ソガイ

批評と創作を行う永久機関

読書日記的備忘録 2025年11月—読み返す、読み直すということ

2025年11月

 今月のハイライトは、23日の文学フリマ東京周りだ。

 動きがかなり鈍くなっていた同人活動について久方ぶりに「まあまあ」とは言えるくらいの感触を得られたことにはじまり、大学時代の友人に誘われて参加した同人の創刊号が好調、そして8年目にして初の新メンバー加入と、ここ数年の停滞が噓のような展開だ。

 同人誌が第10号という節目を迎えたことから、一度充電期間をおいてもいいのではないか、と勝手に考えていたのだが、23日の深夜にはもうこれからの活動の計画を意気揚々と練っていた。もちろん私は冊子を売ることを第一目標に本を作っている訳ではないし、信念を曲げなくてはならないくらいなら文フリへの参加はおろか、活動自体を無理に続ける必要もない、やめてしまえばいいと思っている。だが、それはそれとして多少売れれば嬉しくなってしまう。自分という人間には俗物的な部分が分かち難く染み付いていると再認識させられる。

 まだしばらく文学フリマへの参加は続けるだろうが、だからといって活動の中心に据える気は依然としてない。良くも悪くも、自分の活動のごく一部と捉えている。文学フリマの意義だとか理念だとかを巡る議論、とりわけプロの参入の是非についても、進んでは言及しないつもりだ。

 ひとつ、日頃は人々の分断を煽る言動を強く批判している人文系界隈の人々も、いざ自分たちのこととなると俯瞰できなくなって軽々と危うい発言をするものなのだな、と嘆息している。「芥川賞作家」本谷有希子がnoteに投稿した「『畑を荒らすな』という言葉を抱えて(文学フリマ東京41後記)」は、商業作家の参入に対して「畑を荒らすな、という気持ちがある」と話すアマチュアの投稿を起点に書かれた体験記だ。

 ショックだったのはよく分かる。しかしよく読むと、この「畑を荒らすな」の投稿には「初めは嫌だと思った。でも今は、」とポジティブな気持ちの変化を綴る文章が続いているとある。だとすれば少し話が違ってくるのではないか。無論、プロに対して良い感情を抱いてない者は他にもあるだろう。だが、これはタイトルにも掲げているインパクトの強い文言だ。週刊誌などに見られる扇情的な題の付け方のように思えてしまう。

 また、そういった思いを抱くアマチュアに対し、自分の主戦場でもある演劇に引きつけて理解を示してはいるが、全体的にプロ排除論者に対して悪い印象を与えている感は否めない。自分の立場でこのような文章を投稿することの意味を理解していないのか、あるいは意図した上でのものなのか。結局の所、初めての出店は上首尾に終わったようである。だったら別にいいじゃないか、と思えてしまうのは、私が良くも悪くも文学フリマというものに期待しすぎていないからなのだろうか。

 それにしても、先月の篠田節子『青の純度』の参考文献を巡る議論や、細田守監督作『果てしなきスカーレット』を酷評する投稿の氾濫、「令和人文主義」なる潮流の是非を論ずる風景などを見ていて、文学や人文学なんていう領域以前に、もっと社会人、大人としてのあり方を見直すべきではないか、と思わずにはいられない。

 とりわけ『果てしなきスカーレット』については、あれだけの酷評の投稿が許容されるのであれば、数カ月前に、たかだか「私にあわなかった小説」を並べたくらいで業界や愛好家から批判が巻き起こったのはいったいなんだったのか。「この人なら叩いてもいい」となったから皆と一緒になって酷評の投稿をしているのであれば、イジメの構造と変わらない。そしてそれは、文学や物語を愛するとしている者が常日頃批判している行動原理ではないのか。

 人間はなかなか一貫した生き物ではないし、立場によって言うことも変わる。それでも私は一貫した信念を貫きたいとは思っているし、あまりにも都合良く主義(イズム)を使い分けるような態度をなあなあにして消化できるほど、物分かりは良くない。自分の言ったことには責任を持って欲しい。持てないのであれば、わざわざ公に向けて言わなければいいだけだ。個々人の中、あるいはごく私的な空間においてならばどんな放言をしていようと、私は一向に構わない。それは思想の自由の尊重とも言えるかもしれないが、どちらかといえば、そんなところまでは知ったことでない、という感情の方が大きい。

「学」「芸術」が世間の常識、仕来り、礼儀、マナーを軽視する免罪符になると思っているのならば、思い上がりも甚だしい。私は文学をはじめとした芸術や種々の学問を大切なものだと思っているが、それは、人間社会を形成する他の要素と同等に、という意味合いでである。

 今月末、私としては随分久しぶりにゲーム機を買った。据え置き型で言えばゲームキューブとプレステーション2、携帯型はPSP2000以来。親戚の家などではやっていたし、スマホゲームもちょこちょこ手を出していたが、ゲーム機を購入してまでやりたいと思うことがほとんどなかった。そんな私がNintendo Switch 2を購入したのは、どうしてもやりたいタイトルがあったからだ。『カービィのエアライダー』。ゲームキューブで一番好きだったソフトのひとつ『カービィのエアライド』の後継であり、発表時から気になっていた。まだ始めて数日だが、ゲームの速さについていけなくなっている自分に衰えを感じながら、とても楽しんでいる。

 このタイトルのディレクターは、カービィシリーズの生みの親である桜井政博だ。元々ゲーム業界にそこまで関心のない私には、なんとなく名前は知っていたくらいの認識だったのだが、少し前から彼の名前をかなり意識するようになった。きっかけは本ではない。YouTubeチャンネル「桜井政博のゲームを作るには」である。ここで語られる、ゲームという自分が作っているものに対して一本筋の通った理念や思想を持っている姿、なにより「仕事」への姿勢に、かなり学ぶところがあった。

 このチャンネルの一番の目的は「これから世に出るゲームの面白さを少しだけ底上げすること」であり、ゲーム制作について語った動画では、簡潔ながら、核に迫ったテーマを掘り下げている。ゲームにおけるリスクとリターンの関係性や、あえて「ズル」を許す設計にすることの意味など、「ゲームを遊ぶ」とはいったいなんなのか、ということを根幹から考えている言葉には、やはりその人の思想が感じられる。

 余談だが、「遊び」についてロジェ・カイヨワ『遊びと人間』を参照する際、「人の考えをただ引っ張ってくるというのは、わたしはあんまり好きではありませんが」と前置きしているのに、なんだか好感を持った。もちろん、他人の言葉を参照すること自体はなにも悪くない。しかし最近、他人の言葉にあまりに影響されて、それを引用するだけで自分の考えを十全に語って立場を表明できていると思っているかのような文章を目にする機会が多く、辟易していた。SNSで氾濫する『果てしなきスカーレット』、それに伴う細田守評も大半はそういったものだからこそ、短期間であれだけ言及されているのだと思う。そもそも、その是非以前に、公開して間もないのに、有名無名に拘らず酷評が殺到していること自体に危うさを見るべきではないか。ただ人の言葉を通す管となるのではなく、対話を経て内から発せられる、肉体を持った言葉が欲しいのだ。

 閑話休題。私は元来、ジャンルに拘わらずこういった理念を持っているプロが語る理論を聞くのが好きなので、ゲームについて話す動画ももちろん面白く観たのだが、それ以上に学ぶところが多かったのは、「仕事の姿勢」について話しているものだ。

 制作の都合でユーザーに不親切な設計を出してくるケースについて、「それ、プレイヤーに説明して回るつもりなの?」と問いかけ「遊び手にとっては、作り手の都合など知ったことではない」と言い切ったり、特に企画書においては自分が総合的に最もよいと思うプランAのみを書き、こういう手もあるといったプランBに頼らない、など、広く仕事において行われてしまっている妥協を戒める言葉は、身につまされる。

 また、業界は案外狭いのだから、ケンカをしたり跡を濁すようなことはしない(もちろん議論することは時に必要だが、人の悪口を言ったりすれば、それは自分に返ってくる)。ディレクターやプロデューサーといった指示をする人は他の人より偉いわけではなく、立場が違うだけで、一つのものを作りあげるという仕事のなかでみな同じ高さにいる。むしろ、何かをしようと最初に提案する人間は、自分に協力し、その指示に従って動いてくれる多くの人がいなければなにも作れない。「上は下なり、下は上なり」の意識が重要だ。このようなことについては、たとえば出版業界なんかも言えることだろう。なんだか最近は同業でケンカしてばかりで(しかもそのケンカの仕方も拙い)、作家側は編集以下を随分自分の都合で振り回して平気な顔をしているように思える場面もしばしばあり、平等だとか平和だとかを謳うのは結構だが、その前にまずちゃんと心掛けておかなくてはいけないことがあると、自戒を込めて言いたい。

 あえて一言で言い表すなら、「仕事はちゃんとしよう」ということだ。もちろん、無茶をすることまでは求めない。できる範囲で、誠実に、真摯に仕事に向かう。基本的なことだが、これが大事なのだろう。

 このYouTubeチャンネルの基のひとつにもなってる、桜井が『週刊ファミ通』に長年連載していたコラムが何冊か書籍化されている。紙の本で入手することはかなり困難なようだが、電子書籍で購入することが可能になっている。私はいまだ、文字メインの本については電子書籍に若干の抵抗を覚えるのだが、こういったケースに接すると、なかなか良い時代にもなったものだ、と素直に認めざるを得なかったりする。

「桜井政博のゲームを作るには」では、自分がこの仕事をしている一番の理由として挙げるのであれば、「自分がもっとも得意とする仕事だから」になり、「ゲームやゲーム作りが好きだから」はそれよりは優先度が下がる、と答えている。もちろん自分の好みは大事だが、仕事である以上、好みと正反対のものであっても器用にこなさなければならない。そのなかで自分なりの面白さややりがいを見出していくことも必要である。

 事実、ゲームをよくやる桜井が手がけた『星のカービィ』は、ゲームをあまりやらない初心者向けに特化して設計されている。その背景には、当時のゲームの難易度が全体的に高かったことがある。スーパーファミコンのソフトのROM容量はあまり大きくなく、簡単にするとすぐにクリアできてしまい、顧客の満足度が下がる。そのため、難しくすることでクリアまでのプレイ時間を長くする傾向があったのだという。だが、それだと新規の参入が見込めない。このような現状認識から、自分の仕事の方向を決めていく。言うは易しだが、どうしても自分の好みの方に流れていきがちなのが人情でもある。プロに徹するとはしかし、こういうことなのだろう。

 その意味で、1996年に、当時低迷していた『週刊少年ジャンプ』の編集長に就任し、積極的なメディアミックスなどによって売上を立て直した鳥嶋和彦のインタビュー本、『ボツ 「少年ジャンプ」伝説の編集長の“嫌われる”仕事術』(小学館集英社プロダクション、2025年)も見逃せない。集英社に入社した鳥嶋は、元は別の部署を希望しており、漫画は好きではなかったという。本書では、ジャンプの作品が好きではなかったと言い切っている。

 そんな鳥嶋だが、分析する能力があるとの自負があるようだ。それが編集の仕事には活きた。もちろん、「漫画が好きじゃなかった」という発言含め、本人の弁をどこまで鵜呑みにして良いのかは分からない。だが、「好きだから」というだけでは仕事にならないことは、今の世の中、改めて強調してもしすぎることはないのではなかろうか。

 この本のなかで鳥嶋は「漫画は気晴らし」「娯楽だもん。漫画がなくても人は生きていけるのは当たり前だし。だからいいんだよ」「僕はよく『「ドラゴンボール』からは何も学べない」って話すの。漫画は教科書じゃないから。考え方とか思想とか、何にもないんだ」と言っている。「考え方とか思想とか、何にもない」という箇所についてはちょっと言い過ぎではないかと思うのだが、それは「考え方」「思想」という言葉の定義の問題である気もするので、ここでは措く。その上で私は、ここで言われていることについてはかなり納得できる部分がある。

 もちろん、個々の作品で事情は異なるだろうし、固有の読書体験においてはそこからなにかを学ぶ機会もあるだろう。しかし漫画総体においては、やはり広い意味での気晴らしが一番だろう。三宅香帆は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で、娯楽として漫画を読む行為を「自分の余暇の時間を使って文化を享受しようとする姿勢」と表現していたが、これは過剰な価値付けだと私は思う。三宅に限った話ではないが、なぜここまで自分の行為に意義や効用を求めようとするのか(それ自体が、『なぜ働いていると〜』でも批判されている「自己啓発」のモチベーションではないか、とも思うのだが)。

 このような読書観、物語認識の行き着くところは、なにかしら意味や社会的学びが得られる作品が偏重される世界だ。そう言ったら大袈裟だろうか。だが、すでに出版業界ではそのような風潮に傾きつつあると私には感じられている。いかに自分の作品が世の中にとって意味のあるものであるか、絶えず主張し続けているように見えて苦しくなる。

 その点で、乗代雄介はこれから、私にとって稀有な存在になるかもしれない。『最高の任務』(講談社文庫、2022年)に収録された2作、「生き方の問題」と「最高の任務」は、世間的な評価は分からないが、私には特に共感や学びがあったわけではない。むしろ、物語的にはナンセンスだとさえ感じた。だが、それは面白くない、好きではない、ということを意味しない。限りなく純粋に近い形で「文章作品」を読んだ、という感触が残った。

 完成度が高いかと言われると、自信をもって頷くことはできない。晦渋な部分はあるし、やや突飛な展開も散見される。だが、雰囲気としては一時代前のようなリアリズムに立脚しようとした文章が、かえって新鮮だった。

 と同時に、何度も芥川賞の候補となっている乗代だが、このような作風を貫く限りは何度候補になっても、とりわけいまの選考委員の並びでは、この賞を受賞することはないだろうな、とも思った。唯一、「もうさすがにこの辺りであげておきましょう」という空気が生まれれば可能性があるが、それよりも「もはや新人作家ではない」と判断され、作品の評価に拘わらず選考から漏れることの方が考えられる。

 善し悪しではない。賞の性格の問題だ。芥川賞だけが文学の価値を決めるものではないのだから、それで良いと思う。

 今月、同様に得がたい読書体験をしたと感じたのは、堀江敏幸訳『土左日記』(河出文庫、2024年)だ。冒頭の「をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみむとてするなり」は、通説では「男の人も書くと聞いている日記というものを 女の私も試みてみようと思って書くのである」と解釈し、男である作者の紀貫之が自分を女に仮託して書いた作品と見なされている。

 しかしこの訳では、「をとこも(す)」に「男文字」、「をんなもし」に「女文字」の意が重ねられていると見て、「漢字で書くものである日記を、ひらがなで書いてみる」と解釈する異説を採っている。

 おとこがかんじをもちいてしるすのをつねとする日記というものを、わたしはいま、あえておんなのもじで、つまりかながきでしるしてみたい(30頁)

 ここに括弧書きで、「自注」が続く。

(それは必ずしも、女になりすますことを意味しない。すでにこの書が私という男の手になるものであり、土左日記という標題を持つ創作であることは、劈頭に、ほかならぬ漢字で記されているのだ。これは土左日記であって、とさのにきではない)。(同上)

 「にき」でなく「日記」と漢字で記されていることを背景に、冒頭の一節を「これは創作だと明記」するものだと、この訳では解釈する。するとどうなるか。私は男にもなり女にもなるし、身の回りの世話役にも、物納品の運搬と管理を司る男にもなる。仮名文字の散文に、漢籍などの他者の言葉、自作和歌までも組み込むメタフィクショナルな構造が生む『土左日記』揺らぎを、現代語に映している。

 また、この訳の特徴として、虚構による「貫之による緒言」と「貫之による結言」が前後に置かれている。その緒言の末尾、「いま、ここにそれをひろげて、自注をほどこしながら読み直してみたいと思う」によく表されているが、この「書かれたものを読み返すまなざし」(全集版あとがき)が、この『土左日記』全体に流れている。

 日記は、(すくなくとも「文学」として見るのであれば)書いて終わりではない。それを読み返すことが必須だ。乗代雄介「最高の任務」もまた、日記を読み返すことで語りが動いていた。ものを書くこと。そして、なぜそれが書かれなければならなかったのかを見つめること。そんな原点に立ち返るための一つの端緒に、私のこの「日記」もなると良い。

 漫画については、ほそやゆきの『シルク・フロス・ボート』(講談社)の最終巻となる第2巻(2025年)を読んだ。1巻と併せて読み直したが、ちょっとまだなにを言えば良いか分からない。改めての読み直しが必要だろう。

(矢馬)