文芸誌を毎月買うことにした。理由はいろいろあるが、それがインディな読者としての礼儀であると感じたからである。
5大文芸誌の賞の応募者の数は1つの賞につき2000人くらいいる。複数作書いている人がそれなりにいると仮定して母数を少なめに見積もっても、6000人くらいは潜在的な文芸誌の読者がいる(はずである)。が、文芸誌を読んでいる人が国内で6000人もいるとは思えない。1000人いるのかどうかすら怪しい。わたしの周囲の人間は本(それも、純文学系)を読む比率が高いが、それでも文芸誌を読んでいる人間はいない。いないが、文芸誌の賞に応募している人間はXを見る限り割と多い。自分がなにかを書いていることを全世界に伝えようとする人は多いが、文芸誌を読んでいることを全世界に伝えようとする人はほとんどいない。
2月15日に行われたこのイベントでは「文芸誌の新人賞を経由しない小説」、「文芸誌の新人賞を経由せずにデビューする小説家」についての議論があった(らしい)。
https://note.com/solar1964/n/n6c39d9e29467
いままでのわたしだったら多分行っていたが、今回は行かなかった。公募に間に合わなくなりそうだったからだ。イベントは2月にあったから時間を調整すればたぶんなんとかなったと思うし、いままでだったらそうしたはずだが、そうしなかった。
どんなにウェブ小説のサイトが活況を呈していようとも、「文学」の本丸を守るのは文芸出版社であり、そのゲートキーパーとしての新人文学賞である、という状況がずっと維持されていきたのです。
こうした状況に対するオルタナティブとして「インディ小説家」がいる。その存在は戦略的なものなのか。それとも消極的なものなのか。出版社中心の「文学」の外部から「文学」は生まれるのか。それは「文学」とは異なるものなのか……みたいな話が出たのだろうと思う。行ってないからなにも言えない。
わたしはピクシブのR-18エロ小説の、ハートマークと擬音を多用する感覚と独白が過剰で非人間的な圧力を読者に強いる謎めいた表現形式も「文学」であると思っている。わたし自身は保守的かつ権威主義的な人間だが、せめて小説くらいはビビッドで過激な形式が全肯定される解放区であってほしいという思いは持っている。だから文学賞に依拠しない小説が新しいシーンを作ることに対してはむしろ肯定的であるはずだった。
だがわたしは小説に対しても権威主義的であることを否定できない。「賞を獲っている人間は偉い」という認識に固執している。公募ジャンキーとはそのような存在を指す。選ばれるということに対するこだわりがある。もしかしたら、「インディ小説家」という概念をわざわざ立てようとすること自体がナンセンスだと思ったから、公募を言い訳にしてイベントに行かなかったのかもしれなかった。
ひとことで言えば、どんなに文学フリマが量的に拡大しようとも、そこで販売される「文芸同人誌(旧来の意味での)」やアマチュア作家による表現が、それほど高度なものであるはずがないという、質に対する予断があるのではないかと思ったのです。
「アマチュア作家の表現が高度ではないという思い込みはおかしいのではないか」という問いと「文学フリマへの関心が「文学」には向かわないのはなぜか」という問いは、わたしには一致するとは思えなかった。それは、そもそも文芸誌を読むことと、文学フリマで買った本を読むことは、体感的に同じことだからだ。インディーズの山の中から、当たるかどうかわからないくじを引いて、ときたま当たったり、外れたりする。そうしたギャンブルとしての読書。
ここで言う文芸誌とは、「新人賞の受賞作が載ってない文芸誌」のことである。芥川賞や三島賞、野間文芸新人賞と、公募の新人賞には権威性がある。が、そうでない作品に権威性があるのかというと、なんともいえない。文芸誌に載る作品の価値はそこで引き裂かれている。芥川賞候補になった作品とそうでない作品の知名度には天と地ほどの差がある。
芥川賞候補になってない文芸誌に掲載された作品を読もうとするときに働く感情は「これ面白いのかな」とか、「読んであまりハマらなかったらやだな」とかではないかと思う。それは文学フリマでふらっと立ち寄ったブースに置いてあった作品を読むときに感じる気持ちと変わらない。しかも文学フリマだったらお祭り意識が働いて財布の紐が緩くなっているが、文芸誌を買うときはそうはならない。つまり、文芸誌の小説はほぼインディである。青木淳悟もふつうに文学フリマに来るし、文學界も小冊子を売っていたわけなので、「文学フリマ」と「文学」はもはや別ものではない。
文学フリマを通じて実力が見出されていく人が増えることは望ましいが、文学フリマを通じて成り上がろうという意識が参加者の中に高まっていくことは望ましくない(インディ小説家と文学フリマがぴったり重なるわけではないことが、話をややこしくしている)。個人的には、文学フリマは売れる売れないという問いから離れたところで盛り上がってほしい。みんな趣味でやっているのだから、売れる売れないというさもしい問いに拘泥しないでほしい。もちろん自作を五億部売りたいことは事実なのだが、文学フリマの価値は本を売ることではないという思いが年々高まっている。インディな作家であるより、インディな読者であれることにこそ文学フリマの意味はある。
ほっといてもインディな作家にはなれる。自分のことを伝えたい欲望があるのだからそれは当然である。だがインディな読者であり続けることはきわめて難しい。限られた人生のなかで、本を読んでがっかりする経験はいっそう受け入れ難くなっている。損なんかしたくない。わざわざ本なんか読んで。まして、価値のはっきりしてない文章なんて。だが文芸誌というインディな形式を擁護するためには、わたしは本腰を入れてその形式の読者にならなければならない。自分が賞を取るにしろ、取らないにしろ。
3月31日、文藝賞に作品を出した。結果として、9ヶ月間ほとんど小説を読めなかった。読みながら書く生活リズムを作ることができなかった。後藤明生の千円札文学論を持ち出すまでもなく書くことと読むことは両輪をなす。とすれば、文芸誌の公募に小説を書いて出すことの裏返しとして、文芸誌の小説を読み続けることは必然的な責務となる。2000人のうちの1人として。それは個人の楽しみとかではなく、制度を少しでも延命させたいと思うがゆえの義務感である。
書き手なんか名乗ろうと思えばいくらでも名乗ることができる。読者――それも、作品の価値を定式化したうえでその是非を判定できるよい読者――であるための実践こそが目下の問いである。文芸誌を読むことはその実践にほかならない。わたしはいつまで経っても権威主義者のままだろうが、それでもなおインディな欲望を、権威から解放された形で肯定できるようになることに憧れる。2月15日のイベントにも素直に行けばよかった。要するにあらゆるジャンルを食わず嫌いせずぜんぶガンガン突き進んで読めばいいという結論になるが、それは確かにジャンキーにふさわしい姿であるにちがいない。