2026年8月
底は脱したとはいえ、ここ数年続く心身のちぐはぐな状態がなくなったわけではない。やる気はあるはずなのに、いざ動こうとすると途端に萎える。そんななかでもいま、時間的にさほど猶予のない案件をいくつか抱えている。客観的にみて、本来ならばこの記録を書いている場合ではないのかもしれない。
だが、8月も最後の週となったところで、若干ではあるが光明が見えた。というのも、ちょっとした身体的疲労から思いがけず、久しぶりに日付が変わる前に就寝したのだ。日頃より2時間ほど長い8時間近い睡眠から目覚めると、慣れないことに身体がびっくりしたのか幾分かの怠さはあったのだが、しばらくしてベッドから出て動き始めると、頭がすっきりしていることに気付いた。ここ最近はすぐに船を漕ぎ始めていた朝の通勤電車での読書もそれなりにできた。もしかして、と3日間、いつもより1、2時間程度早く目をつぶる生活を続けた。なんとなく気分が良い。
最近はどうにも寝付きが悪く、良くて6時間、時には5時間しか寝られてなかった。人にもよるのだろうが、私の場合、これではまったく不足していたらしい。もちろん、これだけのことを1週間足らず続けたところで劇的に変わるわけではない。だが、少なくとも睡眠不足は百害あって一利なし。まずはこれを習慣にしようと思いはじめたところだ。
併せて、自分の体力や気力を削いでいるものはいったいなんなんだろう、と顧みたとき、最初に浮かんだのがSNSだった。やる気が出ないときになんとなく開いてしまい、そこで感情を概ね良くない方向に揺さぶられて、また疲弊する。そんな悪循環を生んでいた。これもまた距離を置いていこう。
——といったところで早速矛盾してしまいそうだが、今月は一つだけ触れておきたい。話そうと思えばいくらでも長くなってしまいそうなので、極力簡潔に。
今年5月、林真理子が『80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間』(幻冬舎新書)という本を出した。72歳の著者が、自分の経験から70代という時間をどのように楽しく生きるかを記した人生論のようなものらしい。
8月11日、テレビ朝日の朝の情報番組「モーニングショー」に林は出演し、この本のことについて語った。たとえば、仕事を辞めて貯金を切り崩すのはまだ早い、と言ったあと、収入は減るかもしれないが、そこでバブル時代に買ったブランド品をこまめに売り、そのお金で欲しいものを買う「新タケノコ生活」なるマネー術を紹介している。
これらのことに豊崎由美が嚙みついた。以下、豊崎のXからの引用。
「林真理子みたいに恵まれてる人間のアドバイスなんて何の役にも立たない。著書のプロモーションに加担するような安易な番組作りに落胆。
働く場所はいくらでもあるから70代になっても働けっていうけど、うちのマンションで清掃の仕事をしているご老体を見せてやりたい。政府の犬か。
#モーニングショー」
「テレビで自著の宣伝をする林真理子。貯金を切り崩さず、かつて買ったブランド品を売れ? その金で新しい服を買え? バーキンがいい値で売れた? そんな内容の本が、リアルな70代に役に立つと本気で思うような貧しい想像力しかないなら、小説家を辞めてしまえ!
#林真理子
#モーニングショー」
「『働く場所はいくらでもあるから働け』って言ったその口で『年をとったら無理するな』と言い、『自分も資料を読むのが辛くなったから、もうそういう大変な小説は書かない(大意)』と展開させる、こんな頭の鈍い人間の本なんて、皆さん、読んじゃダメですよ!
#林真理子」
ハッシュタグまでつけて、かなりの舌鋒である。
無論、批判するのは自由だが、だとしてもさすがに「こんな頭の鈍い人間」はちょっと言い過ぎだ。言い方というものがある。
林が相も変わらずバブリーなら、こちらもこちらで相変わらず暴言が過ぎる。感情に任せて、不用意に強い言葉を使いすぎだ。けんごの件で反省したと言っていたのは一体なんだったのか、と改めてため息をつかざるを得ない。
だが、本当に驚き、そして呆れさせられたのはここではない。その2日後、上述の「頭の鈍い人間」の投稿を引いた上での発言だ。
「誤解してる方が多いので、念のために書きますが、ここで『読んじゃダメ』と言ってるのは、番組で販促してた70代がどーしたこーしたっていう啓発本のことです。林真理子の作品全般を指してはいません。」
そんなバカな。思わず声が出た。あの発言のどこをどう読めば、そのような解釈になるというのか。
あまりにも信じられなかったので、改めて一連の投稿を見直した。印象は変わらなかった。やはり、林真理子の書いた本は(すべて)読んではいけない、と呼びかけているようにしか読めない。少なくとも、そのような読まれかたを「誤解」であると、しかもそれは「念のため」言うのであり、『80代になる〜』一冊のことを指すと読むのが普通だとは、さすがに言えない。発言の一部を切り取ってそう言うのではない。むしろ全体の文脈を見るからこそ、そう読むのが自然に思える。
これが本心なのか、あるいは、さすがに言い過ぎたと思って日和ったのかは分からない。だがどちらにせよ、自己を(私から見れば相当に無理やり)正当化して、あたかもそれを読み取れない方が悪いかのような言い方をして憚らない書き手を信用するのは難しい。
先月のイベントで直接声を聞き、必ずしもその意見に賛同はしなかったが多少は評価を改めても良いかもと思ったところだったので、余計に裏切られたという思いが強い。そこで語っていた、この出版不況のなか、書評家として自分は良い本を紹介して応援することしかできない、との発言がいまは空々しく私の耳に響く。
また後日、豊崎は過去の高市早苗のXの投稿を引用して「この人、SNSやっちゃダメな人だ」と批判しているが、この点に関してはまったく他人のことを言えないだろう。自分の発言が、どのような人に、どのように受け取られうるのかも考えた上で、もっと慎重になって発信すべきだ。はっきり言ってこれは、文章を生業にしている者として、などという以前の話だ。
もうこんなことで苛々したくない。そのためには多分、ある程度諦めるしかないのだと思う。私はきっと、なんだかんだ期待していた。信じてもらえないかもしれないが、私は別に人を嫌いになりたいわけではない。むしろ良く捉えたい。だが、先日の平野啓一郎しかり、評価を改めてみようと思った途端に裏切られるようなことが続くと、さすがにそれも厳しい。
ここ数年で何度言っているか分からないが、私は明るい話がしたい。
そもそもが、そんなに多くに人に共感してもらいたいという意欲が薄い人間だ。もっと好き勝手にやっていこうと思う。
先月、ノンフィクションについて少し興味が湧いたこと、それと文学系の作品を読む気がまったく起きなかったことがあって、何年か前からなんとなく気になっていた阿部珠樹『神様は返事を書かない スポーツノンフィクション傑作選』(文藝春秋、2023年)を手に取った。2015年に57歳で急逝したスポーツライターが、雑誌「Number」や「優駿」に書いた文章を厳選して集めたものだ。
題材は主に野球と競馬だが、そのほかに相撲やプロレスに陸上、競泳やサッカーも取りあげられている。私はプロレスについてはあまり明るくないが、基本的にスポーツの話は好きなので、気楽に楽しく読むことができた。スポーツに関する文章にはデータ重視の読み物もあるが、私はあまりそちら方面には食指が伸びない。それよりも、人間と、その技術論に結びつく思想の話が好きであり、その点でも私に合っていた。
スポーツジャーナリズムについて言えば、中野慧『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書、2025年)にて、対象を神格化してそのすごさに読者がひれ伏すような描き方をする「Number文学」的なあり方が批判されていたことが記憶に新しい(余談だが、私はこういう副題が好みではない)。
「Number文学」的な作品の問題は、とにかく対象を神格化し、そのすごさに読者がただひれ伏すというかたちで構成されている点にある。(中略)
「Number文学」は、対象を過剰に神格化しドラマティックに見せようという作為が非常に強い。アスリートの「カッコ悪い」等身大の姿はすべてオミット(省略)され、「大人の男」として商品的にコーティングされている。ここには「スポーツジャーナリズム」があるようで、むしろまったく真逆の作用が働いている。
『神様は〜』を読んでいても、中野の言わんとしていることは分からないわけではない。ここで取りあげられているアスリートは必ずしもスターダムをのし上がった人ばかりではないが、確かに、言葉の一つ一つが重く、それを発しているアスリートが、なんだかカッコ良く見えてくる。
もっとも、人物にフォーカスを当てたノンフィクション、あるいは文章なら、スポーツに限らずこのような傾向も昔から多少はあるのではないか。そもそも、ある対象を描いてしまった時点で多かれ少なかれ「神格化」やそれをドラマチックに見せる作為性は不可避的に入り込むものなのではないか、などと思うところもあるのだが、それは措く。その上で、「Number文学」的なものではカッコ悪い等身大の姿がオミットされていると中野は指摘しているが、カッコ良く描くためにはむしろ「カッコ悪い」部分も取りあげることが肝要なのかもしれない、と思った。
本書で特に好きな文章のひとつが「水の重さ 長崎宏子の透明な舞台」だ。
長崎は、小学生で1980年モスクワオリンピックの日本代表(日本はこの大会に不参加なので、本大会に出場はしていない)にも選ばれた平泳ぎの選手だ。順調に記録を残していた長崎だったが、怪我もあり、1984年のロサンゼルスオリンピックでは不本意な結果に終わる。それまではメダル確実などともり立てていたメディアは、途端に冷淡になる。
その後、水泳ではなく語学が目的でアメリカに留学。トレーニングは続けていたものの、「水泳なんて好きじゃない」とこぼすほど心は水泳から離れていたが、クラブの仲間のポジティブな言葉によって、本格的なトレーニングを再開する。
帰国後の代表選考会では当時14歳の西岡由恵に敗れるが、ソウルオリンピックに出場。予選敗退で終わり、水泳から離れて学業に専念することになるが、少しでも泳いでくれたら奨学金を出す、という条件をアメリカの大学側から出されたことでトレーニングを再開する。2カ月で全米選手権2位となり、その勢いで1991年6月の全日本選手権に出場。100、200メートルの両方で2位となり、これを最後に一線を退く。そこまでの、まさに長崎の選手生活を描いた文章だ。
長崎が一躍注目を集めることになった1983年のプレ・オリンピックと最後の試合となった全日本選手権にて、どちらもその日のプールの水が軽くて、透明に感じられたという共通点を示す一方で、最後の試合ではその味を「エビアン」と、15歳のときにはできなかったような形容で表現したが、これについて「もし彼女が、オリンピックだけを目標に、張りつめた糸のような競技生活を今まで続けていたなら、水の味をリアルに形容できるような成熟は訪れていなかったかもしれない」と結ぶところなんかは、あまりにも上手く書きすぎな気もする。
他方、ここに「カッコ悪い」等身大の姿がオミットされているかと言うと、私はそうは言い切れないような気がする。少なくともこの文章においては長崎を神格化はしていないし、むしろ凄く等身大の姿が描かれていると思うのだ。
阿部は、野茂英雄をほぼ唯一の例外として、特定の選手やチームを集中的に書くことがあまりなかったという。同じく「Number」掲載の文章を中心とした石田雄太『イチロー・インタビューズ 完全版』(文春文庫、2026年)は、イチローの若手時代からMLB殿堂入りまでの長い期間を一人のライターが追い続けたものである。
もちろんこれはイチローの性格や話し方も大きく影響しているとは思うのだが、こちらはどちらかと言えば、インタビュイーの言葉を金言として受け取ろうとする姿勢が強く感じられる。
正直なところ、これはスタンスの違いであって基本的には各々が好きな文体を取ればいいと私は思っているが(「Number文学」的なものがいったいどれだけ日本人のスポーツ観の形成に影響を与えているかという点に、そもそもの疑問がある)、ともかく、同じくスポーツに材をとった読み物でも、書く人が変わればこうも違ってくるという当たり前のことに、改めて気付かされた。
今月は小説も読んだ。稲葉真弓『猫に満ちる日』(講談社文芸文庫、2026年)は、年老いて排泄も不自由になった猫との二人の暮らしを描いた、私小説的な連作短篇だ。
「私の猫はとうとう皮の袋になってしまった」という表現はなかなかショッキングだが、しかし「私」が猫に向ける感情は、時に残酷ながら、しかし愛おしさにも満ちている。具体的な地名は出てくる一方で、人間等の名前はまったくと言って良いほど書かれない。かろうじて数回、猫が「ミー」と呼ばれるくらいだ。
「私」は、もう随分と弱って、もう後ろ脚を使って飛び上がることもしなくなった猫を通して、生と死について考える。そこでは「私」は猫にもなる。人間の名前が書かれないのも、そこに理由があるのかもしれない。
人間の老いと、死に向かう時間を、私は幾人かの肉親や知人に重ねてみる。祖母は血の混じった尿に苦しみ、下腹部の痛みを訴えながら死んだ。父方の祖父は、肺をガンに侵され呼吸ができないまま窒息死に近い死を迎えた。父は、動脈瘤が破裂して意識のないまま三日後に死んだ。仕事仲間の友人は肝臓を病み、最後はおびただしい血を吐いて死んだ。みんな死の前は硬い体をしていた。硬直した筋肉を反らせるようにして寝返りを打ち、末期は寝返りも打てないまま死んだ。
その姿と比べると私の猫は柔らかい。耳も足もしっぽも触れれば柔らかくぐにゃぐにゃしている。視線も吸いつくように柔軟で、舌もまた私の指先で生暖かくやさしく動く。父も祖母も、祖父もみな排泄物にまみれて死んだはずだが、なぜか病院という清潔な容器の中に隠されて、においも肉体の柔らかさも私の脳髄の芯の部分には届かなかった。彼らは、肉体という本来は柔らかいはずの器を硬直させたまま死の中に入っていった。なのに私の猫は柔らかいまま、少しずつ死のほうへと近づいていく。(31〜32頁)
そのほか、猫の棺桶になる箱を探しにいくとき、体に比して棺桶が小さすぎて無理やり体を折り曲げた父と、逆にあまりにも大きすぎて収まりが悪かった祖母の記憶が語られるのが印象的だった。
猫は弱まる一方、「私」の記憶も決して軽くはないものが語られるなか、しかし過度に感傷的にはならないぎりぎりのところにある。ああ、佳い小説を読んだ、という印象が残った。川村湊による解説では、「猫」の小説の傑作として、谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』、内田百閒『ノラや』、金井美恵子『タマや』、平出隆『猫の客』、笙野頼子『愛別外猫雑記』の名を挙げている。いくつか読んでいるものがあるが、とりわけ『猫の客』を読み直したくなった。
最近は小説よりも漫画を読んでいるような気がしないでもない。
今月はヤマノエイ『さむわんへるつ』4巻(集英社、2026年)、豊林サカネ『ふたりバス』3巻(小学館、2026年)という、現在連載中の作品のなかでも個人的に一番楽しみにしているものの最新巻が同じ月に刊行された。
『さむわんへるつ』はコマ割りなど、相変わらず漫画が上手い。ジャンプ本誌の掲載順を見ても、今のジャンプの主力になっていることは間違いないようだ。もちろん、それなりの人気が出て然るべき作品だと思いつつ、この作品が不動のトップであるのが、あのジャンプにとって本当に手放しで喜べることなのかどうかはわからない。
学生時代から読んでいる椿いづみ『月刊少女野崎くん』18巻(スクウェア・エニックス、2026年)は、ゆるやかに終わりに向かっている気がする。
想い人の野崎に関することになると狂気的な行動に走る千代ちゃんだが、巻を重ねるごとにとても健気で可愛らしく思えてくる。この空気に毒されているのだろうか。
お盆休みにとある合評会に参加させてもらった。そのちょっとした雑談のなかでなぜか、高津カリノ『WORKING!!』の名前が一瞬出てきた。なんだか懐かしくなり、昔好きだった『WEB版 WORKING!!』全6巻(スクウェア・エニックス、2015〜2017年)を、空き時間に読んでいた。
こういった気軽に読める漫画は良い。私の印象だが、最近の漫画はなかなかプロットが複雑で、難しいものが多いように感じる。もちろんそういった作品を読むこともあるのだが、その手のものは同時にはいくつも読めないし、たとえば次の巻まで半年とか1年開いてしまうと、私なんかは伏線なんてまるで覚えていない。故に、読むなら完結まで待つか、となるのだが、そういう考えでいると大抵、そのときには存在も忘れているのだ。難儀なものである。
今月は2冊、漫画雑誌を買った。「チャンピオンRED」10月号と、「コミック乱」10月号だ。
それぞれに明確に目的があって、前者は『名探偵マーニー』の新作書き下ろし、後者は中村ゆうひの新作を読むためだ。『名探偵マーニー』は新装版の刊行も決まったということで、非常にめでたい。Kindleの1冊99円セールをきっかけに、まさかここまでになるとは誰も想像していなかっただろう。再現性はあまり高くない極めてレアなケースかとは思うが、漫画のみならず、文芸の分野でも似たようなことが起こらないとは限らない。千野栄一『プラハの古本屋』(中公文庫)のようなケースもある。これもまた善し悪しではあるのだが、それでもやはり人の目に留まるということは重要なのだろう。……それにしても、「チャンピオンRED」は随分とエロが多いことには驚いた。
一方、大体さいとう・たかを『鬼平犯科帳』が表紙を飾る時代劇画誌に、中村ゆうひが最初の書き下ろしを掲載したのが2年半ほど前。まったく時代ものを描く印象がなかったので、その報に接したときは驚きを通り越して信じられなかったことが思い出される。
この度の4作目「うつろ娘」は、いつものごとく不思議な設定だが、民俗伝承なども絡めてちゃんと時代物である必然性がある。なかなか器用である。
基本的には一話完結型なのだが、2話で登場した、奇譚に詳しい蒐妙庵という塾の兎園先生の存在が定点となり世界観をまとめはじめ、連作短篇となる予感を漂わせている。3話からは助手の少女・ことねもレギュラー化。彼女はどうやら、なにかしらの異能の持ち主であるっぽい。大きく喩えるなら手塚治虫『ブラック・ジャック』のような様式を整えつつある。
中村ゆうひは『週刊少年ガール』以来、電子書籍では1作品あるが、紙の単行本は刊行していないはずだ。まだまだ分量が足りない気はするが、このままコツコツ続けていけば単行本化も夢ではない(はず)。まさか中村ゆうひの単行本第2作がリイド社から出る可能性がある、なんてまったく想像だにしていなかったが(それもそれで中村ゆうひらしいところもある)、もし刊行されるとすればそれ以上に喜ばしいことはない。大いに期待したい。
事情があってこれは名前を出すだけになるが、「読書」について考えようと思い、和田敦彦『読書の歴史を問う 書物と読者の近代【改訂増補版】』(文学通信、2020年)と『戦下の読書 統制と抵抗のはざまで』(講談社選書メチエ、2025年)を読んだ。
前者については増補前の方を学生時代に読んでいたのだが、改めて紐解くと、こんなにも「読書」を考える上でのヒントが鏤められていたのかと目を開かされた。『戦下の読書』も、統制の面から語られるきらいのある戦時中の読書環境について、読書調査から見られる読者を中心にさまざまな視点から論じられており、いろいろな発見があった。同時に、「読書」を論じることはかくも大変なことなのか、と改めて考えさせられることにもなった。
読書することをただ賛美や推奨の対象としてはなるまい。読書は人を誤らせることも、だますこともあれば、理不尽な思想を信奉し、強制する手立てともなる。重要なのは読書を無条件によいものと見なすことではなく、読書を疑い、調べ、解明していくことなのだ。(『戦下の読書』214頁)
出版物はそのまま読者に読まれたことを意味するものではない。また読者がそうした思想や教義をそのまま信じるわけでも、また内面に転写するわけでもない。戦時下の読書を掘り起こしていくことは、読者の中で、それぞれの地域や階層の中で、何が起こっていたのかを解明することなのだ。戦時下の思想や指導、統制に読者がどう抗い、あるいはそれらを逆に信奉、協力し、それに殉じるための工夫を生み出していたのか。そのあり様を見直し、掘り下げていくうえで、読書への問いは不可欠のアプローチとなろう。(同215頁)
果たして昨今の「読書論」にこのような問題意識はあるのかどうか。あまり意識されていないとしたら、そこではどういうことが「読書」を通して求められているのか。それもまた、考えていく必要があるのかもしれない。
途中やらなかった期間があったせいでなかなか時間が掛かったが、『家族計画〜追憶〜』(2005年)をやり終える。
さすがに古さは感じるし、共通ルートと個別ルートが交じる箇所については若干齟齬が生じているようなところもあるにはあったが、さすが名作と呼ばれるだけのパンチはあった。題名の「家族計画」とは、各々の事情で家族というものを持たない、出自も嗜好も信念もバラバラな一癖も二癖もある7人がなんとか生きながらえるために擬似家族をつくって一つ屋根の下に暮らすという互助計画。衝突が絶えないこの「家族」が、それぞれの過去であり本当の家族と向き合い、それを乗り越えてこの偽物の家族のなかで絆を育んでいく物語、と書けば割とよくある話に見えるかもしれないし、実際そうとも言える。まあ良い話であることに変わりはない。
ところで、アダルトゲームというとどうしてもエロのことだと思われがちな気がする。まあ事実エロシーンはあるのだが、R-18にすることによって生じる別の作用もある。それは、全年齢対象では描きづらい生々しい描写や、きわどいテーマを扱い易くなることだ。本作で言えば、違法薬物やマフィア、かなり強烈な虐待などが挙げられる。当時ならいざ知らず、映画や小説においてトリガーアラートがなされることも珍しくなくなった現代では物議を醸してもおかしくはない描写やネタもたくさんある。
お笑いコンビ・リップグリップの岩永圭吾はある動画にて、「オタクの人はエロゲーをやっているというイメージがあるけど、実のところ誰もやっていない」といった旨の発言をしている。もちろん本当に誰もやっていないわけではないのだが、プレイヤー人口がだいぶ少ないのは事実だろう、と私も感じている。
業界が生き延びていくためには売上が上がった方が良いのはきっと間違いない。一方で、このように紹介するようなことをしておいて矛盾しているかもしれないが、上記の理由で、アダルトゲームはそんなに多くの人の目に留まらない方が良いのかもしれない、と思うところもある。おそらく、映画や小説、漫画やアニメとは比にならないレベルで炎上することになるだろうからだ。
先月の反動か、今月は随分長くなってしまった。冒頭で書いたように、いまはここに時間をかけている場合ではないのだ。ただの現実逃避なのか。最近は読書よりも熱を入れている卓球も絶賛絶不調。そんなこんなしているうちに風邪の影が忍び寄ってきた。前回の風邪はかなり長引いてしまったので、なんとかして今回は短い期間で回復まで持っていきたいものだが。
トンネルの出口は、まだまだ遠い。
(矢馬)







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