文芸誌を読む修行をはじめることにした。
条件は以下の通り。
①対象は五大文芸誌(『文學界』、『群像』、『新潮』、『すばる』、『文藝』)とする。
②読む作品は文芸誌内で『創作』と区分されているものとする。『短編』は含まない。また、連載されている小説も含まない。
③読む作品はすべての『創作』とする。つまり対象は「新人」だけでなく、すべての『創作』である。
④各文芸誌の中でいちばんよかった作品について長めに感想を書く(原稿用紙5〜10枚くらい)。ほかの作品は短めに感想を書く(原稿用紙1〜2枚くらい)。
⑤可能な限り判断の根拠を伴った感想を書く。たとえば「文学的ではない」と書く場合は(あくまで例)、なにを「文学的」であると思っているのかについて開示したうえで、ある文章が「文学的ではない」と指摘する。
⑥各作品の感想の冒頭で短めの作品紹介を書く。あらすじではない。ネタバレには多少配慮しつつ、作品の内容とトーンを伝えられるようにする。
⑦1年間続ける。2026年の5月号から開始、2027年の4月号で終了予定。
文芸誌に掲載された小説を読み続けることで、頭と体を公募ジャンキーに仕立て上げていく。これを意図とする。
また、ある小説が「何を」「どう」書こうとしているかを読み、そこで得られた要素を自分の価値判断の基準に照らし合わせることで作品を評価する行為、すなわち批評を、「批評家気取り」ではないやり方で試みることも意図とする。
批評家気取り的な読みとは、自分の主観的な判断を無根拠にふりかざす読みを指す。たとえば「この小説は文学的ではない」や、「この小説は他者が書けていない」のような「批評」には建設的な視点が欠落している。こんな文章を書いてしまったら即アウトである。「文学的」とはなにか? 「他者」という表現にどんなニュアンスを込めているのか? それがわからないと議論のしようがない。
なにが良くて、なにが悪いのか。個々の認識の差異は、究極的には「人それぞれ」や「人による」といったマジックワードに回収されてしまう。だが、「人それぞれ」どう違うのか? どのあたりが「人による」のか? 結局は分かり合えなかったとしても、わたしたちはこの点で分かり合えなかったのだということが明らかになれば、たとえばソガイ同人の矢馬くんが下記で言及していた桜庭―鴻巣論争はもっと意味のある形で収束していただろう。
小説を書くと、きわめて疲れる。書く気が起きないこともある。しっくりこないと苛つく。理想形は誰にもわからない。手を加えれば加えるほどよくなるわけでもない。悪くなることもある。沈んだまま机に向かう。ああでもないこうでもないを一週間繰り返して生み出された一行は一秒で読み飛ばされる。
そうした徒労感は、小説の特権ではない。料理でも絵画でもユーチューブでも、割に合わない瞬間は平等に訪れるはずである。現在あらゆる領域で批評(家)が嫌われるのは、その虚しさに寄り添う姿勢が批評には見られないからなのだろう。
だが、それを抜きにしても小説は公的に批判しづらいものとなっているように思われる。Xで「私に合わなかった小説10選」のハッシュタグが炎上したことがあったが、それはその最たる例である。語る母数の問題もあるだろうが、エルバフ編からワンピースはオワコンになったというワンピース批判コンテンツがユーチューブでブルーオーシャンとなるくらいには「批評家気取り」であることが許される漫画と違って、小説界隈にはうっすら作者と作品のことを悪く言ってはいけないという雰囲気が漂っている。
「批評家気取り」はもっと増えたほうがいい。小説の読者を増やすためにも。飲み屋のノリのような雑語りが肯定されるような環境でなければ、私小説を書いたと自認したにも関わらず、ちょっとあらすじが意に沿わなかっただけで「モデルに被害が及ぶ」と版権引き下げをちらつかせてまで内容の取り下げを要求する桜庭一樹の一件のような意味不明すぎる事態がまかり通ってしまうことになる。それは、素朴な感想を述べることをほとんど不可能にする。「読解力が足りない」と読者が反省する必要はどこにもない。仮に作者の意図があったとするなら、その意図を小説内で達成できなかった作者の方が悪い。読めない奴が悪いという小説家の傲慢がある限り小説は一生オワコンである。
小説を書くのはとても大変である。ゆえに書き手に配慮して丁寧に読まれるべきである。小説の解釈はすべて読者に委ねられる。ゆえに小説はもっと雑に読まれることを許容すべきである。この二つの主張は相容れない。書く側と読む側。二つの視点に立つと認識は引き裂かれる。だったらもう「人それぞれ」? そんなわけはない。
小説の書き手にとって少しでも有益な感想を書く。これを意識している以上、公募ジャンキーたらんとするわたしはどうしても前者の側に傾かざるを得ない。だが実際どうなのか? 言うておれがなにか読んでるときって、おもしろすぎる! 神! か、つまらなすぎる! 時間返せ! のどっちかしか思ってない。けどそれだけだと十五文字くらいしか書くことがないから、わたしは体裁を整えるためにその要素をもう少し掘り下げて考えてみる。結果、多少なりとも人に読まれても問題ない文章ができあがる。だとしたら、丁寧さと雑さの間には境目がある。ということになる。
結局、丁寧さの方に傾くことにはなるだろう。それでも、丁寧さと雑さの境目に脆い橋を建設し、危ない思いをしながら渡り切ることにはチャレンジしたい。あくまでもこれは私的な修業である。小説をたくさん読んで、書く鍛錬の副産物として、考察全盛の時代に、批評ははたして書く意味があるのか? あるならどう書けばよいのか? という問いにも近づけていけたらよいと思っている。
(灰沢)