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〈非文学〉=ノン・フィクションへの入口——仲俣暁生『ドーナツと双眼鏡』書評

「本好き」と言ったとき、多くの人にその「本」としてまず最初に想像されるのは小説であるだろう。実際、書店の棚を見てみたり、「出版指標」の統計を見たりすると、この国の出版物に占める小説などのフィクション類の割合は思いのほか高い。

 フィクションではない、という意味では「ノンフィクション」というジャンルがある。だが、こと日本において、「ノンフィクション」とは政治史に関わる裏側やフィクサーを追ったものや、労働や介護などの社会的テーマを取材したルポルタージュを中心とした「ノンフィクション文学」のイメージが強い。書店のノンフィクションの棚も、そのような特定のテーマと、そして特定の作家によって占められている印象だ。大宅壮一ノンフィクション賞や開高健ノンフィクション賞、講談社 本田靖春ノンフィクション賞、小学館ノンフィクション大賞など、大手出版社が主催するノンフィクションの賞の受賞作の並びを見れば、出版業界におけるノンフィクションのおおよその枠組みは見て取れる。

「ノンフィクション文学」という名称からも分かるように、それは「ノン・フィクション」という文字面とは裏腹に「文学」、すなわちフィクション的なものの影響下にある。フィクション中心主義の価値観でふんわりと覆われているのが、日本の出版事情であるとも言えよう(故に、自己啓発本やビジネス本を読むことが読書であるのかそうではないのか、といった議論が大真面目に語られるのかもしれない)。

 ルポルタージュももちろん良い。だが、世の中にはもっと多様な「ノン・フィクション=小説ではない」本がある。「狭い意味での『ノンフィクション文学』からはむしろ距離を置き、『小説(フィクション)以外』であれば、科学エッセイも文芸的なエッセイも、人物評伝・作家論も、堅い研究書も柔らかめの新書」までを対象にした書評を53本収録した仲俣暁生『ドーナツと双眼鏡 短い書評コレクション③(ノンフィクション篇)』(破船房、2026年)は、そのような本についてのガイドブックとして有用なもののひとつになるだろう。

『婦人公論』の書評欄を中心に、雑誌や新聞、通信社に求められて寄せたおよそ20年分のアーカイブということもあり、そこには時間の幅もある。目次を眺めると、読んだことのあるものは数冊で、書名だけ知っているものを含めても大差はない。世の中にはこんなにも色々な本があるのだ、と改めて思い知る。

 収録された書評を通読して感じるのは、フィクションの書評と比べたとき、作者についての言及がより評の軸となっていることだ。あえて単純化するが、現実を下敷きとしていたとしてもそこに新たに一つの世界を作るフィクションに対し、そこにある現実を書くノンフィクションの方が、それをどの立場からどのように切り取って描くかという属人性を強く出さざるを得ない。でなければ、単なる記録になる。生成AIによる執筆の是非が取り沙汰される昨今だが、少なくともノンフィクションにおいては、誰が書いたかを切り離して論じることがまだまだ難しいように思われる。

 白状すると、ここ数年、文学作品を読むことにしんどさを覚えることが増えている。まずはその世界に入り込まなくてはならないフィクションは、やっぱり疲れる。これが映画や漫画などのビジュアルがあるものであればまだすんなりと入れるが、小説はそれを自分で作るところから始めねばならない。細々と読むのにあまり向いていない表現媒体だともずっと思っている。人は小説を読もうと思うから「本」が読めなくなるのではないか、という仮説すら立ててみたくなる。

 上記のため息には、想像力の欠如、あるいはそれを駆動させる意欲の低下を指摘されるかもしれない。それがまったく間違っているとは言わないが、しかし同時に、最近はあまりにも想像力を神聖視しているような風潮を感じてもいる。文学者が謳う想像力の重要性について、理解はできるが、どこかふわふわしていて諸手を挙げて賛成はできないでいたことは否めない。昨今持て囃されているエンパシー論にいまいち乗れないのも同様だ。

 そのとき、元は詩を書いていたがのちにノンフィクション作家に転向し、女子プロレスを取材した『プロレス少女伝説』や、「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」を取材した『同性愛者たち』を著した井田真木子の著作集に対する本書の評の一節が目に留まった。

 十代の終わりにすでに早熟な詩人だった井田は、三十代にノンフィクション作家に転じた後も個の尊厳というモチーフを手放さなかった。ただし、ともすれば崩れがちな個を支えるのは文学的な想像力よりも事実への直視であるとひとたび信じた後は、〈非文学〉(ルビ・ノンフィクション)への忠誠をまっとうした。(67頁)

 事実への直視——。文学的な想像力は、まずそこに根を張る必要がある。これもまた本書に収録されている千野帽子『物語は人生を救うのか』評で取りあげられていることだが、物語の持つ力、人が物語を求めるときに起きていることを考えたい。物語る行為はしばしば、分かりやすい因果関係を引き寄せる。そこには落とし穴もある。

 自分の人生がうまく行っていないと感じるとき、人は特定の物語に囚われているだけかもしれない。より幸福に生きるために必要なのは、その物語の前提を疑い、編み直すことなのだろう。(49頁)

 もちろん、ノンフィクションの作品もまた物語る行為から逃れることはできない。故に、ノンフィクションがフィクションよりも優れている、などと言う気もない。そもそも大前提として、人は各々、好きな本を、好きなときに、好きなように読んだり読まなかったりすればいい、と思っている。

 だが、本とは必ずしもフィクションばかりではなく、そして、それはフィクションと切り離されたものではない、ということは、頭の片隅に置いておいても良いだろう。「読書」を、読むものをはじめ、読み方やその態度、動機や目的によってあまり厳密に定義しすぎない方が良い。それは自分自身で、数ある本へのチャンネルを閉ざすことに繫がりかねない。

 最後に、本書を、その姉妹編である『栞と羅針盤 短い書評コレクション①(国内小説篇)』と『錨と抽斗 短い書評コレクション②(海外小説篇)』を読み比べて感じたことなのだが、プレビューではなくレビューとしての書評においては、フィクションよりもノンフィクションの方が取っつきやすいのかもしれない。ノンフィクションはテーマがはっきりしているし、いわゆるネタバレをさほど気にする必要もない。フィクションを論じる上で最も厄介なものといってもいいあらすじも、ノンフィクションの方が明快であることが多い。

 読む方面だけでなく書く方面についても、もし書評的な文章を練習するのであればフィクション作品ではない方が良いのではないか。そんなことも思った次第である。

(矢馬)

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