自分を改めて見つめ直した結果、自分のなかにあるもやもやとした感覚、価値観をとりあえず言語化できて、おそらく根本的な感覚が合わないのだろう、と認識することができた。本を読む、ひいてはコミュニケーションを取るとは、こういうことではないだろうか。
いまどきこんなことはしち面倒くさいのかもしれない。スタイリッシュでもないかもしれない。それでも今のところはこの方針でやっていこうと思っている。表街道は、私の趣味ではない。
しばしば漫画やアニメの題材にもなる部活動を表街道とすれば、部でもなんでもないのに何故か「部」をつけて語られる帰宅部は裏街道的存在と言えるだろう。その帰宅部、いや、学校から家への帰り道にさまざまなロマンを追求し、帰宅時間を豊かにすることを目的とする「ハイパー帰宅部」をテーマにしているのが松田舞『放課後帰宅びより』(双葉社、既刊4巻)だ。
高校に入学した主人公の佐藤瞬は恵まれた体格を持ち、中学時代まではサッカーに打ち込み、県大会でMVPに選ばれてからはプロチームの下部組織に入ってプロを目指すような選手だったのだが、足を怪我したことことにより運動部を断念せざるを得なくなった。
様々な運動部に勧誘される度に怪我のことを説明しなければならないことに嘆息し「帰りてえ」と呟いたところ、「ハイパー帰宅部」を名乗る2年生の女子生徒・佐藤直希、通称「直帰ちゃん」に目をつけられ、帰宅に誘われることになる。ハイパー帰宅部は直帰ちゃんひとりが勝手に作っている学校非公認の部だ。「帰り道には家にも学校にもないロマンが転がっている」と彼女は言う。これが登校だと時間的な制限も多いが、帰宅となるとかなりの融通が利く時間だ。瞬はこれまでこの時間帯にはサッカーの練習をしていたが、それが途端に、なにもしない時間になった。高校生活で楽しみにしていたことがなくなった、とアンニュイに夕日をながめる彼に対し、もし楽しみがなくてもとりあえず学校に来てくれれば私と一緒に帰れるよ、と直帰ちゃんは言う。帰宅するためには登校しなければならない。流されるようにして瞬はハイパー帰宅部の部員となっていく。
直帰ちゃんの「学校でも家でもない」帰宅の時間という表現がおもしろい。これが部活であれば学校の延長線上だし、習い事であれば確かにどちらにも属さないかもしれないが、それは学校・家と並ぶ第三項が生まれるだけだ。帰宅は違う。学生にとって学校からの帰宅とは、学校に行く、という習慣によって不可避的に生じてしまうエアポケットのような時間だ。瞬の挫折を知り、そんな彼の放課後を楽しいものにしてあげたい、と願う。明確な意味を持たない時間を共有し、共に笑顔でありたいという気持ちは、とてもピュアなものだと私は思う。
そんな松田舞の連載デビュー作が『錦糸町ナイトサバイブ』(講談社、全3巻)である。ドラマのヒロインに憧れてキャバクラで夜の女王となるべく秋田から上京した小夏。一緒に暮らしていたがこの春に亡くなった祖母が昔住んでいた、という理由で、代表的な夜の街である六本木や新宿ではなく墨田区錦糸町に降り立った彼女だが、20歳には到底思えない幼い容姿故に門前払いが続く。そしてその内のひとつのお店で、調子に乗ったことから大量のドンペリを始めとした店の備品を破壊してしまい、300万円という借金を背負う羽目になる。そうして彼女は借金を返済すべく、地元でも顔見知りだった、10年前に上京した歯科医のおじいが錦糸町で営む夜間診療の歯医者で、歯科助手として住み込みで働くことになる。
作中でも自虐的に語られるが、錦糸町は決して綺麗な街ではない。それは地元民であり、中学生でライトノベルなど本を読むようになってからは毎週末、最盛期には1週間で8回ほど錦糸町をウロウロしていた私が保証する。東京スカイツリーができた今は駅前くらいは多少お洒落になった気がしないでもないが、特に南口の方はまさに酒、ギャンブル、風俗といった趣きだ(名誉のためにつけ加えると、上品な街とは言い難いが、世で言われているほど治安は悪くない)。いまもって上品な街にどうにも居心地の悪さを覚えてしまうのは、この街に深く親しんできたせいでもあるのかもしれないが、ともかくそんなやっぱり表街道とは違う世界で生きる人々のために働く夜間診療歯科を舞台に、小夏はいろいろな人と触れ合い、各々が抱える思いや悩みを受け止めて自分なりに考え、成長していく。
その容姿故に面接ではじかれ続けた小夏だが、これは作中でも何度も暗示されているように、キャバ嬢を目指すうえでひとつ、大きな才能を持っている。それは、真に相手のためを思って行動でき、誰とでもすぐに仲良くなれること。本人は「人と話すのが好きなだけ」と特別なことをしている意識はまったくないが、患者の名前や顔、職業や前回の診療でしたおしゃべりの内容などを憶えられるのは、損得勘定を抜きにしたところで相手に関心を持っているからだ。自分に興味を持ってくれて、ときに行動してくれる。そんな人に惹かれるのは当然である。やや強引かもしれないが、読書という趣味において大切なのも、このような心の持ちようではないだろうか、と最近考えている。すべてを受け容れろ、と言うのではない。先述したことの繰りかえしになるが、一旦受け止めることが大事だ、ということだ。最後、小夏は自分にとってキャバクラも夜間診療歯科も同じだ、という。私は、社会のなかで生きるということが詮ずるところここにあるのだ、と言ってみたくなる。
松田舞の作品には、基本的に悪い人が出てこない。サバイバル形式のアイドルオーディションという、人によっては醜い嫉妬や足の引っ張り合いなど、人間のドロドロしたところをフィーチャーするだろうテーマを扱った『ひかるイン・ザ・ライト!』(双葉社、全4巻)でも、本当に嫌な奴というのは出てこない。
だが、それは人間の描き方が薄い、ということは意味しない。上記2作品と比べると登場人物が多いので、もう少し長く続けて一人一人のエピソードを一歩二歩掘り下げられたらより良いものとなったようには思うが、とりわけ主人公のひかるの揺れ動く感情にはハラハラさせられる。歌は好きだけれど、自分には遠いものだと思っていたアイドルの世界。自分の歌で多くの人を笑顔にできるかもしれないと知って挑むオーディションでは、ただ好きなだけではダメだということを突きつけられて挫折したり、世間の声に悩まされ、無理をして体を壊したりする。そして彼女だけではなく、オーディションに参加する少女達は様々なバックグラウンドを持ち、各々の信念や悩み、そして弱さを抱えている。
チーム対抗戦。負けたチームから2名が脱落するというなかで、実力で劣るこころが、もしこのチームが負けたときにはどうすれば自分が生き残る可能性があるのか頭を巡らせていた横で、同じく下位の力しかないひかるは、今の自分は自分自身のことだけで精一杯になってしまっている、自分を助けてくれたこのチームになんとかお返しし、貢献して一緒に勝ちたい、と口にする。このときのこころの表情は複雑だ。彼女は別に自分が生き残るために誰かの足を引っ張ろうとしていたのではなく、ただ負けたことも念頭に考えていただけだ。これを性悪なんていうものとは到底言えない。利口とすら言える。それでも、ひかるの言葉を前に彼女は自分を恥じざるを得ない。損得勘定を抜きにして誰かに尽くせるひかるは、このオーディションの発起人・葉山が求めていた、作りあげられたものではない「特別な人」たる資質を兼ね備えていたのだろう。
2016年のアフタヌーン四季賞を受賞した、タバコ屋の女主人と、捨てられてカラスに襲われそうになったところを彼女に助けられた野良猫・さゆりの小さな物語「愛猫ババアに捧ぐ」(「good!アフタヌーン」2016年8月6日号)では、野良猫ゆえにあまり長生きできないだろうことを自覚し、その上で「私を捨てた人のこと恨んだりしない 助けてくれた人のために生きるんだ」というさゆりの言葉が響く。そして、ここから改めて見てみると、この台詞はここまでの松田舞の作品を貫く精神であるようにも感じる。
おそらく一般的に手に入る松田舞の全作品について、すごく簡単に、いま感じていることを書いてみた。果たしてこれが「推し語り」になっているのか否か。自分で言っておいてなんだが、好きなものに対して冷静に、一定の距離をもって見つめて考え、言葉にする、というのは相当に難しい。そして、「推し活」「推し語り」を称賛している人々もまた、本当はそれに気付いていると思うのだ。荒木優太は「『私』を知りたいのではない、対象を知りたいのだ、という読者の反応に、現代の書き手は怯えている。だから総体として賛成・称賛ならば、まあいいかと思って自分のなかの九九を一〇〇に概算して読みやすい文章に融かしこむ」と言う(「後述と保留 信頼関係によってなる奇跡の書」 山口泉『私たちはどんな「世界」に生きたいのか 松下竜一論ノート』書評 「週刊読書人」2025年7月25日)。この「現代の書き手」の怯えは、よく分かる。だが、やはりその「一」を殺してはならないのだ。少なくとも、私は捨てないでいきたい。本を通して自分を見つめ、そしてなにかしらを語ること。それはとりもなおさず、この「一」に絶えず向き合い続けることだ。苦しい営みかもしれない。だが、そこから逃げたときに待っているのが、耳触りのいい参政党的世界であると、言えないことはない。
そういうわけで、その書評で取りあげられていた『私たちはどんな「世界」に生きたいのか 松下竜一論ノート』(田畑書店)を先日買ってしまった。定価8800円。しばらく新たに本を買うつもりはない(と、もう10年近く毎月のように言っている気がするが)。かなり分厚い本でもあるし、来月はもしかしたらこれと、せいぜいが1冊くらいしか読めないようにも思う。島田潤一郎『長い読書』(みすず書房)で著者は「片道二〇分の通勤のあいだ、毎日、本を紐解く。往復四〇分。一日も欠かさず続けていれば、年間、五、六〇冊は読める」と言うが、本当か? 読むの早くないか? と私は疑っている。もしかしたらそれを試すいい機会かもしれない。
(矢馬)