ソガイ

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葉々録 2026年2月—「人生を無視したロジックは——人の心には響かない」

2026年2月

 月ごとの記録をつける際、2月というのは物理的に他の月より短くて不利(?)なのだが、今月はそれに輪をかけて仕事がいつもより忙しく、特に前半はぼーっとしている時間が多かった。そんなこんなで気がついてみれば世は内憂外患とでも言い表せそうな様相を呈しているが、ここではひとまず措く。

 今月読んだ小説は多分、一冊だけ。佐伯一麦『空にみずうみ』(中央公論新社、2015年)。佐伯一麦らしい私小説だが、読売新聞夕刊の連載小説ということもあってか、たとえば『ノルゲ Norge』や『還れぬ家』といった文芸誌連載のものとは趣が少し違う気がする。ひとつひとつの小文を書いた順に並べた形には、より身辺雑記らしさが感じられる。同じ題材であっても、これが文芸誌であったら、あるいは単行本書き下ろしであったらどうなったのだろうか。一つの作品を作品たらしめる外部的な要素について、最近はしばしば考える。メディア、フレーム、デバイス……。人間は自分で考えているようで、このような外にあるものによってそのように考えさせられているのかもしれない。そんなことを思うと空恐ろしくもなる。

 本書で面白いのは、「新聞の連載小説の『半夏生』の章を新しく書き出した」といったように、すでに書き終わって、そして読者も読み終わっている過去の章を書いている時間が数章後に描かれていることだ。これはなかなか不思議な感覚で、書く・語るという行為の時間について考えさせられた。

 この複層的な時間のなかにはしかし一本、「三年前」、すなわち東日本大震災の記憶が流れている。比較ではないが、連載中に震災が発生し、作品への向き合い方を見直すことを余儀なくされた『還れぬ家』をもう一度読みたくなった。

 漫画についてはなかなか良い作品に出会えた月だった。千真『花とくらげとリフレイン』(小学館クリエイティブ、既刊2冊、2025〜2026年)は、去年5月に第1巻を書店で見てなんとなく気になったものの、何かタイミングが合わなかったのか買わなかった作品だった。今回、同じ書店で第2巻の表紙が目に入った途端に、「あ、前に気になっていた作品だ」とすぐに思い出した。2回も気になったのなら読んでみた方がいい。切ないものになるだろうことは冒頭で仄めかされている、幼い頃に神隠しにあった少女と別の世界から来た人外の青年の不器用な恋の行く末が気になっている。

 横谷加奈子『遠い日の陽 横谷加奈子短編集』(講談社、2026年)に収められている短編は、それぞれ不思議な読後感だ。自身の小さい頃の写真10枚を1万円、という異様な商品をフリマアプリで購入するところから始まる表題作はやはり光るが、痩せている女の子が好きな少年が、どんなに食べても太らない体質で棒のような身体をしている転校生の少女に惹かれ、しかしその体質はやがて解消されていくことを知って、いまの姿を記録として残したいがために思いつきで彼女を主人公とした映画を撮ることにする「麻子の恋人」のそこはかとない気持ち悪さは、妙に印象に残る。気持ち悪いところはあるのだが、露悪的ではない。ぎりぎりのところをいっている小品だと思った。帯文に小川洋子がコメントを寄せているのだが、それもなんとなく分かる気がした。

 田舎の通学のバスを舞台にして、小さい頃から一緒だったがいまは別々の中学に通う男女の、恋愛とも友情とも言い表せないような小さな時間を描く豊林サカネ『ふたりバス』(小学館、2026年)は、まずもって題材が好み。良い意味で軽く読めるので、どこまで続くのかは分からないが、付き合いが長くなりそうな作品だと感じている。こちらは帯文に山本崇一朗の一言が載っている。完全にこちらの好みを読まれているとしか言いようがない。

 それにしても、週刊少年サンデー連載の本作のコミック単行本は、本体価格540円、税込594円。私が漫画を買い始めた中学生、つまり15年ほど前には、少年誌連載のコミック単行本は400円くらいだった気がする。大学生の時は書店でアルバイトをしていたが、『ONE PIECE』なんかの発売日には呪文のように「432円」、すなわち本体価格400円に8パーセントの消費税32円を加えた金額を連呼していた記憶がある。本は本当に高くなったんだなあ、と改めて思い知らされる。

 映画については、月の前半はほとんど観ていない有様だったのでどうなることやらと思っていたが、最終的には先月と変わらないくらい観ていた。感想がまとまっていないのでそれぞれ軽く。

『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、高畑勲が監督を務めたアニメーション映画。冒頭、狼の群れとの戦闘シーンがこれぞアニメーションという映像であり、一気に惹き込まれた。いわゆる「映像美」とは違う、アニメーションのアニメーションたる所以をそこに見た。

 同人にも勧められ、『タクシードライバー』『ジョーカー』を連続で観た。どちらも、荒れた社会で自分を認めてもらえずに鬱屈している男が兇行に及ぶまでの過程を描いている。『ジョーカー』には『タクシードライバー』をオマージュしたシーンもところどころあって確実に関連性がある2作品だが、個人的には、『タクシードライバー』はドライ、『ジョーカー』はウェットという対照的な印象が残った。好みでいえば、終始空気が重かった『ジョーカー』より、どこか滑稽さもある『タクシードライバー』の方が好きかもしれない。

 石川慶『点』は30分弱の短い作品。理髪店を舞台に、学生時代に付き合っていた二人のぎこちない距離感のなかで交わされる言葉、あるいは無言の対話。うだつが上がらないというか、少し陰のある中年を演じる山田孝之の良さを知った。

 実は観たことがなかった『スタンド・バイ・ミー』。根強い人気があるのはよく分かった。導入の仕方が好み。

 今月は2本(厳密には4本)のノベルゲームをプレイした。どちらも謎解き要素が多く、いわゆるグランドエンドに向けて一気に伏線が回収されるので、なかなか油断ならない作品だった。

 1本目が『時計仕掛けのレイライン』、3部作の「黄昏時の境界線」「残影の夜が明ける時」「朝霧に散る花」すべてが同封されたコンプリートボックスを見つけて思い切って買ったのだが、これは3部作すべてをプレイしないとあまり意味がないので、その選択は正解だった(少し待っていればECサイトのセールにて、自分が購入したボックスより8割くらい安い1000円程度で3部作のデータ版を買うことができた、ということに数日後に気付いたが、それはそれ)。

 昼と夜、二つの世界に分かれている魔術の知識が集約された学園が舞台とし、その魔術関係のトラブルを解決する特殊事案捜査分室の3人を中心に、そんな学園の謎、その暗部に迫っていく、という、少し前(といっても私が中高生だったとき)のライトノベルも彷彿とさせるファンタジックなミステリー。分かりやすい伏線もある一方であまりにもさりげなく張られている伏線も多く、それは作品を跨ぐこともある。前作で解決したはずの謎が次作以降でより大きな陰謀に繫がっていることが明らかになっていく展開は、王道ながら惹き込ませる。すべてを揃えられるいまの環境であれば、3作を一気にプレイした判断は正解だったように思う。

 最初のうちは自分の本当の目的を話さず、主人公達に頼らずにすべてを一人でこなそうとしてしばしば衝突していたヒロインが、最後、この場所を気に入っている、と素直に口にするラストは大団円と言って差し支えないだろう。

 強いて言えば、トゥルールートからは逸れたところにあるヒロインのルートを最悪読まなくても、話が繫がりうるように思えた点は難しい。ルート構成も、トゥルーという一本のまっすぐに太い幹があって、その途中から斜め上向きに生えた少し細くて短めの枝が他のヒロインのルートになっているような感じだ。つまりこのルートに分岐した途端、最後の大団円に辿り着く可能性は無くなったものと言える。

 そのため、順番としてはやはり、他のヒロインのルートを終えてからメインルートを進むのが妥当となるのだが、すると、謎が深まってくる2作目などは早くメインルートに入りたいという気持ちを抱えながら他のルートをこなす、という状態にもなりがちだった。その点、3作目は完全に一本のルートで構成されているので、それこそ「ビジュアルノベル」を味わっているような感覚になった。

 善し悪しではなく、複数のルートを用意しながらトゥルーエンディングを作ることの難しさを感じた。

 そして、今月一番印象に残り、いまだに折に触れていろいろと思い出しては考えてしまうのが『さくらの雲*スカアレットの恋』。2020年を生きる青年が浅草あたりの桜の木の下で微睡んでいると、100年前の1920年、大正時代の帝都・東京にタイムスリップしてしまう。そこには、閑古鳥が鳴く探偵事務所を東京で営むイギリス人女性がいた。最初こそ青年の話を疑いながらも、それでも彼が100年後の未来から来たということを信じてくれた彼女に、青年は探偵事務所への依頼として、「自分を未来に返す方法を探して欲しい」とお願いする。そして青年は助手として、所長である彼女の事務所に住み込みで働く。日々の生活もギリギリである懐事情の彼女を助けるため、未来の知識を駆使しながら事務所に持ち込まれる依頼を解決していくなかで、やがて彼らはこの帝都を覆う、時空を超えた大きな陰謀に巻き込まれていくことになる。

 本作の最大の特徴は、複数のヒロインのルートがありながら、それはすべて一本の大きな物語として構成されている、ということだ。まず共通ルートの第4章まで進んで一度破滅を迎えると、強制的にスタート画面まで戻る。その画面は、もともと全ヒロイン4人の画像だったものが1人になり、最初は「?」となっていたアイコンが開放されて「枝を渡る」と変わっている。そこをクリックすると、時間軸としては冒頭の第1章まで戻り、そのスタート画面にいたヒロインのルートがスタートする。それが終わると別のヒロイン、そしてまた次の、と全員分を繰り返す。

 作中で、この世界は桜の木のように枝分かれを繰り返していて、いま自分がいて認識しているのはその一つである、といった多世界解釈の考えが示される。「枝を渡る」とは、まさにいまその内の一つの世界に進む、ということだ。

 ここまでだとさっきとあまり変わらないかもしれないが、本作にはこの無数の世界を移動し、物や人を送る/贈ることができる「観測者」がいる。主人公に干渉してくるその彼女によって、主人公は別の世界の自分からの電報を受け取る。主人公自体は世界と世界を移動できないから、別の世界の記憶を受け継いでいるわけではないが、この「観測者」の存在によって、別の枝の出来事が無かったことにはならずに新たに話が始まっていく。そこで彼は、その電報を頼りに、自分に課された使命が何であるのかを少しずつ知っていくことになる。

 1人目、2人目のルートは、最終的には割と和やかなところで終わる。「未来に帰る」という最初にあったはずの目的もどこか薄れ、主人公はこの対象の世界に身を置くことを決めているようでもある。

 3人目もそのように終わるかと思いきや、ヒロインは最後の最後で物語の根幹に迫り始める真実を語り、そのまま4人目のグランドルートへと突入していく。

 実は、それまでの3つのルートでは、帝都再建を掲げる大尉の陰謀による帝都の崩壊を免れることはできていなかったことがその冒頭で明かされる。最後のルートではこれを阻止するため、別の枝の自分から集められた膨大な電報を元に、皆で協力して動いていくことになる。これまでの別の枝があってこそ、このルートは成立するのだ。

 だが、ここに来ての最大の謎、あるいは容疑者は、主人公自身だった。よくよく考えれば彼の言動には不自然な点があったし、彼が語る説明にも不十分と思われる箇所があった。そして事実、皆で大尉が引き起こしている歴史の「歪み」を正してあるべき未来に戻し、自身も元いた未来に帰る、という目的で動いていたはずにもかかわらず、彼はそれを裏切っていた。彼もまた「歪み」を生むために密かに動いていたのだ。

 そのヒントは、それまでのルートにもちりばめられていた。そして彼はずっと、そのメッセージを発してもいた。それでも、この世界での彼の一番の理解者であるはずの所長は気づけなかった。そこにはいくつもの思い込みがあった。「実際には起きなかった出来事を阻止することこそが『歪み』を正す方法だ」「未来はきっと良い時代である」、なによりも「彼は未来に戻りたいはずだ」というように。

 それまで、別ルートにおいてもしばしば、主人公視点の語りの間には所長視点のシーン「Another View」が挟み込まれていた。これはただ所長の心内を描くためだけではなかった。いわば信頼できない語り手の存在をミステリーの三形態、フーダニット・ハウダニット・ホワイダニットのすべての面から曝くための視点としてこの場面で用いるために周到に用意されたものだった。

 そこで語られた真実は、このゲーム世界もまた、いま私たちが生きている「令和の日本」という世界に向かう途中で枝分かれした世界だった、ということ。冒頭、背景にある東京スカイツリーらしき建物が「東京スカイタワー」と呼ばれていた。私は最初、フィクション作品によくある固有名詞をぼかすパターンか、くらいにしか思っていなかった。だが考えてみれば、浅草や銀座といった地名、凌雲閣などの建築物は普通に出ていた。ここだけあえてぼかす理由もあまりないし、ぼかすのだとしたら、その建物の外観はあまりにも東京スカイツリー過ぎた。

 そこに来て、「大正」という言葉はしばしば出てきたが、2020年に当たるはずの元号についてはずっと言及されていなかったことにも思い至る。

 現実と虚構を跨ぐ平行世界、それを導くための多数の誤誘導(ミスディレクション)。これについては諸手を挙げて、巧みなプロットと言うほかない。参ったものである。

 本作で特に好きな台詞がある。「人生を無視したロジックは——人の心には響かない」。

 ここ数年ほど、私はこれに少し似たことをよく言っている。すなわち、「その人の思想に基づかない技術や方法論の話に興味はない」と。この「思想」とは無論、その人の「人生」に裏打ちされたものであり、そのまま「人生」とも換言可能だ。「ソガイ」3月1日公開の灰沢清一君の記事「公募ジャンキーに向けて」では、創作論について、「もっと多くの人間が創作論を語るべきである。なぜなら創作論は私的な感覚に依存するからである。べき論創作論は抽象的な書き手しか想定しない」「べき論創作論も、私的な信念に基づいていたらこんなに炎上することはないはずである」と語られている。

 

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ここで言われている「私的な感覚」「私的な信念」、これも同じことだと思う。そして、このような「人生」に裏打ちされた言葉を、私は久しく見られていないように感じている。理論ばかりが先行するか、その瞬間の群衆的な感情に追従するような言葉ばかりが目について辟易している。

 だが、本作でのちの平和な未来を100年かけて作っていくのが大正の時代に残された彼女たち一人一人の力であったように、物事の根幹にあるのは一人一人の人間の信念であり思想であり行動であり、そして人生なのだと、私はそれこそ人生をかけて言い続けていきたい。

 本作の結末は、世界的に情勢が不安定になった現在においては意図せぬ皮肉にもなってしまっている。「平和な時代である令和」は、今のところ空想のものとなりつつあるからだ。勝手な話かもしれないが、彼女たちが生涯をかけて導いた世界を無に帰すような世の中には無性に腹が立っている。

 この枝はどこに向かうのか。これから無数に訪れるであろう枝分かれの場面で、人類はどの道を選択していくのか。私たちには今のところ、タイムマシンはない。過去は変えられない。それでも、今の行動如何で未来を変えることはできる。私はまだ、諦めていない。

 彼女たちが築いた「令和」の世が現実のものとならんことを願い、これからも生きていく。それが、一人の人間にできる唯一にして最大のことではないだろうか。

(矢馬)