ソガイ

批評と創作を行う永久機関

葉々録 2026年1月—短いような、長いような月

2026年1月

 去年一年続けたこの「日記」だが、形として今年も続けてみようと思う。

 とはいえ、去年のような熱量と濃度を保つのはちょっと厳しい。雑記、備忘録性を強め、少し肩の力を抜いてのんびりやっていくつもりだ。

 私は文章を書くとき、毎回なにかしらのルールを設けている。去年の読書日記でいえば、時事的な話題に触れる、一本の日記がひとつの作品になるように貫くテーマを無理やりでも見出す、それぞれで語りや文体に工夫を入れる、といった具合だ。

 主に自分を窮屈にさせるようなものばかりで、実際に書いているときには、厄介な縛りを作ってしまったものだと自分で自分に怒りや呆れを覚えることも多々あるのだが、しかしまったくの自由というのもそれはそれで一番困るものだ。それに、なんでもして良いとなると、よほど意識せねば自分にとって楽な方、つまり手癖に偏っていく。それだけはどうしても避けたい、という意識が私にはあるらしい。

 さて、では今年はどうするか。ひとつ明確に決めているのは、まさに去年とは反対になるが、時事的な話題には触れないことだ。去年一年、主に出版回りの話題について追ってみたが、それを巡っておこなわれている「論争」の不毛さを改めて思い知った。はっきり言えば、うんざりしてしまったのだ。

 これに付随して、「現代(社会)」との対比で、あるいは象徴と見なしてその作品を語るのを禁止したい。もはやこれは、それこそ現代の作品評価、文芸評論なんかでは常套手段となっているが、去年一年を通して、慣れてくるとこの方法が非常に楽であることに気がついた。有り体に言えば、なにか言った気になりやすい。それに、その気になればどんなものにも簡単に当てはめることができてしまう。これが癖になると、物事や作品をひとつの視点でしか見られなくなっていくような気がする。

 またこれはこの日記に限ったことではないが、私には、これは絶対に使わないようにする、と決めている単語のリストがある。汚い言葉やネットスラングは言うに及ばず、最近であれば「冷笑」は絶対に使いたくない。呆れる、苦笑、くらいの意味しかない場面でも多用されている印象だが、それにしては言葉が強すぎる。もしかしたら今一番嫌いな言葉のひとつかもしれない。

 とまあ、なかなか厳しいかもしれないルールとなったが、改めて肩の力を適度に抜いて、始めてみることにする。

 

 年末から年始にかけて読んだ辻邦生の短篇選集『鳥たちの横切る空 辻邦生短篇選集 Ombre』『竪琴を忘れた場所 辻邦生短篇選集 Lumière』(それぞれ堀江敏幸編、中央公論新社、2025年)は、作品の内容は忘れてしまっているところが多いのだが、なかなか良いな、と読んでいるあいだに感じていたことは確かに憶えている。弁護士エリク・ファン・スターデンの苦悩の晩年を「私」の目線から語る「ある晩年」(『竪琴を忘れた場所』所収)は、短いながら重厚な作品だった。一時期私が憧れた文学作品の趣だ。

 選者の言葉にもあるように、辻邦生はどちらかといえば長篇作家の印象がある。これを機に、長篇に手を伸ばしてみてもいいかもしれない。

 第174回芥川賞を受賞した2作品のうちのひとつ、畠山丑雄『叫び』(新潮社、2026年)は不思議な話だ。キーアイテムが銅鐸というのもおもしろい着眼点だ。関西万博や満州、天皇がテーマになっている。現代的舞台に伝統的な文学のテーマを配し、恋愛の要素まで盛り込んでおり、なかなか巧みな作家であるように感じる。個人的には結末がやや尻切れトンボであるようにも思うが、次作も読んでみようかな、と思わされた。

 その畠山が広く認知されるきっかけとなった『改元』(石原書房、2024年)に収録された2作もそうだが、この作家は長い時間を描くことが特徴なようだ。親子二代の話である「死者たち」の方が、私の印象には残っている。

 今年は、これまであまり触れてこなかった映画を意識的に観よう、と目標を立てている。それでも1月は5本しか観られなかった。果たして年100本という数字は達成できるのか。すでに暗雲が垂れ込めている。

 まず、チャップリンの作品を3つ観た(『モダン・タイムス』『街の灯』『独裁者』)。少々くどく感じる部分もあるが、たしかに笑ってしまうところも多く、とても面白い作品だ。

 この3つのなかなら『独裁者』を個人的には一番に挙げたい。コミカルとシリアス、虚構と現実がぎりぎりのバランスで共存しながら、強い反戦のメッセージが込められている。最後の演説のシーンは、やはり目を離さずにはいられない。ところで、政治家嫌いの小学校教諭が35歳で史上最年少の内閣総理大臣に就任する、木村拓哉主演の2008年のドラマ『CHANGE』の最終話に、解散総選挙を前に国民に対して総理が生中継で言葉を伝える22分ノーカットの演説シーンがあるのだが、これはもしかしてこの『独裁者』のオマージュでもあるのだろうか。

 その次に観たのがヒッチコック『バルカン超特急』。こちらではあくまで架空の国家だが、これもまたナチスドイツの存在が大きな意味を持つ作品だ。これぞサスペンス、という緊張感が、以前観た『裏窓』を思い出させた。ヒッチコック、やはり面白いのかもしれない。

 ルイ・マル『死刑台のエレベーター』には、冒頭から引き込まれた。愛人関係にある社長の妻との電話から社長殺害までの静かなシーン、カメラワークはまったく古さを感じさせない。モーテルで殺人を犯す若者には私はまったく同情できなかったが、最後、現像された写真から二人の関係が明らかになり、社長殺害の事実が突きとめられるシーンは、写真の中の幸せそうな二人の姿も相俟って、悲壮感、無常感を強く感じた。良い作品だと思った。ヌーヴェル・ヴァーグの初期の代表作らしいが、そのあたりのことはよく分からない。

 映画もそうだが、今年は意識してアンテナを広げようと、いままでならあまり手に取らなかった本にも目を向けている。元フィギュアスケート選手・町田樹『スポーツ・クリティーク』(世界思想社、2026年)もそのひとつだ。現役引退後、研究者に転身しスポーツ文化論や身体芸術論のほか、知的財産法などを専門としており、なかなか異色の経歴の持ち主である。

 書名の通り「批評」が大きなテーマになっている本書の照準は、けっしてスポーツのみに留まらない。たとえば、スポーツ実況解説について論じた章。フィギュアスケートの解説における「非常に芸術性が高い演技です」というコメントを例に挙げて、ここには「『芸術性』という意味が必ずしも明瞭ではない言葉が、何の説明もなしに用いられている」「何を以て芸術性が高いという評価を下しているのかがわからない」といった問題があり、「空転」していると言う。この手の現象は、スポーツの実況解説に限った話ではないだろう。なるほど、「空転」とは的を射た表現だと思った。

 ただ、本書は「だからいまの実況解説は駄目だ」と指弾するだけではなく、そこにある構造的な原因(さまざまな制約から、短時間かつリアルタイムで的確なコメントをすることはかなり困難)などについても考察を深め、改善すべき点と、そのために必要な視点を提示している。建設的な論である。

 歌詞の入った曲が使えるようになったフィギュアスケートの演技やその放映、動画配信、あるいは小学校のダンス教育の教材など、スポーツと知的財産法を巡る問題が多岐にわたっていることを本書から教えられた。若干、冒頭に掲げたルールに違反するかもしれないが、書影をSNSに投稿することが著作権侵害になるか否か、といった議論が一部で盛り上がっているようだ。売り手側としては周知に繫がるから良いのだ、といった実利、感情論ではなく、やはりここは学術的に議論し、共有されるガイドラインを定めるべきではないのか。慣習という名目でなあなあで済ませる部分が多すぎるのが、出版業界の悪い所だと私は思う。

 また、元が毎日新聞に連載された記事が主となっていることも理由のひとつかもしれないが、とても簡潔な文体で理路整然と論が続いており、ああ、学者の文章だな、という感想を抱いた。「批評は特定の利害関係者(ステークホルダー)の声を代弁する場でもなければ、ましてや自分の好き勝手な考えを述べる場でもない」という「批評」観を持つ著者だからこその文体でもあるのかもしれない。とても気持ちの良い文章だった。

 基本的に天邪鬼な私だが、信用している友人の薦めもあり、いま巷で話題となっているヤマノエイ『さむわんへるつ』(既刊1巻、集英社)はまず電子書籍で買った。その後、紙でも欲しくなり、家の近くの本屋では売り切れて驚いたが、なんとか大きめの書店で購入できた。毎話毎話強烈なワンシーンがある青春ラブコメディで、ヒロインの不思議な魅力もある。人気が出るのもうべなるかな(一方で、この作品が看板となる週刊少年ジャンプというのもどうなのだろう、と思ってしまうところもあるが)。おかげで、ほとんどこれしか読まないのに週刊少年ジャンプの電子版を購入するようになる始末である。

 1巻に収録されている7話以降の話も良いが、この7話の引きがあまりにも綺麗で、この1巻のみで終わっていたとしても、好きな作品として心に残っただろう。きっと単行本化を見据えた上で、編集は話の流れを組み立てていたのではないだろうか。

 しかし人気が出すぎるのも考え物で、特にいまのジャンプは、私の目からはあまりにもパッとしない。すると、アンケート上位の本作はそう簡単には畳ませてもらえない可能性も低くない。私は、とりわけラブコメについて、あまり長く続けるものでないのではと思っている。はたして何巻まで続くのだろうか。かなり気が早いとは思うが、そんな心配を密かにしている。

 明治時代の新潟を舞台にしたお料理漫画、角丸柴朗『りゅうとあまがみ』(既刊1巻、KADOKAWA)は、もう少し前に出ていれば新潟をテーマにした去年11月の同人誌で取りあげても良かったな、と変な感慨を抱いた。可愛い絵柄だが、日本人と外国人(異人)、妓楼といった、掘ろうと思えばどんどん重くなるテーマもちりばめられており、これから話がどう進むのか気になる。

 2006年発売のノベルゲーム『青空の見える丘』を久しぶりにプレイした。当たり前ではあるが、携帯電話が出てこない。これだけでも随分、人間と人間との関わり合い方が変わったのだなと感慨を抱く。個別ルートに入ってからは、そこまで話は長くない。ノベルゲームは10年近くやってこなかった。久しぶりにプレイするものとして、重厚すぎず、プレイ時間も長すぎない本作はちょうどよかったかもしれない(ここでいきなり『マブラヴ』とかをやっていたら心身がおかしくなっていたと思う)。本作ではののか先輩が一番好きだった。

 やや正月疲れもあって、今月もあんまり作品に触れられなかったな、と思っていたのだが、こう書いてみると意外にも多くの作品の名前が挙がってきた。1カ月とは短いようで、案外長いのかもしれない。もっとも2月は文字通り短い月だから、どうなることやら。

 ところで、去年までのタイトル「読書日記的備忘録」は変えた方がいいだろう。方針が異なるのもそうだが、「読書」が中心になるわけでもないのだから。

 私はネーミングセンスがないので、この手のことになるといつも困り果てるのだが、今回は「葉々録(ようようろく)」でいくことにした。「様々」な作品について、ひとつひとつ小さな言「葉」で記録として残していく、という意味を込めてみた。辞書登録でもしないとまったく変換できそうにないのがかなりの難点だが、それを除けば我ながら悪くないように思う。

(矢馬)