公募しんどすぎという結論に早くも至る。10月22日に1回文章を書き終えたが全体を大きく書きなおすことにして、文学フリマを経て2月4日まで全体の流れを考え直し、2月5日から書き始めて今に至る。ところどころで体調が崩れかけギリギリ耐えている。仕事が終わってから毎日サイゼリヤに行って閉店まで粘る生活を続けた結果睡眠時間が足りなくなった。今日(2月28日)力尽きて18時間くらい寝てしまった。何年も継続して書き続けられる人はすごいと思う。まだ書き終わっていないため、この1か月は頑張っていく必要がある。
これまで主に文学フリマで出展するブースのために作品を書いていた。その字数は多くて30000字くらいだった。今回は10万字くらいのものをはじめて書いている。そこで気づいたのは長い文章は一気に書ききることができないという当たり前の事実と、長い小説を書くと異様に疲れるというこれもまた当たり前の事実だった。
大学で書いた論文も10万字くらいいっていたが、そのときはたいして疲労していなかった。だいぶ楽だった気がする。気持ちの入れ方の違いと言えばそれまでだが、論文のときより書いている間のテンションがだいぶ体力に左右されている。サイゼリヤに向かう道中はかなり文章なんか書けるかしょうもないという気持ちになっているが、そこでガルムソースのチキンを一気食いすることで小説を書くテンションに自分を持っていくことができる。それがマルゲリータだったり、ミラノ風ドリアだったりすると微妙にテンションが変わっている。あとはその日仕事であったこととか、その日のネットニュースとかによっても自分の気持ちが変わる。つまり自分の文章は、統一された意識のもとで書かれているようでいて、まったくそうなっていない。1日1日上がったり下がったりする精神状態の下で書かれたツギハギの産物である。そして、わたしが文章を書くということはそのツギハギ1枚1枚をどれだけ美しくしていけるのか、つまり日々をどれだけよりよく過ごしていけるのか、そのような実践をめぐる問題であるということがわかってきた。
インターネット上の創作論は、書く行為そのものを透明化している。何度も擦られすぎている話題を出してしまい申し訳なさがあるが、「感情を書くな」というツイッター創作論がある。感情を書くな。行動を書け。そんなわけないのだが、なぜそんなわけないのかというと言葉に詰まるところがある。
走ることが逆に目立つ、ということに気がつくのには、時間がかかった。私は誰かに見られていなかったかを考え、激しく不安になったが、同時に、それ以上の喜びを感じた。そして、私は以前の私ではないのだ、と思った。私は至上ともいえる快感を発見し、味わった。私は自分にそれをもたらした拳銃に感謝し、これの為なら何をしても構わないと思った。私は、この思いはきっと、愛情というものなのだと思った。部屋に帰ったらしっかりと磨くことに決め、早くそれをしたいと思った。私は自然に込み上げてくる喜びに、自分が満たされ、この世界の全てを肯定したくなるような、そんな気分を感じた。そして自分が幸福であることを思い、これからも死ぬまで、それは続いていくような気がした。
(中村文則『銃』河出文庫、p107-p108)
この文章には「喜び」、「肯定」、「幸福」などの言葉が並べられているが、そこから生じているのはむしろ嘘っぽさである(とわたしは感じる)。それをもたらしているのは「私は」という語にある。一人称である以上、この個所で表出される感情は、「私」のものであるに決まっている。だがここでは一文ごとに「私は」という語が挿入されることで、偽り(もしくは、架空の)の「私」が一文ごとに表出されているように見える。感情しか書かれないことで感情の空虚さがあぶりだされている。ここで具体的な行動が書かれてしまうと、「私」の感情が本物らしく近づいてしまう。ちなみにこの作用については田中弥生がかつて論じていたのだが、手元に資料がないので引用できない。
要はツイッター創作論はべき論で小説のハウツーを語ろうとしているが、べき論は小説の可能性を狭める。好きに書けばいいんだから雑な決めつけをするなという身もふたもない結論しか導き出せないのだが、おそらくそうではない。正しくは、もっと多くの人間が創作論を語るべきである。なぜなら創作論は私的な感覚に依存するからである。べき論創作論は抽象的な書き手しか想定しない。だがサイゼリヤで2月25日にガルムソースのチキンを食べるわたしと2月26日にマルゲリータを食べるわたしは連続しているようで連続していない。創作論は私的な経験としてしか語れない。
その小説を創作している状況において重要なのは①小説を書いている時間②小説を書いていないが小説について思考している時間、その両者の差異になる。一発書きの掌編、短編小説以外の小説によって重要というか、不可避のハードルとして設せられているのは思考が①のときは②ではなく、②のときは①ではないという当たり前の現実である。これは読者も同様で、①小説を読んでいる時間②読み途中で生活を送っている時間との差異に、小説家の①②の差異が共振する。だからこそ小説というのは読者に自分事として大きく訴えかけるちからを強く持ちえるのだ。読者が小説を読んでいない時間にも、その小説について意識の低層で考え、再び小説へと戻ってくるこの繰り返しに近い時間を書き手もまた送っているということによって。
小説創作期間は①と②を高速で往き来するが、そのときに②の状態では①の状態への批評がかならず生じる。小説を書き継ぐというのは、自分が書いた前段の文章を批評することでまた新たな一文が生まれる運動の連続である。つまり①②間の差異をふくみこむということの実態は①といいう小説執筆におけるピークのような無酸素的思考の凝縮と謎を、②の時間において解きほぐし、ふたたび①に戻るために工夫するその果てしない繰り返しで、これは多かれ少なかれすべての小説にふくまれる操作になる。
(町屋良平『小説の死後――(にも書かれる散文のために)――保坂和志、私、青木淳悟』)『新潮 2025年10月号』p191
これを10月ごろに読んだとき、頭では理解していたのだが感覚的に理解できていなかった。いまはなんとなくわかる。わたしは今までよーいドン方式でしか文章を書いていなかったので、ずーっと一つの文章を書いていることでその文章に生活が乗っ取られていく感覚をはじめて味わっている。同時に自分の文章の癖とか傾向がいやな形で見えてしまっている。はじめに設計図を作ってやっていてもなおそうなっている。①②の操作の仕方は人によって異なる。それは①②の間をどのように調整して書くコンディションを作り上げていくかという方法への問いだけでなく、②の生理を①に反映させたときに、それを作品を飛躍させるために用いるのか、もしくは作品と調和させる方向にいくのかという方法への問いも喚起する。つまり小説を書くときに発生するライブ感とはなにかということ。
事後的には1つの統一された文章のまとまりとして成立してしまう小説を部分部分において観察したとき、そこでなにを書き、なにを書かない判断を下すのか。他者の文章が一文と一文の間に生じさせた飛躍は、わたしにも再現しうるものなか。その飛躍ははたしてどのようにして現れ出たのか。統一されたわたしの文章に疑義を挟むことと、それでもなおそれが統一的なものであるとみなせてしまうことの間に生じる葛藤について語ることこそが創作論であるのだとすれば、わたしたちがツイッターの創作論を見てうんざりしつつも議論に交じってしまうのは、創作論を語る人間が少なすぎて、もっと多くの人間がおれの最強の創作論を叩きつけてくれることを待望しているからなのではないか。べき論創作論も、私的な信念に基づいていたらこんなに炎上することはないはずである。1億創作論の時代が待たれる。地球上の人間の数だけ創作論がありうる。創作論業界の未来は明るい。