ソガイ

批評と創作を行う永久機関

文芸誌修行(感想編):2026年5月号

 文芸誌に載っている小説を1年間ひたすら読み、修業します。

 今回は群像、文學界、文藝、新潮、すばるの順です。ややネタバレありです。

 

◎群像

小砂川チト『ゾンビ回収婦』

 失業した原因をAIに求めようとする「わたし」は、姿を消した夫が残したVRヘッドセットを装着してホラーゲームに没入する。彼女はNPCとして、肉片となったゾンビを回収する労働に従事し、死ぬことを避けようとする臆病なゾンビに恋をする。

 労働による人間疎外。テーマははっきりしている。現実世界で失業した「わたし」は、ゾンビを撃ち殺すプレイヤーではなく、ゲームの裏方たるゾンビ回収婦であり続けようとするが、「回収の上手くなればなるほど、わたしはひとびとから、あるいは人間らしさから、ひと足ずつ、しずかに遠ざかっている」。延々続く報われない労働のなかで、NPCのように振る舞う。もしくは周りをNPCであるとみなす。そうした態度は突飛であるどころか、現実に生きるわたしたち労働者にとっては生存の手段ですらある。「静かな退職」を実践するわたしたちに通底するのは成長を拒絶する態度である。

AIにもできる仕事を、わたしはそれでもやっていたかったんです。わたしはね、もうこれ以上発展したくなんかなかったんです。わたしは変りたくないこのままでいたい。これ以上のことなんかまったく、毛ほども、望んでいなかったんだ。

 だいたいにして、いまさらなんだっていうんでしょう。急げ、急げ、結果出せ。急げ、急げ、ミスすんな。改善しろ向上しろ発展しろ進歩しろ、死んでもミスんな、進化しろ。そういってさんざん機械みたいにあくせく働かせておいて、今度は「ミスすることこそ人間特有の愛らしさ」ですって。

「きのこと 名乗ったからには かごに入れ」。責任を取れという言葉(ロシアのことわざ)は、ゾンビの肉片にはじめから刻み込まれている。それは「わたし」にとっても例外ではない。だから、現実世界の労働者にNPC性を見出すことで世界をゲーム化し、「働かざるもの 食うべからず」という自己への呪いの言葉から解放される「わたし」のプレイしていたゲームが、「労働」を「成長」と結びつけるクソゲーであることは言うまでもない。


 現実世界の労働者がNPC的である、という着地はそれほど突飛なものというわけではない。三宅香帆が提唱した「半身で働く」概念が自己啓発思考への過剰なまでの反発から導き出されたものであったように、「労働を成長と結びつける思想に敵対すること」はおそらく文芸誌の読者にとって親和性が高い。もちろんこの感想の筆者灰沢にとっても高い。だからここまでの説明だとよくある話にしか見えなくなる。

 にもかかわらず小説が鮮烈な印象を与えるのは、一人称「わたし」の躁的な語りが、NPCにはまったくそぐわない熱狂に満ちているからだ。

 それからのわたしは来る日も来る日も、あなたたちの身体を回収することに専心した。

 現場に到着すればわたしは手始めに、一抱えの赤黒井山になったあなたたちをかぞえる。目視とゆびさしで事務的に、かぞえる。あくまで取りこぼしを防ぐためにそうする、うっかり置き去りにしないためにあなたたちをかぞえる。あなたたちの手足はひいふうみいよう五対あり、つまり鼻が五つに、眼球と耳が十だった、あなたたちは五人群れなして銃口へと向かってゆき、五つの身体が砕けて混じるまではものの一瞬のことだった、敵はグレネードランチャーを携えていたので、あなたたちはろくに爪痕を残すことができなかったし、十数秒の足止めにさえ、失敗したのだった。

 あなたの右上腕を拾い(あなたから離れたそれはあなたに付属していたときの三倍かそれ以上にずっと重い)、壁にガムのようになすりつけられられたひとさしゆびをこそぎ、眼球たちをホウキで器用に転がして、木材じみた左下肢をひきずった。急げ、急げ、結果出せ。わたしは自分を前へ前へと動かすために、ガムでも噛むようにつぶやいている。急げ、急げ、ミスすんな。改善しろ向上しろ発展しろ進歩しろ、死んでもミスんな、進化しろ。最後の点検のためにみわたすと、あなたの腐りかけの鼻が冷えた窓ガラスに屹立していたので、それをつまんでバケツのなかにぴしゃりと放る。すこし半径をひろげ、つぎなるあなたをわたしは回収しにかかる。

 書き出しからアクセル全開でゾンビを拾いまくる「わたし」の労働のせわしなさは、「静かな退職」を望む者の淡々とした動作とは程遠い。そもそも「わたし」は先任の掃除人をゲーム内で殺害してNPCに成り代わったのだという。そのような経緯でNPCになった「わたし」は、ゲームのルールばかりか、NPCという枠からも大幅に逸脱している。急げ、急げ、結果出せ。最終的には乗り越える「急げ」という強迫性に「わたし」がどっぷり漬かっているからこそ、この小説はほかの反「労働=成長」小説とはちがった様相を見せている。「シタン! シタン!」、「がごん! テンコロ・カラコロカラ・テン!」といった無造作な擬音のさわがしさに耳を閉じる静かな退職者ではなく、そこに自ら身を投じて傷ついてしまう「ワーカーズ・ハイ」な語り手が存在する。そして彼女が「労働=成長」のグロテスクを全力で体現してくれているがゆえに、この小説は「よくある話」を奇形的に変形させているのだ。

目の回るような忙しさのなかで、わたしはなかばワーカーズ・ハイに陥っていた。最後のひと撫でぶんの水拭きを終えた膝をそのままスライディングさして物陰に飛び込み息を抑える、このスリルがたまらなかった。長らくこんな繁忙期なんてなくて、ああでもわたし、こういう日を待っていた。暗がりでガタガタ震えながら、なんども祈りのポーズを作った。こわい、こわい! 一手でも判断を誤ればおしまい! あと一手で破綻する、回らなくなる! でもしあわせ、いまわたしたぶん、すごくしあわせ。毎日こんな日が続けばいいのに!

「わたし、○○……」という表現が、小説内には幾度か登場する。「ああでもわたしは、こういう日を待っていた」ではなく、「ああでもわたし、こういう日を待っていた」。主語と述語の間をつなぐ助詞「は」が省略され、体言止めのような形で文が一度切れることで、文章がふたたび加速しているように感じられた。一度リズムを止め、ふたたび走り出す。これは後述する『ソリティアおじさんがいた頃』ともかかわるのだが、「わたしは」という表記は文章に余計な重さを産んでしまうよう思える。上の文でも「わたしはなかばワーカーズ・ハイに陥っていた」というところでは「わたしは」を使っているので、全部が全部そうというわけではない。だが、一人称の文章をスピーディーに進めようとする結果、「わたし」という語を全体として振り捨てようとする傾向がもしかしたら強まっていくのかもしれない、とも感じられた。

 

 ゾンビは人間らしく。人間はゾンビらしく。作品を貫く原理は世界の反転である。「わたし」がプレイするゲームの作者であるミーシカは、一体のゾンビが「恥じ入る」姿を発見する。「ゾンビ業に復帰することができずにいる」ゾンビに、ミーシカは「人間らしく(イヌクティトゥット)」という名前を与えた。ゾンビの変化を前にして、ミーシカは涙を流す。

 なにが解決したでもない。問題は依然として山積みしたままだった。

 それでもミーシカ・コソラープィはその日、公園でなにかを見、幾らかなりともむくわれた気がし、ぼうだの涙を流したのだったが、しかしゲームのなかにはかれの涙を示しうるエモートは存在しなかったので、それはゾンビのミルク色の目にはたんなるしかめ面にしか、映らなかった。

 ミーシカの涙がゲームの世界では存在しなくなることが、その後の「わたし」の変節(見たいものだけをここに見る)につながることは言うまでもない。ゲームから一度引きはがされ療養所に送り込まれながらも、最終的にはそこすらもゲームの世界に染めるに至った「わたし」の病ははたから見たら悪化しているようにも見える。ところが「わたし」はその中でこそ現実の呪いから解放される。「それからのわたしは来る日も来る日も、あなたたちの身体を回収することに専心した」。三度繰り返されるこのフレーズに沿って彼女のVR中毒はより一層悪くなっていく一方だが、そのような悪い形で倫理的な折り合いがつく瞬間がある。「労働=成長」観を小説が愚直に取り込んだことが作中世界に錯乱をもたらしたように、排除されるはずの悪い形式を逆利用することが、結果としてよりよい結果をもたらすことになりうる。悪い「労働」を批判しうるのは悪い「労働」自身である。だからこの小説は内容的には「よくある」労働批判ではあるものの、作品の形式によってそこから逸脱することに成功している。「わたし」が殺した掃除人の名前が「グッドニュース」であることも、ゆえに必然である。「わたし」というバッドニュースが「グッドニュース」に成り代わることで、小説は初めて駆動するのである。

 

 

舞城王太郎『ベルゼバビブベボ』

 とつぜん身体の中に蝿が入り込んだ安和。夫や医師の心配をよそに、蝿は、鈴、チョロQ、iPhone……とどんどん変わっていく。そして入り込んだ「不思議」なものはどんどん巨大になっていく。

「あー」とか「えー」とかのような間投詞を混じえた会話の応酬は文章に軽い印象を与えているが、その軽く見える会話のなかにベテランの技が光っていた。

「……おっしゃる通りだけど、これが安和ちゃんの肩に害があることはその通りでしょ?」

「確かにストレスだよ?でも私、海の不安を受け流すことのほうがよっぽど重たいんだけど」

「ええ……?」

「心配してくれるのはありがたいよ。そういつも言ってるよね?でも毎回これはただの不思議な現象なんだからって言い続けるのも負担だよ」

「それはごめんだけど……」

「だけど何さ」

「え?」

「だけど、何?」

「……」

「心配しちゃうのは仕方がないって思ってるんでしょ?そして私もそのことを指摘してるの(後略)」

「不思議なものだから」という理由で病院に行くことを渋る安和の「不思議」さは、夫である海との会話で浮き彫りになる。ほとんど情景を示さず会話の応酬で展開される小説は、「不思議」さを言葉によって解決する方向ではなく、むしろそれをそのままにしようとする方向に向かっていく。テンポの小気味いい会話は微妙にかみ合わないが、その噛み合わなさは夫婦のすれ違いではなく、むしろ親密さを深めることに寄与する。その意味で「不思議なもの」は二人の「媒介」として機能する。安和と海の思考の立脚点の違いを、この小説はうまく書き分けることに成功していた。だから、全体としては軽い印象を与えながらも、二人の会話には一つの結論に至ることを巧妙に避けようとする点で広がりを感じられた。「次の不思議ではもっと上手くやってみせる」という〆の文章も好みだった。

 

 

◎文學界

村司侑『ソリティアおじさんがいた頃』

 昔上司だった「ソリティアおじさん」の訃報と葬式への参列をきっかけに、無職の恋人との関係を終わらせることにした味噌会社勤務の女性古井瀬の生活を、「わたし」という言葉を用いない一人称視点で描いた小説。

 ソリティアおじさんというパワーワードはいやおうなしに人を惹きつける。ましてそれが自分の近くにいたらなおさらである。古井瀬はソリティアおじさんたる黒野田とは職場でそれほど深いかかわりがあったわけではない。だからこそ黒野田の不意の死をきっかけに「視界に入るたびに仕事せえよ」と思ってしまいながらも「いざというときには助けてくれた」黒野田のことを知りたいと考える。「黒野田さん、何があったんやろ」。とうぜん読者も「かつては有能おじさん」だったソリティアおじさんの過去を知りたくなる。なぜひとはソリティアおじさんになるのか。境目があるのか。だが「ソリティアおじさんがいた頃」の真実を示す道を古井瀬(と読者)が戻ることは、ない。

 黒野田の訃報を職場で聞き、葬式に行き、風邪をひき、家でソリティアをして、恋人の海史と別れることを決めるまでの間、古井瀬は黒野田のことをずっと考え続けている。だが古井瀬は亡くなった黒野田と特別な因縁があったわけではない。過去の探索を通じて、いまを生きる人間に死者がなんらかの意味をもたらす。そうした物語を、ソリティアおじさんは古井瀬(と読者)に与えない。自室でソリティアをやってみた古井瀬が思うのは、「ある意味ソリティアおじさんはすごい。それ以外のことは、けっきょくなにもわからない」ということだけだ。では、「ソリティアおじさんがいた頃」とはなんだったのか? それは古井瀬が生きる生活という現在に宿っている。

 故人を見送り、恋人と別れるという喪失が相次いで起こりながらも、小説全体は心地よさに満ちている。その心地よさが、古井瀬の品のいい京都弁から来ていることは言うまでもない。「それくらいでああならはって、まあそれでもなんとかならはったかもしれへんけど、うちの海史は、それやと困んねんなあ」。こたつを「おこた」と呼んだり、黒野田の葬式に参加することを拒む海史に「なんそれ、あかんやん」と言ったりする。黒野田とそんなに深く関わりがあったわけではなかったのに「どんな人生だったんだろう」と繰り返し自問自答する古井瀬の真摯さと相まって、京都弁は小説全体に風通しのよさをもたらしている。だが話はそこにとどまらない。風は、古井瀬の語りの現在時点から吹いているのだ。

 視線を上げる。眼の奥のほうがかすかに痛む。階段が終わっていて、蛍光灯でびっしりのコンビニが煌々と明るい。歩道は誰も歩いていない。車道の端に個人タクシーが客待ちか休憩かで停まっている。向こうの車線をバスが走っていく。それを風が追う。冷た。風に背中を向ける。ハンドバッグを左手首にかけてスマホを出し、それも左手に持たせる。空いた右手をぐーぱーする。かじかむ指で地図アプリのアイコンに触れる。ぐーぱー。履歴から斎場の名前に触れる。経路検索、徒歩十分。ぐーぱー。その場で一周半回って、歩き出す。

 ラーメン屋さん、ホルモン焼肉屋さん、楽器屋さん、みんなそれぞれ光っている。地図アプリに従って、明るい通りから、広いけど落ち着いた通りに曲がる。だんだん住宅地に入っていく。だんだん暗くなっていく。本日終了の理髪店、郵便局、お寺さん、公園、学校、マンション、マンション。その隙間から風が吹き出す。こんな寒いところによう住まはるわ。歩きながら見上げると、温かに光る窓とまだ暗い窓とが不規則に入り混じって、半々くらい。その向こうの黒い空に星は見えない。歩く。大きな日本家屋のお屋敷、マンション、マンション、斎場。

 歩道沿いのガラスの壁面から白い光が柔らかく透けている。純白のシェードがかかっていて中は見えない。またちょっと見上げて、二階から上は窓が少ないなと思う。スマホの時間を見てその手でスリープにする。ふと立ち止まり、電源を切ってハンドバッグに収める。遠かった。やっと着いた、と思うと、胸が詰まる。ここに、きょうはここに、黒野田さんがいる。会いに来た。お別れに来た。静かに足を進め、自動ドアの前に立つ。透明のガラス扉がそっと開く。本当に入っていいものかと一瞬思う。一歩ずつ入る。空調が暖かい。ほうっとする。入口の脇に立って、窓を覆う半透明なシェードを眺めながらコートを脱ぐ。肩が少し軽くなる。簡単にたたんで肘にかける。ずっと少しずつ肩に力が入っていたことに気がつく。背筋をしゃんと伸ばして息をする。かすかに花の香りがする。天国だ。柔和な照明の天国は広くてがらんとしている。奥のエレベーターまでずいぶん遠いが、そこまでカーペットが広がっているだけだ。右手のほうに階段もあるようだけど、さらに遠い。左の奥のほうには大窓の際にふたり掛けのソファが二脚、斜めに向かい合って小さな丸テーブルを囲んでいる。ソファもテーブルも保護色のように白っぽくて、なお遠く見える。それらをパーティション代わりの背の高い観葉植物が守っている。その談話コーナー的なスペースにだれもいない。

 目についたもの、触れたもの、感じたもの。仮にソリティアおじさんの過去を掘り下げることが目的であれば、斎場にたどり着くまでの過程などいの一番に省かれるであろう。知りたいのは過去なのだから。それでもなお古井瀬は目についたものを次々と語っていくし、自分の動作一つ一つを細かく分けて示さずにはいられない。読者が追いかけることになるのは、古井瀬が触れるこの世界の過ぎゆく姿である。現在時の感覚を丹念に拾い上げようとする丁寧さがあるがゆえに、古井瀬はまさにいまこのとき黒野田への思いを語ることができるのである。「ここに、黒野田さんがいる」。そして「わたし」はいない。

 引用文だけでなく、作中全体で古井瀬は「わたし」という語を用いていない。こまごまと情景と動作を描きながら、小説全体をなめらかに読み進めることができるのは「わたしは」という語を省略しているからである。その代わりに挿入されているのがわたしの京都弁である。どんどん過ぎ去っていく外界の隙間から不意に現れ、また引っ込んでいくわたしの声。その声はもうこの世にいない黒野田に向けられる。移り変わっていく光景の中で、古井瀬はたえず黒野田のことを思う。そうしたところで黒野田のことを「わかりようがない」としても、ソリティアおじさんは「いる」。だから、空間と動作に満ちた現在時を貫いていく京都弁で黒野田に呼びかけることをやめない古井瀬が、「現状維持」とはまるで無縁な人間であることは言うまでもない。

 どうしようもないっててじっとしているのは、現状維持、別れないを選んでいるってことになるか。なるのか。海史の仕事がすぐ決まれば、たぶんそれでもいいかもしれないけど、そんなすぐには決まらない。本人にそんなにやる気がなさそうだし。それで、本当に現状維持でいいのか? このままの状態でふたり暮らしは不安がある。少なくとも、子供とか、たまの旅行とか。諦めないといけないものはいくつかありそう。それが惜しいのか、欲しいのか、自分でもよくわからなくなるけど、あきらめること自体ががっかりで、手詰まり。戻す。マウスを連打して戻す。

 無職のまま自宅で将棋ゲームに勤しむ海史が「かっこようない」のは、語りを停滞させることを知らない古井瀬から見れば当然のことである。「別れんでも、別れても。手詰まり」だとしたら、動く方を選ぶ。そもそも「戻る」という行為が古井瀬にそぐわないから、ソリティアを「そんなずっとは続けられない」し、ソリティアおじさんの過去に迫ることもできないのである。物語を過去のたったひとつの回答に収斂させず、いまある空間の広がりとの語り手の一瞬ごとの接触によって語りを進めていく態度は非ソリティア的であり、それはこの小説の明確な美点である。

 わたしだったらソリティアおじさんというおもしろワードを確実にこすり倒してしまう。だが本作はそこに対しては禁欲的である。そこでソリティアおじさんイジリに走らないやさしさが、小説全体にあたたかさを与えている。受賞も納得の出来だった。

 

沼田真佑『ダーティー・オールド・マン』

 ALSに罹患し、死に場所を求める元歯科医の老人。これまで出会ってきた「まゆみ」に思いをはせながら彷徨する果てに、ジェットコースターに乗ってもまったく動揺の色を見せない「まゆみ」と出会う。

 わりと変態めでありながら、樹海を「いやはや雄渾、かつ緻密!」と楽しんでみせる老人にはどことなく愛嬌を感じる。この小説は三人称であるかのように見えてじっさいは一人称だ。三人称に見えるのは、「である」調の俯瞰的な記述を採用しているからだが、その文末表現の採用により作品全体が諧謔的になっている。「である」という文末はギャグを書くのに向いている。作中の視点人物に対して、文章が距離を取ることができるからである。

それを聞いて、おお、マルガレーテ、何を粗食に甘んじているのだと胸苦しくなり、思わずこうべを垂れた。貧しき団地妻がこつこつ貯めたへそくりで現実逃避をと勇み立ったとて、無残や跳びこむべき男の胸もなく、代わりに絶叫マシンに身をあずける。健気なものだといじましく思うのであった。

 一文目は明白に老人の感情が示されているが、二文目は「絶叫マシンに身をあずける。健気なものだ」ではない。「思うのであった」と一つ余計なレイヤーが重ねられている。このレイヤーが、語りを老人の視線に寄せすぎないためのブレーキになっている。つまりどちらの文も一人称の表現ではあるが、視点の置き方は分裂している。その分裂に依拠して老人の行動と仕草を語ることでユーモアが担保されている。「である」というメタ視点を用いることが、疑似的な「ツッコミ」の距離感を保つことにつながっている。

 同名の人間に欲情する様はもう少し読みたかった気もするが、くすりと笑える感じのある小説だった。

 

沓乃よう『ドロップ』

 「忌憚なく言いたいことを言い合」う「女子会」を監督する高校教師。その目の前に90年前の戦争下の女生徒の幻影らしきものが現れる。

 「佐藤蓮君、彼の彼女には誰がふさわしいか」。想定外の流れに進んでいく女子会と、それを聞きながらドロップを口にする教師という序盤の場面提示には非常に期待感を持てた。ところが小説はそのあと女子会とドロップを舐める展開を放棄する。場面場面の情景はビビッドだし、特に女子会での会話の応酬は非常に生彩でおもしろい。なので女子会と女生徒との対話のつながりをいまいち感じられなかったことが非常にもったいなた。特にドロップを砕く感触は小説全体に通底してほしかった。個人的には女子会の枠組みのなかで女生徒と出会っていてほしかった。

 

仲白針平『ビスマルキア・ノビリス』

 東京から地方に渡り小さな園芸店で働くことになった男が、マダダスカル原産の植物ビスマルキア・ノビリスを一向に受け取らず、連絡すらよこさない注文者エリシア・Мを探し求める。

 東京よりはゆるやかな雰囲気の町の雰囲気はとても強く感じられる。「覚悟だとかね、そう言った重荷になるようなものは、東京駅のごみ箱かどっかに捨ててきてください」と言う漆職人の主人や、妙に距離感の近い弟子の酒井など、周囲の人物の存在も町の穏やかさを引き出している。

 しかしそうした雰囲気の中では、エリシア・Мの捜索をサスペンスフルにすることは難しい。エリシア・Мという名は、男の園芸店の顧客の中では目立つ名前のはずだが、小説はエリシア・Мをひたすら無名の存在として扱っている。その無名性を強調できるほど、男はエリシア・Мを本気で探しているとはいえない。

 園芸店がゾス系で死ぬ気で顧客を探さなければならなかったり、エリシア・Мの関係者を名乗る人物から相次いで連絡がかかってきたり。エリシア・Мの無名性は、たとえばこうした強制力があってこそ浮き出るはずである。だが、そうしたサスペンスを演出するには町の雰囲気がゆるすぎる。だから再三強調されるエリシア・Мの無名性への驚きを、男と同じように感じ取ることがどうしてもできなかった。この小説のタイトルが「エリシア・М」ではなく「ビスマルキア・ノビリス」であるからには、ビスマルキア・ノビリスの「遅れると危険。急がれたし」の警句がもう少し全体に響いていたほうがよかったのではないかと感じた。

 

◎文藝

図野象『空洞』

 知り合いの死をきっかけに突発的に仕事を辞め、ハロワで職員とやりあい、久しぶりに会ったゼミの友人の財布を盗もうとし、付き合っていた彼女に殺されかけ、首輪で飼われることになる虚無的な男の話。

 いままでよく問題なくやってこれたな? と思うほどの男の破綻っぷりと、それに伴う周囲の放浪されっぷりが面白かった。まじで災害。自己都合で会社をやめたにもかかわらず、総務部の社員に喚き散らして無理やり自己都合を会社都合に書き換えてしまうパワーもすさまじい。タイトル通り好きなものもなにもない人間で、人に合わせて会話をしているときの情報のゼロさも面白いのだが、それに見合わないくらい生き汚いところと、いちいちいらんことを言ってしまうのがこいつの特徴である。そのいらんことこそ男の本質的な認識を示しているのだが、それは他者には到底理解のしがたいものである。

 

俺と彼とはなにもなかった。そしてそれは俺と君たちにおいても同様だ。君たちが結婚式にみんなを呼びたいと思うことも、こうして俺と会うことも、彼が死んだからだ。

 

俺の家に、恋人がいて、その恋人に荷物が届いたというだけで、決して俺は恋人ではない。その名前が恋人の者であったなら、君も納得できるだろう。もちろんそれは君の意味するところの恋人の名前ではない。ただ、実際、恋人の名前ではあるのだ。とにかく書かれている住所を見てほしい。それが示しているのは間違いなくこの部屋なのだ。つまるところそれはこの家にいる恋人に宛てられたものなのだ。

(中略)

あなたの恋人の名前はこれ(引用者注:間違って届けられた荷物に書かれた名前)なのか、と何度もそう叫ぶので、もうなんとも説明しがたく、またなんの意味もない名前というものにうんざりしながら、そうだ、といった。

 名前には意味がないと思っているから、男は他人との思い出をほとんど語れない。同時に、自分の中の思い出もない。それがゆえに男は固有名詞を一切語れない。一度だけ「ドンキ」という固有名詞が出てくるが、それが出てくるのは恋人のセリフの中である。だから過去の記憶も「俺ではない誰かの記憶」にしか見えない。

 

俺はもう誰にも名前を読んでほしくはなかった。そもそもこれまで俺という個を誰かに確保してほしいと思ったことは一度もなかった。

 そのような人間にもかかわらず、生きることには妙に必死であることが男の災害性をことさら強めているのだ。

 この男に首輪をつけ、飼うことを決めた女は多弁で激情型である。あえて言えば、女は男にベタぼれである。男の意味不明な発言に激烈に反応して作品のボルテージを高めてくれるという点で、二人は相性がいいと言える。じっさいにいいかどうかはわからない。男が暴力に対して恐ろしく受動的で、「うずくまって小さくなっ」てしまうのも、女にとっては不幸なことである。

 

小泉綾子『私の獲物が、』

 政治家の娘として育ち自らを「ワイ」と呼称する那美。那美は衆議院議員浜田文夫の秘書を勤める芳雄と結婚し子供を産むが、その子の名前を浜田と芳雄に勝手に決められてしまう。

 

 『空洞』とは対照的に固有名詞を使い放題だし主人公の自我が強すぎだった。なにより一人称が「ワイ」でありなんJ民を想像せざるを得ない。『ソリティアおじさん』とは異なりこちらの関西弁はひたすら品がない。でもそのおかげでドライブ感は半端ない。

 

 文才とは何か、自分自身に問う。ワイにはかつて文才があったのかもしれない。だけど高校生以来、真剣に向き合ってこなかった。そんな自分が憎い。どうすればいい。うるせえそんなことどうでもいい。文章なんか、気持ちの高まるままに、好きに書くだけやろがい。国民、こっちを向け! ワイの魂の叫びを聞きやがれ!

「やろがい」という文末表現、個人的にはかなり小説で使いたいなと思った。可能性を感じる。

「ワイ」という一人称が喚起するがさつさが、口語的な一人称の文章のテンションを盛り立てている。口語によって描写や説明をすっとばしている個所がところどころあって、リーダビリティは非常に高い。しかも那美は男たちにブチぎれ続けているから、感情の浮き沈みも激しい。長さのわりにガンガン読み進められた。

 一方で、私欲にまみれる腹立たしいクソ男たちの女性への無理解という怒りと、それを原動力として男たちを成敗するというストーリーライン自体は、突飛なものではなかった。「ワイ」のキャラクターの強さが小説をドライブさせているので面白く読めたのだが、那美が議員のツイッター運用を任された時点で、浜田議員のツイッターがひどいことになることははっきり言って明らかだった。この小説ではずっと「那美」だけが主役になっていて、それは作品の機動力を高めることに貢献している反面、作中の世界を狭める結果にもなってしまっていた。たとえば女性議員に対して、那美はなにを感じるのだろうか。共闘したいと思うのか。マウント取られてキレるのか。それを知りたかった。

 ここからは余談。大事な議員のツイッター運用を那美に頼んでおいて、その夫をクビにしたせいで那美に復讐の動機づけを与えてしまった梅原はあまりにもあほすぎる気がしたが、それは自民党の人間なんてだいたいこんなもんやろ、ということを暗に示してるのかなと思った。また、芳雄が「阿部和重のファン」であると描写が出てくるが、阿部和重ファンボーイのわたしは阿部和重という名前が出てきたことにびっくりしてバカ笑いしてしまった。神町トリロジーでは、国会議事堂が地下に埋められたスーツケース型の爆弾によって崩壊する。阿部和重のほのめかしは、国会議員なんか爆発しちまえという意志の表れなのだろうと納得しかけたが、これは考察の皮をかぶったこじつけだなという疑問をぬぐえない。

 

◎新潮

堀江敏幸『春眠』

 事務所での静かなひと時の中で、父とその友人たちの記憶が思い出されながら、ガリ版刷りに「春眠暁を覚えず」の一節を記した父のエピソードが語られる。

 ほぼ短編で、あらすじはだいたい上のようなものとなる。エピソードベースでいうと特異な事件が起こっているわけではないのだが、書かれているものの密度はいちばん濃い。

 新潮の紙面上で10ページしかないのに、登場人物が8人も出てくる。この時点でかなりすごいのだが、よりすごいのはそれぞれの人物像が短い中でしっかり浮かび上がってくることだ。わずかな文章のうちに人物の関係性が密に書き込まれている。

 

ひとつひとつの仕事の出来映えよりも、いつかのように市から表象されたことのほうが価値は上だと見なしているふしがある。もちろんそれも承知で、父は名波さんとつきあっているのだった。あんな男に的外れな評価をされたら逆に落ち込むなどとわたしに言う。本人にも言う。名波さんも怒るどころか、あたりまえだ、おれに理解されて喜んだやつはひとりもいないと返す。でもこれは大人になっていろんな苦労を経てきたあとの境地ではないか。名波少年のまわりとの距離の取り方がどうだったのか、冗談交じりにでも聞いてみたい。

 ここだけで父と名波さんと語り手(陽子)の関係性がわかる。しかも、それが読者側に親近感を持てる形で示されている。「ひとつひとつの~返す」まではまだ思いつく余地があるが、「でもこれは~冗談交じりにでも聞いてみたい」は書けない。一つのブロックのエピソードのまとめかたを少しずらすことで、その文の塊全体の意味の重心を移動させている。ワンパラグラフのまとめ方をリニアにしない(かといって大きく逸脱もしない)ことが余韻を生み出している。

 全体としては平易な文章で構成されながら、ここぞという部分でレトリックが用いられる。それは、作中で用いられる一般名詞を言葉の問題の領域に置き換える形でなされている。

 

圭子さんが先生と言うときの表情や声の感じには、なつかしさよりも中学生の女の子が見せるような初々しさに近いものがあった。岩雄さんからの口伝だけでこんなに豊かな細部が再現できるはずはない。この職場で粉飾という言葉はよい意味に用いられないけれど、そこにはどうしても必要不可欠な粉飾がほどこされていた。圭子さんは先生と何度も話し、岩雄さんのことを話題にしながら、鉄筆や謄写版やローラーではなく、それを動かしているひとのほうを見つめていたのかもしれない。

 

 これが過剰化すると重たくなるが、さらっと出して文章全体の生活感の中に溶け込ませて見せるところが巧みだった。日常の生活にそっとレトリックを差し出して見せる配分の妙も心地よさを作り出す遠因ではないかと感じる。登場人物たちは作品が始まる前も終わった後も生活を続けていて、たまたまその一部が切り取られているに過ぎない。という印象を(「一段落したところで椅子の背にもたれて顔をあおむけ」という書き出しも相まって)受けた。

 

平野啓一郎『決定的瞬間 The Decisive Moment』

 故人となった写真家賢木の回顧展を開くことを自らの夢としていたキュレーター水巻。だが賢木の遺品の中にある「決定的瞬間」を捉えた写真の存在により、回顧展は中止に追い込まれる。賢木と個人的に親交のあった水巻は、そのただなかで事態の顛末を記録する。

 水巻の視点から一連の事態の経過が記述されるほかに、賢木の過去のインタビューや写真論などが断片的につなぎ合わされ、小説全体がモンタージュのような体裁になっている。それは、「水巻が事態を記録している」という作中の前提に基づいている。

 作中の「決定的瞬間」を収めた写真は端的に「気持ち悪い」ものである。だが、水巻は展覧会が中止となり、賢木が「写真史から抹殺される」ことは防ぎたいと考えている。その葛藤が全体を貫いている。水巻と関係を切ることになる賢木の息子達夫は他の写真を焼却する愚行を犯すが、「内々に処分して何が悪いのか?」という問いに水巻は反論することができない。達夫という「敵」側の放つ正論は作品が問う倫理的問い(芸術作品は、芸術家に倫理的問題が浮上したとき、キャンセルされるべきなのか?)を補強している。あまり「アップデート」されていないようにみえる達夫の人物造形は効果的に機能している。

 作中の多くを占める引用は、賢木の「決定的瞬間」とは果たして何だったのかを水巻が考えるためになされたものであると同時に、読者にも思考するための材料を与えるためのものとなっている。

 

出来事の全体を通じて、私自身が何を考え、感じていたのか。そこに、直接には関係のない私生活のどんな要素が紛れ込んでいたのか。あとになって、一番、曖昧になり、都合よく歪められてしまうのは、そういうことだろう。

 

「公開できない覚書」と「使用されなかった『開催概要』。公には示されることのない断片。作品全体が断片で構成されているのはそれが「出来事の全体」を示すものではないことの証左である。全体としては賛否の視点併せて目配せが利いていてよかったと思う一方で、断片の中に挟まれる引用文についてはあまり意表を突かれるようなものがなかった。この主題において意表を突く必要はないといえばないし、実際に引用を行っている主体は水巻なので仕方ないのだが、なんとなく引用されている文章に偏りがあり、それが作品の着地点の方向を強引に定めてしまっているきらいがあった。

 

古川真人『いまさら』

 半年に一度ペースで集まっている笹塚と柿本と養母田。養母田の不参加の連絡をきっかけに、なあなあになっていた三人の関係の中の濁りが、「いまさら」になってほじくり出されかける。

 ほぼ会話劇のような形で構成されている。しかも、地の文でそれぞれの人物の考えを補足ないし推測する文章が挟まれるので、ひたすら三人の人間関係についてのこじれについての記録(しかも会話が続くごとにその関係はころころ変わる)を読者は延々読んでいくことになる。

 だが、ここでは三人組の関係であることを利用して物語に起伏が与えられている。笹塚は、柿本と養母田それぞれの話の聞き役として振る舞っていた、だから、笹塚が柿本と養母田の二人からはどう思われているかについてはブラックボックスとなっている。最後の場面では、柿本と養母田が笹塚の悪口を言って意気投合する。それにより三人の関係に修復不可能な亀裂が入ることは回避される。作中の視点人物が笹塚であることを利用した叙述トリックじみた操作がストーリーのコアとなっている。これが見え見えだった人にとっては微妙だったかもしれないが、わたしはふつうに騙されたので読後感はそれなりによかった。

 

松浦寿輝『A Day in the Life』

 おでん屋のカウンターで政治談議に花を咲かせながら、「何の変哲もない、平凡な一日一日」をめぐる問答を行う二人の男の話。

 なんというか……あまりチャレンジ精神を感じなかった。

 

◎すばる

岩川ありさ『軽めの重荷』

 山荘で児童に性的虐待を行う「先生」のもとに年下の少年かなたを「荷物」として運ぶ康太。彼もまた「先生」の行為の犠牲者だった。「先生」の犯罪は露見したが、十年後の康太はカウンセリングを受けながら自分の行為について苦悶し続けている。

「~した」という文末を連続して使用し、周囲の情景と行為が淡々と叙述されることで、小説全体に息苦しさがまとわりついている。一人称の文章の中で、康太の心内語がほとんど書かれないことも文章の閉塞感を強める結果となっている。「先生」に虐待された被害者である康太は、その「先生」に次の犠牲者を提供する加害者でもある。康太はその罪の意識にさいなまれ続ける。その二重性は罪人(わたし)とルビとして表現されると同時に、「荷物」の二重性としても表現される。荷物は傷であるとともに、罪の証でもある。

 康太が「生きて償う」ことを決め、「みんな、春になって花が咲いたら、見つけてあげるからね」と地の文で自分の言葉を発したことで、小説にはようやく「軽さ」が生まれる。康太とかなたはそうして前に進むのだが、いちばん印象に残ったのは「傍観者」に「あなた」とルビがふられていた点だった。

 小説において読者たる「あなた」は「傍観者」足らざるを得ない。だからこの小説を読むことで全員がその関係の中にいやおうなしに巻き込まれる。ずっと虚構の中で完結していた二重性は、突如として現実に向けられる。フィクション内では、康太とかなたは二人だけで自らの解放に至る。「あなた」が介在する余地はない。康太が二重性の枷を外すことができたのと同様に、小説は読者にもその枷を解放せよと虚構を越えて訴えかけている。その点でこの小説は「挑発的」だった。

 

小林エリカ『マタタビと共に去りぬ』

 猫の視点で、2011年からいままでの日本社会を風刺的に捉えた小説。「マタタビの町」は猫にとっては自由な解放区だが、そこは放射線の光に満ちている。猫たちは、「影」となって人間たちを操り巨大な「マタタビの国」を建国する壮大な革命計画を企てる。

 猫にファクトを語らせることで人間社会の相対化を図るという試みのために、この小説では膨大なニュース記事を引用している。その資料集めをする丁寧な姿勢がとてもいいと思った。が、5章にあたる「楽園」の章で引用は行われなくなる。それはこれ以降猫たちによる人間支配という巨大な「陰謀」が語られるからだが、むしろここにこそなにかしらの引用が行われるべきである。猫の人間支配にファクトが混ざってこそ、その夢は現実に近づくはずだからだ。ちゃおちゅーるのCMが催眠装置になっているみたいな「ファクト」でもいいから、とにかく現実に根差した情報があったほうがよかった。1~4章までで積極的になされていた引用が急に途切れてしまうことで、作品の虚構性がことさらに強められる結果となってしまっていた。自民党政権より猫が支配したほうがいいに決まっているわけなので、猫たちの「影」を虚構ではなく別の現実として思考できるような仕掛けがあったらたぶん絶賛してたなと思った。

 

◎まとめ

 思っていたより大変だった。

 

 

書く上での条件は下記に記載しています。

www.sogai.net