ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ21

12月13日

 この投稿が目に入って、複雑な気分になった。

 深沢が『週刊新潮』掲載のコラムにて、朝鮮半島にルーツを持っていることを引き合いに、名指しで理不尽な批判を受けたこと、その後の新潮社の対応に対して不信感を覚えたことなどから関係が断絶し、自作の版権を新潮社から引き上げたことは知っていた。半年足らず前のことだ。

 もう二次文庫の版元が見つかったのか、とその展開の早さには驚かされるが、それは良い。だが、どうしても気になってしまうのは、その版元がKADOKAWAであるということだ。

 先に言っておくと、このことについてKADOKAWAや深沢に対して直接思うところがあるわけではない。無事に版元が見つかって良かったとも思う。

 ただそれでも、ここ数年出版周りで起きた問題を意識的に見てきたものとしては、2年前の大きな出来事を思い出さずにはいられない。『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』(原題『IRREVERSIBLE DAMAGE』、のちに産経新聞出版が『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』の題で刊行)の刊行中止のことである。

 本作についてはトランスヘイトを煽るものだとして、刊行前の時点で業界の内外から批判が殺到した。多くの作家も反対の声をあげたほか、KADOKAWAの社屋の前では抗議活動も行われ、結果として刊行の中止が発表された。このときKADOKAWAは、人権意識がない、もっとも厳しいものでは「トランスヘイター」出版社として、大手新聞でもそれなりに大きく取り上げられるくらいに大炎上したように記憶している。

 繰り返すが、たった2年前のことだ。刊行中止後、KADOKAWAがLGBT他、マイノリティの問題においてなにか大きな取り組みをして失墜した信頼を回復した、という事例を私は寡聞にして知らない。今回のことは、やはり同じく人権意識が問われた問題である。当時の批判の勢いを思えば、ここで深沢の著書を刊行することくらいでそれが帳消しにされるとは到底思えない。もしこれでKADOKAWAがマイノリティの味方の出版社であると言われるのであれば、あんなに大炎上した事件がもしかしてもうほとんど忘れられているのかもしれない、と虚しさを覚える。

 ここ数年で自分が書いた文章を読み直すと、「健忘的」という言葉がしばしば出てくる。人々の健忘的な様子を、随分と憂えている。事実、こんなにも人は忘れっぽかったかと驚かされる事例が多い。あまりにも一貫性がないのだ。

『果てしなきスカーレット』に対する酷評についてもそうだ。そのたった数カ月前、Xにおいて一瞬だけ流行った「私にあわなかった小説10選」なるハッシュタグについて、業界内や読書好きの人々から、「面白く読めなかったという自分の問題を、作品に責任転嫁している」「作品に対してネガティブキャンペーンになる」「作者が傷つく」などとかなりの批判が殺到した。SNS上でのマイナスな意見は求められておらず、それは害でしかない、と言わんばかりの勢いだった。

 それが途端に、『果てしなきスカーレット』、すなわち細田守が対象となったら、大喜利のようにその作品や人物をこっぴどく批判する投稿が溢れる事態だ。それも、公開数日でである。異様な早さだ。それを咎める投稿も、「私にあわなかった小説10選」と比べるとずっと少なく見える。ほんの数カ月前の、作者やそれを好きな者への神経質なまでの配慮はどこにいったのか。

 結局これは、細田守というのがおおっぴらに叩いて良い存在とされているからにほかならないのだろう。「私にあわなかった小説」を列挙することは良くないと批判することも、細田守をみんなで酷評することも、その場その場の空気によって動いているだけなのか。だとすれば、少し前に起きていたこと、言っていたことなど考えてもいない、あるいは忘れてしまっていても当然なのかもしれない。そもそもが、なにかしらの信念があっての発言ではなかったのだから。

 冒頭の深沢と新潮社の問題のとき、多くの作家や出版関係者が深沢への連帯を即座に表明したが、私はその内容自体は真っ当なものであることは認めたうえで、しかし釈然としない思いもあった。ここ数年の動きを見ていて、果たしてどれだけの人が、本音から連帯を申し出ていたのだろうかと疑う気持ちがあるからだ。いまはより、発言をしないこともが強い意味を持ってしまう時代だ。ここで発言をせず、新潮社を庇っているように思われてはならない。そういう空気を読んで、事態の詳細が判明するのも待たずに旗色を明らかにした。そんな邪推を無根拠だと言える自信を、いまの私はどうしても持てないでいる。

 思えば、いま「令和人文主義」なるカテゴリーを巡る議論で俎上に載せられている(そのこと自体は非常に気の毒だと思っている)三宅香帆も、2年ほど前に「新海誠好きの元彼のエピソード」を集めた同人誌の刊行を企画し、批判が殺到して中止した過去がある。

 三宅は「受容史が好きだった」などと企画の理由を説明している。噓ではないだろうが、それはそれとして、これはいじっても良い対象を選んでいるな、と私は感じてしまった。この計画は、「文化系女子と喋るとだいたい『新海誠が好きだった元彼』という謎の共通項が浮かび上がるのですが、世の文化系女子はみんな一度は新海誠好きな男子と付き合ったことがあるのでしょうか…………?????」という三宅のSNSへの投稿に多くの賛同の声が集まったことがきっかけとなっている。またそれに触発された別の者によるnoteが話題になっていることを見るに、三宅だけの問題ではない。新海も細田同様、こんな風にいじっても良い存在と認定されている。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』でもそうだが、三宅は、自分や、想定している読者にとって望ましい言葉を察知し、ピンポイントかつポップな形で提示して届けることに長けている。そのための見せ方、パフォーマンスも上手い。本質的にアジテーターなのだろう。だがそれは、牽強付会な論述の危険性と背中合わせでもある。私が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』について批判したのはその点だった。

 ゆえに、今、飯田一史との間でデータの扱い方を巡って議論が起こっているが、これは本質的にはあまり意味のないことだとも思う(そもそも飯田についても、私はあまり信用していない)。三宅が志向していたのは、働くと本が読めなくなることをデータや歴史によって実証することではなく、かつては本をたくさん読んでいたのに働いてから読めなくなって悩んでいる人々に、それはあなたのせいではないんだよ、とのメッセージを送ることにある。そのように考えると、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で、結局「だから半身半霊で働こう」と言うばかりで、そのための具体的な方法がほとんど提示されていないことにも説明がつく。

 私はしばしば、根に持つ人間だと言われる。

 決して恨んだりはしていないつもりではある。だが、「あのときあの人はああ言ったよね」「あの事例のときはこちら側の意見がかなり優勢だったよね」「あの人が同じようなことをしたときには許してた/怒っていたよね」といったことについては、かなりしつこい自覚もある。これを根に持つと言うのであれば、たしかにそうなのだろう。だが、なんで少し前にあんなに大騒ぎしていたことについて、どうしてこんな簡単になかったことにできるのだろう、という違和感は、ずっと抱えている。

 人間とは、どうしても一貫した生き物ではない。立場が変われば言うことも変わるだろう。だが、それでもなにか一つは一貫した信念に貫かれた生き方をしたい、とは願っている。それでもなおブレてしまう自分への葛藤が、執筆を始めとした活動の原動力になっている。

 それ故、あまりにも無邪気に「主義」を使い分け、少し前の自分の言葉がなかったかのようにその場その場の言葉で振る舞って恥じない光景には、不愉快さを覚える。ただそれだけのことである。

 しかしながら、このように器用に振る舞える人の方が耳目を集め、出世していくのだろう。外を見れば、そのことはよく分かる。だから、私は数=空気を追い求めることを積極的な意味でやめた。それは、いくつもある結果の一つだ。それくらいのつきあい方がちょうどいい。空気の求めに応じて奉仕してきた者は、結局、その空気によって裏切られ、振り回される。そのことが最近、よく分かってきた。

(矢馬)