ソガイ

批評と創作を行う永久機関

読書日記的備忘録 2025年10月—ムーブメントから少し離れて

2025年10月 

 今月は2つの本の組版に、そこに載せる文章の執筆と、自分比でなかなかに忙しい月だった。あまり本を読めないでいて気がつくと、もう月も半分を過ぎていて驚いた。

 時間の進みがどんどん早くなる。いつの間にか首相も替わっているし、31歳になって世の中の流れについていけなくなる。そしてこれはあまり良くないと自覚しつつも、米国の大統領の隣に立ってはしゃぐこの国初の女性首相の姿を見て、時代とやらについていくのがバカらしく思えて仕方なくなっている自分を感じる。首相交代時は大抵そうなるものだとはいえ、これで支持率が大幅に向上するのだからわからない。メディアを始め、直近の首相のときに皆があれだけ口うるさく主張していたことはなんだったのか。

 この日記を初めて良かったことのひとつは、そのときに何があったか、自分はそれに対してどんな本、どんな言葉を通してどんなことを考えていたか、さらには誰それがどんなことを言っていたか、ということが常に確かめられる形で残せることだ。1年前どころか、1カ月、1日前に自分が言ったことすら忘れて、その場その場で有利なポジションを獲得しようと都合良く理論や主義をすげ替えて恥じない人々を目の当たりにし、こんな世界はもう諦めて放っておきたいという気持ちが湧いてくるが、それでも、いや、もう少し粘ってみようよ、と自分を鼓舞する毎日である。

 しかし、時間とはなんなのか。とある事故の影響で老化の速度が人より極端に遅い少女・アコを始め、幽霊であったり妖怪であったりと様々な種の様々な時間を持つ者たちがひとつの古い木造アパートで暮らす冬目景『ACONY』(講談社、全3巻)の裏の主人公は、このアパートだ。同潤会アパートがモデルとなっているこのしきみ野アパートには魂が宿っており、彼自身がその年月を湛えながら、種々様々な者たちの生であり死を包んでいる。衣食住とは良く言ったもので、住居は人間の生活の基礎であり、そして人間の生活の象徴でもある。

 6月の読書日記に私は、「物に刻まれた歴史を想像するのが好きだ」と書いている。私は別に建築オタクではなく、その正確な歴史的背景や建築技法、形式美といったものにはさほど関心がない。ただ、それが確かにそこにあること、あるいは、そこにあったということ。その事実に、なぜだか心が惹かれるのだ。だから時々、意味もなく散歩して立ち並ぶ家々を見たり、建物が写っている写真集なんかを眺めたりする。今月でいえば木下光・東野友信・前谷吉伸『日本の美しい酒蔵』(エクスナレッジ)の、特に古い建築物が並ぶ風景を眺めて現代へと連綿と繫がる伝統を感じたり、あるいは小林伸一郎『廃墟漂流』(マガジンハウス)で写される炭鉱などの、人から忘れ去られて荒んだ建物から、かつてそこにあった生活であり命に目を凝らしてみたりした。吉野賢壱『駅 Station〜昭和の駅の風景〜』(リイド社)なんて特に良い。ノスタルジーではない。過度に取り繕わない素朴な姿が快いのだ。

 根本的に、私は新しいものよりも古いものが好きらしい。まあ、先月末に行った大阪の梅田スカイビル(1993年竣工)の展望台に昇ったときは年甲斐もなくワクワクしたのだけれども。

 その点でも、今月は鬼海弘雄『靴底の減りかた』(筑摩書房)に尽きる。40年以上も浅草で市井の人々のポートレートを撮り続けた仕事(『PERSONA』)などで有名な写真家のエッセイ集だが、間に入る32枚(カバーと表紙を合わせたら35枚)の写真も良い。

 本書に収められている写真には人間はほとんど写っておらず、町の風景、特に建物を撮っているものが多い。特別な建物ではない、町を歩いていればどこにでもあったような家には、地べたの生活や、土の歴史が、ときには汗のように、ときには埃のように沁みついている。このような路地の写真は、本書の題名にも表れているがとにかく歩いていることで見えてくるものなのだろう。

 また、町歩きをするなかで出会う、あるいは出会すといった方が良いのかもしれないが、そこにいる人をよく憶えていることには驚かされる。この人は前にもここにいて、どんな恰好で何をしている人だった、といった具合に。未知の場所に足を運ぶのももちろん良いが、同じ場所を何度も何度も見ることではじめて感じられるものもある。

 現代では全国の店も町も、規格品のように「コギレイ」になってしまい甚だオモシロクない。しかしここ上野のアメ横界隈は、むかしながらの正系の混然さが沸騰していて、むせ返るような人と物の匂いに満ちている。地べたに裸足で立っているような安心感を覚える。(14頁)

 あとがきで著者は、文章は「苦手」だと謙遜している。得意、苦手は主観の問題なのでその正誤を判断する権利はないが、しかし私はたしかに、この文章は良い文章だと思っている(きっと得意なのだろうが、その書く文章はまったく良くない、という人も多々ある)。高い技巧性があるかと言われれば分からないが、まさに「地べたに裸足で立っている」と感じられるのが、本書に収められているエッセイだ。観念的になりすぎず、したり顔も見えない。やはり優れた散文である。

 奇しくもここで語られている「コギレイ」さについて、最近のエッセイや小説に当てはめても近しいことが言えるように感じる。エピソードや設定が突飛だったとしても、こう言っておけば間違いないよね、という空気が見られるのだ。ひねたところもある私からすると、それ、本当に心から、そして身体で、そう信じていますか? と問いかけたくなる。実際、他者(露骨に言えば「敵」)を糾弾する際にはあれだけ徹底的に掲げていた基準、主義について、それが自分たちに向けられた途端になかったかのように、あるいは理屈をこねくり回して例外とするような言動が多々見られる。もちろん人間はどうしても一貫した生き物ではないし、それまでの考えは間違っていたと反省することだってある。立場が変われば、言うことが変わることもあるだろう。それに、身体で理解すればいいという問題でもない(そもそも、身体と頭という二者択一で判定すること自体がナンセンスだ)。ただ、そのあまりの豹変ぶりには、やはり都合の良さを感じずにはいられない。

 私自身はあまり説得力を感じない主義であったとしても、しかしあれだけ主張していたのだから、あなたたちにとってそれはとても重要な、切実な想いではなかったのですか? それは自分たちに向けられた瞬間にそんな簡単に見て見ぬ振りできるようなものなのですか? 怒りというよりは、悲しくなってくる。結局、身体の中から出る思想ではないから、そんな風に簡単に、その場その場で都合良くすげ替えることができるのではないか。いや、そこまで考えてすらいないかもしれない。限りなく「今」しかなく、もうかつて自分が言ったことなど忘れている。

 こういう主張にしておけば否定されないから、いまはこれがトレンドで偉い人が皆そう言っているから、こうすれば広く評価されるから——そういった意識が透ける括弧付きの思想をわざわざ読む必要性を、私はまったく感じない。文筆や表現で食っていくには仕方ないのだ、と言われればそうなのかもしれないが、「『稼げないこと』を承知で、表現者になりたいなどと『ぐれた』人たちは、いつの世も身を立てることが出来ないのは当たり前のことなのかもしれない」(211頁)と言えるくらいの矜恃は欲しいものである。本音を明け透けに語ればいいというわけではない。その葛藤のなかで考え抜くなかで生まれ、そして吟味された言葉こそ読みたいのだ。

どの社会でも、表現することが職業と結びつく僥倖を得られるのは僅かな稀人だけだ。そんな幸運を望むべくもなく、それでも己の表現に居直り、「かぶき」続けるのは、それらの人が業の網に捕われているからだ。(211頁)

 ポーズではなく、身体の内から傾(かぶ)く者を見ることが少なくなった。本を、文字をたくさん読むことで必ず視野が広がると無邪気に考えることはできなくなった。却って視野が狭まることもある、とすら思えている。物を考えるとは身体を使うことであり、そしてそんな身体から出てきた言葉が、作品の材となる。ほとんど視神経しか使っていないような文章ではやはり駄目なのだ。

 ここで「作品」ではなく「作品の材」といったのには理由がある。その言葉が作品となるには、さらに手の掛かる工程を経なければならないからだ。

 プリントに出来た白いスポット(引用者註:現像で入ってしまったフィルムのゴミや傷の跡)をラジオを聴きながら筆で埋めていく。目が鋭くなるので粒子のような点も見逃さない。丁寧に筆の墨をあわせ、気を抜かないでやる作業はやたらと時間がかかる。それ故に見知った一枚の写真にまた何十分もじっとつき合うことになる。この見るとはなしに見る行為がわたしには、写真の善し悪しの判断のひとつの計りになってもいる。スポットの時間に堪えられない写真は、表現が浅いので、除くことにしている。スポッティングは、また旅の時間の反芻。(128頁)

 著者においては写真のみならず、文章という表現においても同様の篩がかけられているのだろう。空虚な飾言、まやかしの一節は、このスポッティングのような精緻で地道に向き合う作業の前では、夾雑物として浮いてくる。「反芻」に堪えられないものを作品として残す意味とは何なのか。「時間」の軽視が、こういった作業を省かせる。

 果たして自分はそのような工程を厭わずに自分の文章に向き合えているのだろうか。「観念的にならずに具体のまま普遍に到達」(221頁)する可能性は、静止画のみならず文章にもあり得るのか。命の危険すら感じる猛暑でなかなか動けなかったと思いきや、あっという間に寒さで身体が縮こまる。そんな厄介な気候に日本もなってきているが、靴底を減らして、対象を通じ、その度に自分自身をも見つめ直していかねばならない。

 ものを考え、そして表現するには道具が必要になる。最近はパソコン、スマートフォンなどにその多くの機能が集約されている。それはそれで便利で良いのだが、思い返せば、小さい頃なんかはもっといろいろな道具を使っていた。文房具である。串田孫一『文房具56話』(ちくま文庫)で語られるのは、鉛筆や消しゴム、万年筆に始まり、下敷き、吸取紙、朱肉、書棚に至るまでの、なかには、果たしてこれは文房具なのか? と問いたくなるような(著者も自分で言っている)ものもある。著者は、同じ機能を持つ道具でも、たとえば鉛筆と万年筆では書くときの心持ちだったり感覚が異なる、というように、道具によって自身の行為が影響される気持ちであり経験を、柔らかい筆致で書く。

 私はここ5、6年、鉛筆をよく使う。同じBの鉛筆という商品でも、ここまで持ち心地、書き心地、芯の丈夫さが変わるのか、と今更ながらに感慨を覚えている。上で鬼海の言葉を引いて、現代の文章に感じる「規格品」のような「コギレイ」さについての雑感を記した。牽強付会かもしれないが、規格品のようになる要因の一つにこの道具の画一化があるのかもしれない、と考えてみる。人間の想像力であり表現は、外界、たとえば道具によって喚起される側面もある。各々が違う道具を使ったならば、文章はもう少し、良くも悪くも雑味を持ったものになるのかもしれない。

 だが、そこに戻ることもそう容易ではなくなっている。愛用していた縦罫の帳面が需要減により生産が減り、手に入らなくなったことに対して、著者はこう洩らす。

 しかし、縦罫の需要が少ないということで、世の中の移り変わりが分かるような気もする。と同時に物は豊富でありながら、本当に欲しいものの買えない時代だとも思う。(14〜15頁)

 よく、本屋がなくなった、CDショップがないと騒がれるが、私の体感としてより深刻なのは文房具店の少なさだ。一部、本屋や大型家電量販店に吸収された感もあるがともかく、思いの外、文房具が手に入りにくい世の中になっている。文房具だけではない。私は本に対しても同様の諦念を抱きながら、本屋の棚を回ることが増えている。

 また、

 用途が広くて便利だというものは、文房具に限らず、ほんとうの用途が忘れられていることが多い。(134頁)

 このような普遍的な箴言が出てくるのも、本書の面白いところだ。身近な道具に、改めて目を向けてみたくなる一冊だ。

 そのほか、これは読みさしだが秋山駿『簡単な生活者の意見』(講談社文芸文庫)なんかも読んでいて、ああ、良いエッセイはもうすでにたくさんあったのではないか、との思いを深くしている。その影響もあって、4月の読書日記では重点的に(やや批判的に)取りあげ、今月第2号が刊行された『随風』への関心を失ってしまった。しかし、これは『随風』が悪いのではない。本一般に対して、自分が読むべき物はもうすでに読み切れないほどこの世の中にある、との私のここ数年の信念がそうさせてしまうのだ。私がこの文章を「時評」ではなく「日記」としているのも、それが理由だ。

 とはいえ、なんだか日記は日記でいまブームになっているらしく、近く、内沼晋太郎が日記の文芸誌を創刊する、なんて話を聞くと非常に複雑な気持ちではある。ただ、とくにコロナ禍以降に数多出版された日記本をパラパラめくると、それがあまりにも日記日記していて、ほとんどファンアイテムに近いようなものも散見される。果たしてこれがこれからの文芸において独立した一ジャンルになるのかと言われると、少なくともこのような日記本がメインとなるのであれば、私にはかなり疑問である。

 閑話休題。さらにいえば『随風』は創刊号が大層話題になったとのことで、随分と読書界隈に歓迎されているようだ。となると、もう私の出番ではない。この性格だけは、当分変わることがないだろう。いや、最近はむしろ強くなってきている。「評判」が作る流れの勢いの強さが、怖くなっている。

『随風』がそうだと言う気はないが、盛り上がり方がちょっと異様だと感じるケースが多々ある。作品もそうだし、批評用語もそう。大事なのは分かるが、しかしそんなにも多くの人が一編に興味を持つほどなのだろうか、と疑問を覚える。篠田節子『青の純度』(集英社)の参考文献を巡る問題についても、これだけ話題になっていること自体が実はピンときていない。こんなにも文章の作法や手続きについて問題意識を持っている人がいたのか、と。私の体感とはあまりにも乖離していて、やはりというか、いま集英社を叩いている人の大半が実のところそんなに出版に興味がなく、1、2週間もすればもう忘れているのではないかと思われて仕方ない。とにかく勝ち馬に乗って、一丁嚙みしたい人が多すぎる。

 その点で、今月『よふかしのうた—楽園編—』『コトヤマ短編集 ファンフィクション』(共に小学館)の2冊を同時刊行したコトヤマは、自身に向けられているそのあたりのものを客観的に見られている。週刊少年サンデーで連載を始めてから『だがしかし』『よふかしのうた』と連続で人気を博し、どちらもアニメ化されるなど、近年のサンデー、ひいては若手漫画家においてはかなり抜けた存在であるコトヤマだが、意外にも、『楽園編』のあとがきではこのように語っている。

そもそも。いつまでこの仕事を続けられるのかわかりません。

あまりこのような言い方をするものではありませんが、実力を大きく超える評価をいただいてしまっているな、といった気持ちがこの10年ほどずっとあります。

本当に言うべきことではない……。

何が言いたいかと言いますと、ちゃんと実力が追い付けるようにしたいですね…という話。

 取る人が取れば嫌味になるし、場合によっては「好きだと言ってくれる読者に対して失礼だ」といった優等生的な批判も飛んで来そうだから「本当に言うべきことではない」と付言しているのだろう。本当にいまの評価が実力に見合わないものなのかどうかも、私にはわからない。

 しかし、作品というものは時として、実際の実力や完成度と大きく乖離する評価がくだされ、ときに熱狂、ときに酷評されることがある。目に見える数や声が、必ずしも作品、作者そのものの器を反映するものではない、という意識を持てているか否か。その意識は、今みんな、偉い人がそう言っているからこれは正しい/間違っている、と時流に乗ることを第一に考えているように見える人が作家や知識人と呼ばれる者の中にも増えているように感じられるなか、非常に得がたい、そして重要な羅針盤になるのではないか。なお、作品としては『楽園編』が、本編の流れ、吸血鬼というテーマを汲みつつ、アイドル、若さ、新興宗教などの現代的なモチーフを上手く取り入れていておもしろかった。

 小さい頃はなんとなく、今になっては割と自覚的に、ブームに乗ることや、大きなものについて「名を連ねる」という行為があまり好きではない。この日記に自分が書いてきたことを読みかえしてみても、世の中に諸手を挙げて歓迎されているもの、業界がこぞって大絶賛するものに対して、一歩引いたところで立ち止まって観察しようとする癖が滲んでいる。與那覇潤『知性は死なない 平成の鬱をこえて 増補版』(文春文庫、電子書籍で読了)では、著者自身が苛まれたうつ病とそこからの恢復の経験を通して、まさにそのようなことが考察されている。まだ大学に属していたころ、著書が話題になったことで大手メディアでも仕事ができるようになったという。病気になってから自分のそういった仕事を振り返って、そこにある「くせ」をこう語っている箇所に線を引いた。

こういう際に「あおる」のではなく「止める」文章ばかりを書いてしまうのが、自分の思考のくせだったようです。(中略)

 思っているけどがまんして書かないのではなく、「いきおい頼みはまずくないですか」という思考しか、わいてこないのです。

 私がかつて思い描いていた知的な文章とは、どちらかといえばこういった「止める」タイプのものだった。そして、拙いながらに私が志向しているのも、このような文章である。アジテーション的な方向は、努めて避けようとしている。

 そのときの原風景としてあるのは、いまになって思えば、かつての錦糸町駅前の風景だったような気がする。

 もうだいぶ勢いは弱まっているが、当時は毎週末のように右翼の街宣車が来て、威勢の良い演説をぶっていた。当然サクラもいたのだろうが、聴衆の数も今とは比べものにならなかった。当時は小学生とか中学生だったから、話している内容は正直よく分からなかった。今振り返って考えてみて、彼らの言っていたことが合っているのか間違っているのか、判断もできない。

 ただ、マイクを握った車上の隊服の男に向かって、人々が、いよっ! とばかりにあごを上げながら拍手の雨を降らす光景が、なんか嫌だな、怖いな、とずっと感じていた。

 右翼の街宣だったから、ではない。2月の読書日記には「当初から、いわゆるハッシュタグ社会運動にいまいち乗れな」かったと書いた。まさにこのとき子供ながらに思ったことが影響し、皆が勢いよく同じ方向に走っているのを見ると、内容云々を別にして身構えてしまう。たとえその内容には概ね賛成していたとしても、である。

 コロナ禍を経た與那覇が、元々の自分の専門である歴史学や、大学に象徴される知識人のあり方に絶望し、本書以上に強烈な批判をぶつけている『歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの』(朝日新書)において、「昨今のハッシュタグ・ムーブメント」は「おおむね最初から『誰それに共感しよう』『誰それを叩こう』といった指標が決まっていて、やれば仲間が集まるとわかった上で【傍点6字】石を投げる」ものであり、「実質的には思考停止に基づく安直なポピュリズムに過ぎない」と批判されている。最初はいざ知らず、あるときからのハッシュタグによる社会運動的な主張は「あおる」方に偏りすぎてしまった。そこに、大学人を始めとした知識人や作家も乗っている。それでいて、いわゆるネット右翼の煽動的な言動を批判している。

 ところで、『歴史なき時代に』には冬目景『イエスタデイをうたって』に触れられている箇所がある。上で記したように冬目の作品は今月も読んだが、5月の読書日記では『百木田家の古書店暮らし』の最終巻を読んだ流れで『イエスタデイをうたって』にもちらっと言及した。

『イエスタデイをうたって』の登場人物は揃いも揃って面倒くさく、すれ違いがとにかく多い。そのすれ違いのなかでの登場人物たちの心の動き、恋愛模様がおもしろいのだが、與那覇は、携帯電話すらほとんど出てこない作中世界に着目して、「私たちがまだ『つながりすぎていなかった』時代を背景に、すぐに答えが手に入らないがゆえの、登場人物の日常の豊かさを描いている点」がこの作品の魅力とし、「後からみれば『回り道』に過ぎなくても、一直線ではないからこそ得られた体験は、誰にでもある」と言う。なるほど。であればあの一癖も二癖もある登場人物たちの面倒くさい性格は、「つながりすぎていな」い生活のなかで、それでも相手に自分の言葉、想いを伝えて、そして相手を分かって繫がろうと懸命に、傍から見れば「回り道」を繰り返している姿の表れなのかもしれない。

 イチローの言葉に、「(現実には不可能だと思うが、仮に)全くミスなしでそこに辿り着いたとしても、深みは出ない」というものある。だから「遠回り」が大事なのだ、と。もちろんそのときはそれが無駄だなんて思ってはいないが、結果、「後から見るととても無駄だった」という経験を重ねられるかどうか。

 與那覇は、「SNSで『正解』を検索し、一刻も早くそれに『到達せよ!』と叫ぶ人々」を「せっかちな未熟者」とし、『イエスタデイをうたって』の「大人びて見える」登場人物と対比させている。だとすれば、イチローのいう「深み」のひとつは「大人びていること」なのかもしれない。熟すにはどうしても時間が掛かるのである。

 大人になるにはどうすればいいか。今更のようにも思うが、しかしこの歳になった今、そしてこれからも、考え続けねばならないことなのだろう。人は油断すれば、際限なく未熟な方に戻っていくのだろうから。

 小説については、乗代雄介『最高の任務』(講談社文庫)を月末から読み始めていた。表題作は小学生の頃の日記帳を掘り返してきたところから話が始まるから「エッセイ」や「日記」と絡めて考えてみてもおもしろいのでは、と少しだけ目論んでいたのだが、結局、最初に収録されている「生き方の問題」を読み終えたところで11月が来てしまった。小賢しい打算を実行に移すことなく終わって良かったと思う。

「生き方の問題」はメタフィクション的な要素もあってなかなか難しい作品だが、あくまでリアリズムに軸足を置こうとする筆致に好感をおぼえた。初出かなにかで一回読んだことがあったような気もするのだが、今回の方が強く印象に残った感じがする。

(矢馬)