ソガイ

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読書日記的備忘録 2025年12月—「徒労」の一年

2025年12月

 今月は珍しく、人と会うことが多かった。そのうちのほとんどが、自分から声をかけて予定を立てたものだった。

 複数人で遊ぶことも好きだがそれと同等に一人で居ることも好む私は、日頃はそこまで積極的に声をかけることはないのだが、ある一定の期間で、急に何人もの人に予定を尋ねて、おしゃべりの機会を集中的に求めてしまうことがある。

 兆候らしい兆候はないのだが、大体が、なにか漠然としたフラストレーションがぎりぎりまで溜まったときに起きる行動であるように自分では分析している。なにも、その愚痴を相手にぶつけたいわけではない。別にその話をしたいのでもない。とにかく、気を逸らしたいのだろう。そのことをずっと考えていたり、気にしていたりすると、気が滅入ってしまう。ダウナー方向に落ち込むこともあれば、風船がパチンと割れるように感情が爆発してしまうこともある。

 大きく感情を動かすと体調を崩すことが多いので、できることなら感情の揺れ幅を小さめにして生きていきたい、と思っている(それは、私の根幹となる感情が「怒り」であることに由来しているのだろう)。だから、ある一定の水量を超えそうになったときにはまずそれを意識の外に、それが無理なら意識の縁に置こうとする自己防衛が働く。その方法の一つが、人と話すことなのだろう。

 この「人」に本というものを持ってくることも、たしかに可能かと思われる。私は本という他者を通じて対話をし、自分の知らなかった自分に出会う経験をしてきている。いま現在も、そしてこれからも、私は本と、そのような付き合い方をしていきたいと思っている。

 だが、本を読むことが必ず、この面において良い方向に作用するかと言われると、そうは言い切れない。自身の感情を増幅させて、かえって頑迷固陋な状態に陥る危険性も小さいとは言えないと思う。

 もちろん、人と話すことにおいても同様のことが起こる可能性はある。しかしながら、良くも悪くも、本を読むときには真面目になりすぎるのだ。文章というもの、とりわけ印刷されて本となったものは、権威性、威圧感を持つ。ともすれば、その対話は受け身になる。それこそ、「先生」のご高説を賜る、という状況にもなりがちだ。事実、本をたくさん読んでいる人に広い視野があるかどうか、かなり疑問に思うような言動を多々目にする。文章をたくさん書く人についても同様だ。

 人は、そんなに多くの本は読めないし、文章も書けない。多読・多筆はときに、乱雑や粗造の証左になる。本当に本はたくさん読むべきものなのか、本や作品はそんなに多く発表しなくてはならないのか。ポジショントークから離れた場所でいま一度考える必要性を強く感じている。

 今月は「読み終わった」本があまりない月だった。

 主な要因は、堀江敏幸『二月のつぎに七月が』(講談社、2025年)をちょこちょこ読んでいたからだ。700頁超で文章の密度も高いとあって、そんなにすぐに読み終えられるような本ではない。市場の食堂を舞台にした物語は、それぞれの登場人物の過去と現在を行ったり来たりしており、全体を通してみたときには話らしい話はない、とも言える。勿論、物語はたしかにそこにあり、印象に残る場面にもところどころで出会う。だが、私にとっては何より、いま自分は「文章」作品を読んでいるな、という気持ちになることが嬉しい。なにに重点を置くのかは無論、各々の自由だが、私はそれでも、文章を使っているからには文章そのものに拘りを持っていたいと思っている。それは話術とは似て非なるものである。

 あいだあいだに他のものを読んでいることもあって、読み終えるまでにはもう少しかかりそうだ。まあ、『群像』での連載が足かけ8年掛かっている作品なのだから、そんなに慌てて読むこともなかろう。日課のように同じ文庫本を読み続ける作中の阿見さんではないが、少しずつ読んでいくつもりだ。

 本書の刊行を記念して『群像』(2026年1月号)で組まれた小特集における対談(聞き手・尾崎真理子)は、時間や言葉についての思索が興味深かった。

話が話を引き寄せ、時間が前後して、時間の中にべつの時間が入り込む。人の話だけでなく、いまという時間も、じつはそういうものではないかと思うんです。だれかと話していて、「そういえば、この間こういうことがあって」と聞かされると、相手の話についていくだけでなく、それで思い出される情景や時間の揺れを頭の三分の一ぐらいで考えている。そんなふうに流れていく感覚の総体が時間だと考えるほうが、自分の中では自然なんです。(135頁)

さまざまな本をよんできて、さまざまな人の言葉と時間をもらってきましたから、本当にオリジナルな言葉なんて持ち合わせていないし、そんなものはどこにもありません。出てきた言葉を並べるその手つきだけが、かろうじて自分のものかもしれない。(145頁)

 特に後者の「オリジナルな言葉」については、私が最近よく考えることでもあった。言葉はそもそも借り物であり公共物であって、言葉それ自体にオリジナル性は一切ない、という自分の考えについて、よく考えさせられる一年だった。

 本書を買うときに一緒に目に入って買った、辻邦生『鳥たちの横切る空 辻邦生短篇選集 Ombre』(堀江敏幸編、中央公論新社、2025年)も読み始め、名前だけは知っていたこの作家の文章に、少し興味を抱いている。生誕100年を記念して全二巻で出版されたもので、もう一冊『竪琴を忘れた場所 辻邦生短篇選集 Lumière』(同上)と併せて、年始の読書のお供にしたいと思う。

 今年を振り返って、特定の作家にじっくりと向き合う時間をあまり持てなかったという反省がある。先述の対談にて堀江敏幸は、「この先、書きたいと思わされる作家は」という質問に対し、「学生のころに研究という名目で読んで、そのままになっている作家の周辺資料が、たくさんあるんです。当時知りたかったことが解き明かされていたり、見られなかった資料が翻刻されたり、さまざまな発見がある。阿見さんにならって、しばらくはそういうテキストをゆっくり読み返して、あたらしい他者の時間をもらい受けたいと思っています」と答えている。これは私の勝手な希望だが、去年、12年続けた芥川賞の選考委員も退任したことだし、現代から少し距離を置いて、過去の作家に時間をかけてじっくり向き合った骨太な仕事を見てみたい、と思っている。

 そのほかでは、鬼海弘雄『東京夢譚』(草思社、2007年)の町の写真と散文を、通勤の電車でちまちま読んでいた。あとがきには、こんな一節がある。

 なつかしさへの記述や写真がおおいのは、なつかしさとは固まってしまった時間への一方的回顧ではなく、本来しなやかなもので、今という時間の端から紐をゆらすと過去や未来までつながってゆれあう関係性だという妄想をいだいているからだろう。(121頁)

 やはり「時間」が、今後の私において大きなテーマの一つになるという予感を感じさせる読書群だった。

 さて、こうしてあっと言う間の一年が終わった。ちょっとした思いつきから見切り発車で始めて、すぐにその難しさや労苦に後悔をし始めたこの読書日記であったが、なんとか完遂したことだけは良かったと思う。

 同時に、それ故に感じたものもある。それはほんの少しのプラスと、大きすぎるマイナスの感情だ。そのなかでももし、私が自分のこの一年を一言で表すとするならば、それは「徒労」となるだろう。

 日記ということでやや意識的に、現在のこと、つまり時事的な出来事について触れ、その時点での自分なりの意見を書き残してみた。日記というプライベートな文章という体ではあるのだが、いうまでもなく、一つ一つを「作品」として書いてきたつもりだ。つまり、多少は人に読まれることを念頭に置いている。ときには、かなり勇気のいることも書いてきた自負はある。

 もちろん、反応がまったくなかったわけではない。しかしながらそれ以上に、自分がなにを書こうとも、人々は同じようなことを、それこそ過去がなかったかのように繰り返す様を何度も何度も見せつけられ、特に最後の3カ月ほどはうんざりしていた。結局すべてがポジショントークに過ぎないことが、よくわかった。だったらもうそれでよい。好きにすればいい。だがそれでも、文章が完全にそのための道具と堕している光景には不快さを覚える。私は距離を置きたい。心の底からそう思った。

 そうして、自分が進みたい方向が見えてきた。それは今月、多くの人と話す中で修正、調整され、まずは来年一年の方針についてはかなり固まりつつある。

 この読書日記についてはどうするか。かなり趣は変わることになるだろうが、似たような形で記録を続けてみようと思っている。私は文章を書くときに、なにかしらの制限を設けることを常にしている。これは暫定だが、来年は「時事問題に触れないこと」「現代に引きつける・比較対象とするのを禁止すること」をその制限にしようかと考えている。これらのことがちょっと便利すぎることに気付いたからだ。

 同時に、読書ばかりしていても良くないから、身体を動かしたり別の分野のことを囓ってみたりするつもりだ。だが、それが結果として、今年よりも多くの作品に触れることになりそうだと感じてもいる。思いの外、気持ちは明るい。

 今年一年の徒労が今後、多少は意味のあるものになることを、いまは密かに期待している。

 まずは1月1日、今年はインフルエンザに罹ってできなかった初詣に行けるように、体調を整えようと思う。

(矢馬)