つくづく、主に趣味として使用される「読書」の語は厄介なものだと思わされる。
読書や本を読むことを、趣味であり、自分の好きなこととして挙げる人は多い。しかし当然のことながら、そこで読まれている本は千差万別だ。
いま一旦、文字メインの本にその対象を絞る。たとえば私が読む本は、主に小説やエッセイ、評論であろう。実用書やビジネス書、自己啓発本と呼ばれているものを読むことはほとんどない。また、小説と一言で言っても、いまの私はミステリーやSFのほか、エンターテインメント色の強い作品(あえてこう言うならば「直木賞的な作品」)を読むことは少ない。高校生くらいまでは貪るように読んでいたライトノベルも、もう10年近くはご無沙汰だ。さらに言えば、比較的読むことが多いいわゆる文学作品のなかでも、私が進んで読む作品群は相当に限られている。
これまで数多くの本を読む人と付き合ってきたが、私と読書傾向が大部分で被っている、なんて人にはお目に掛かったことがない。せいぜいがほんの少し、趣味嗜好・関心が重なることが時折ある程度だ。
無論、これはベストセラーや話題作からは距離を置きたがるという私の性格に因る部分もあるだろう(念のためつけ加えるが、その手のものをまったく読まない訳ではない)。だが、本や読書について語るとき、多かれ少なかれ、この種の問題にぶつからない人はいないのではないか。読書が共通の趣味としての役割をうまく果たしてくれるとは限らない。いや、むしろそんなに本を読まない人との方が本の話をしやすいことすら、場合によってはあるくらいだ。
なぜこんな厄介なことになってしまうのか。その要因のひとつが、本という言葉が、物体としての本(book)を表すのと同時に、その中身(content ないし text?)を含意していることだろう。
好きなものとして「本」というとき、それは大半の場合で、この後者を指している。言うまでもなく、その内容はさまざまだ。だが、文学作品も自己啓発本も、物としては同じ本である。いや、もっと言えば、漫画や絵本、学習参考書やガイドブックだって本だ(このなかだと絵本は、同じく絵が多くの比重を占める漫画と比較して、小説や文学といった種の「本」に含めることに抵抗されないことが多いように感じるのも不思議だ)。実際、このどれもが一般的な本屋では一緒くたに売られている。
人が「本」が好きだというとき、想定されているのはその人が好んで読む content が載っている本のことだ。当然のことながら、製本されていれば中身はどんなもので問わない、という本好きはほとんどいない。
たとえば、自分は小説のことを指しているのに、相手はビジネス書なども思い描いている、といったように、本は本でもまったく別の内容の本が相手の頭にあると決まりが悪い。特にそれが自分の嫌いな、もっと言えば下に見ている類いのものであった場合には不愉快ですらある、といったことは珍しくない。本を全く読まない人よりも、自己啓発本を真剣に読んで嬉々として感想を語る人を強く見下す傾向も、本好きには見られる。
だから、しばしば人は陰に陽に、あるいは意識的にも無意識のうちにも、「これは本には入らない」「それを読むことは読書ではない別の行為だ」などと、主に content に基づいて本を分別している。
すると、この種の言説が繰り広げられるとき、物体、形態としての本はやはり、思考の埒外に置かれていると言えるだろう。もっとも、これは当然のことと言える。
ここでふと思う。いま、電子書籍を始めとして、従来的な紙の本に限らない形で作品が読まれる場面が増えている。電子書籍を利用したり、小説投稿サイトやブログ、ネットメディアに掲載された文章も好きで読んだりする「本好き」は少なくないだろう。そして、本や読書を巡る昨今の議論では、やはり主にその中身が問題となっている。
すると、もはやここに映画やドラマ、ノベルゲームや演劇といったものを加えても良いのではないか。 他にも、YouTube は当然のこと、ビジネス関係の講演やカルチャースクールも入れられる。より正確に私の考えを言えば、この種の議論において、これらを加えてはいけないとする根拠が見出せない。本を好きだと言っている人々の語りに、その content を本という形で、かつ文章で読むことの必然性を、そこまで感じないからだ。
ここに批判の意図はない。それもまあ当たり前といえば当たり前だ、という思いがある。本であり、文章を読むこと、それ自体が好きな人はきっとそんなに多くない。
かつて、物語を味わったり学術的なことを学んだりしたいとき、本は寡占的にその主要な地位を固めていたと言えよう。だから、この種の関心がある人は自ずと本を多く手に取り、結果として本好きとなっていった。
現在は、そのための手段は他にもたくさんある。サブスクリプションサービスや YouTube の配信などでより安価かつ手軽に——その効用や社会的功罪の議論については措く——満たすことも可能だ。となると、自然、 content についての需要量は変わっていないと仮定しても、そこに占める本のシェアは減少しても不思議ではない。たしかに趣味は多様化したのかもしれないが、content への関心が落ちているとは、本の売上が落ちていることだけからは言い切れない。
売上が落ちているのは、なにも本だけではない。たとえばPC向けのアダルトゲームの売上も、2002年頃をピークとして減少を続けているらしい。そこから20年で4割ほど売上本数が減っている、というデータもある(ここにはソフ倫の審査対象外である同人ゲームは含まれていない。フルプライスのパッケージ作品は苦戦でも、同人ゲームは国内外で盛り上がりを見せており……といった話を聞くと、商業出版は相変わらず苦境にあるのに文学フリマをはじめとした同人誌市場は爆発的に膨張し続けているように見える文芸と似ているようにも感じる)。
今年、秋葉原を4時間近く歩き回った甲斐あって、中古でWindows搭載のノートパソコンをかなり格安で購入することができた。長らくMacを使っているが、この手のゲームはMacでは動かないものが多い。年始から何本か連続で映画を観ていて、そこで、少なくとも今年は本だけに拘ることもないなと感じていた。そういえばノベルゲームなんてもうずっとやってないな、と思い立ったが吉日、さっそくパソコンを探しに来たということだった。
帰宅後、動作確認もかねて、随分昔に中古で買ったソフトを抽斗の奥から引っ張り出してきて、インストールした。「動作環境」に「OS:Windows 98SE/2000/XP」とある、もはや太古のものと呼べるものであったが、無事に起動した。
懐かしさと、もうほとんど内容を忘れていたこともあり、動作確認のつもりが結局プレイを進めている。そこで感じたのは、選択肢があるビジュアルノベルってこんなにも面倒くさいものだったのか、ということだ。すべての個別ルートを見るためには共通ルートを何度もやり直さねばならない。ゲームシステムにもよるが考えなければならないことも少なくはないし、時間については本なんかよりもずっとかかる。フルプライス作品はそもそもかなり高価だし(2006年の作品でも今と変わらない10000円弱するものもあるから、近年値上げが続く出版業界を横に置くと相対的には安くなっている、とも言えるが)、PCからスマホへの需要の変化も相俟って、そりゃあ売れなくもなるか……と納得せざるを得ない部分もある。
だからといって、いきなり無くなることはないだろう。私の感覚では、下落のカーブは緩やかになり、しばらくはほどほどのラインで続いていくと思う。しかしながら、かつての水準まで急回復するとも、到底思えない。
出版についても同じだ。悲観論者のように20××年に出版は終わる、とは思わないし、かといって、やがて出版は復興するといった希望的観測には乗れない。仕方がない。プレイヤーが多様になって、主役の座は奪われてしまったのである。そればかりは認めざるを得ない。業界としてはそこでヤケにならず、永遠に来やしない神風を待つのでもなく、とにかくしっかり地に足のついた仕事をこつこつと続けていくしかないのではないだろうか。
そのとき、己の媒体が持つ特長を見つめ直すことも必要だと思われるが、私は本や読書について、まことしやかに語られる利点について、かなり疑っている。
たとえば、読書は能動的、動画視聴は受動的、というもの。そもそも読書行為は本当に必ずしも能動的なものなのか、動画視聴は受動的というが、このとき「良い」映画やドラマの鑑賞が都合良く例外として省かれていないか。ここしばらく読書界隈を騒がせている「ノイズ」の議論もそうだが、結局のところ、本は良いものだ、だからもっと読もう/買おう、と言いたいがためのポジショントークではないのか、との疑念が拭えない。この手の読書礼讃は往々にして功利主義的な価値観を否定するのに、読書を持ち上げる段ではその効能を喧伝しているのである。そして改めて言うと、そのときの「本」は、本であるだけでは駄目らしいのだ。であれば、別に本でなくてもいいのではないか、という結論だって導き得てしまうのではないだろうか。
いま私は、本を特別視していない。いや、しないようにしようとしている。だが、それは決して本を軽んじることにはならない。まだ1カ月も経っていないから分からないが、むしろいま、ここ数年よりも本に対してフラットに向き合い、付き合えているような気がする。本を読まなきゃいけない。そんな強迫観念がかえってハードルを上げ、私を読書から遠ざけていたのかも知れない。
映画を観て、ゲームをやって、ときどき本を読んで、あとは色々なところに出掛けてみて……。果たしてこんな意気込みがどこまで続くかは分からないが、こうしてみるとやはり、時間が足りないし、出費もかさむ。結局のところ、時間と体力、お金の問題なのではないか。現実的にはまったく意味のない想定だが、いま人類からスマートフォンを奪えば、数パーセントの人間が、そこに投じていた時間や体力、本体やアクセサリー、通信費やアプリに使っていたお金を多少は本や雑誌に回すようになる、なんて想像は、あまりにも単純かつ楽観的なもの——故に救いのないものにもなるのだが——なのだろうか。
(矢馬)