初めて阿部共実を知ったのは、おそらく出世作と言えるだろう『ちーちゃんはちょっと足りない』(秋田書店)だった。「心がざわつく」という触れ込みとカバーの女の子の絵柄とのミスマッチが気になって、当時アルバイトしていた本屋で買った。
前半は、「ちょっと足りない」ちーちゃんが、周りの助けもあってなんとか上手くやっていく生活を描く青春物語のように思えたのだが、そんなちーちゃんが悪気なく起こした事件から、一気に人間の心の深い部分を容赦なく抉るような展開が続き、語り部のナツが、当初から垣間見えていた、誰にでもあるような自己評価の低さや自己保身によって転がるように転落していく様は苦しい。後味も悪く、本来私はそのような作品は好きではないのだが、なぜだかこの作品はどこかしばらく胸に残り続けた。
好き嫌いとは別の次元で気になる作家になってしまった阿部共実のことを先輩のバイトさんにぽろっと話すと、その人はデビュー時からのファンだったらしく、これまたところどころで話題になることもある『空が灰色だから』(秋田書店)全5巻を貸してくれた。オムニバス短篇集である本作もまた後味の悪い作品が多い(それでいながら、ときどきはほっこりしたエピソードで終わる作品があるのが憎い)。余韻、というほど爽やかなものではなく、霧のようにというか、澱のように残り続ける読後感、いや、そもそも本当に「読み終わった」のか?……などと考えがまとまらず、短い作品なのに分量以上に疲れる作品集だった。一頁ごとに、次に何が起こるのかまったく予想できず、安心して読むことができないために疲れるのに、読む手は止まらない。不思議な作品だ。
この頃の阿部共実の作品についてはしばしば、トラウマ漫画、といった評価がされる。ところどころ強烈なシーンや描写があり深く印象に残るという点ではその通りだと思うが、私はこれらの作品を読んでいるとそういった衝撃よりも、どうして皆、こうも上手くいかないんだろう、というもどかしさを覚え、どうにも考えさせられてしまう。
良くない結末を迎える作品においても、絶対的な悪役はいない。明確な悪意を持っているのならまだしも、基本的に皆、悪気はないのだ。純粋な興味や、なんだったら善意で動いているにも拘わらず、どこかで互いの言葉がすれ違って、徐々に破綻していく。悪気がないがゆえに、余計に虚しさが募る。悪い人はいないのに、どうして皆が幸せになれないのだろう。このもどかしさは、私が現実の世界に感じているものでもある。
私が中学生くらいになったあたりだろうか、大きな事件が起こらない、いわゆる「日常系」「空気系」の漫画やアニメが流行り始めた。元からジャンプ的なバトル物などがそこまで好きではなかった私は当時、それらの作品をよく手に取っていたように思う。安心して見られる、そんな風に思っていたのではないか。
それが悪いわけではないが、しかしいまこの歳になって、若干の違和感を覚えている。すなわち、あれは「日常」なのか? と。
無論それは「日常『系』」であって生の「日常」ではないことは、フィクション作品であることからも明白だ。そこに現実を持ち込むことが野暮なのだと言われれば、確かに、と思うところもある。しかしその上で、あれはむしろ「日常」とはほど遠い、そういって悪ければ、過度に抽出して濾過されたものでしかないのではないか、と思うようになってきた。少なくとも私が生きてきた「日常」は、ああいったものではなかった。
人と人が理解し合うことがかくも難しいことか、日々痛感している。
言葉が通じない。他人の言っていることが分からないし、自分の言いたいことは伝わらない。広く社会、あるいは世界というものを相手にしたときも同様だ。自分の思い描いたとおりにはほぼ人生は進まない。望んだ結果が手に入ったことが、いったいどれだけあったろうか。片手の指を折るのが精一杯だ。思い出されるのは失敗やすれ違いばかり。そんな上手くいかない時間で、人生のほとんどは構成されている。
私が「日常系」に感じる違和感は、登場人物たちが分かり合えている空間、あるいは現状はそうではなくても、それが来るべき未来として予期されている空間が、やはり極めて非現実的であるように思われることから生じているのだろう。「日常系」に流れる空気はその実、「日常」とはかけ離れた究極の理想的なフィクションであるように、今の私には思われる。
だがこれは、「日常系」に限らないことでもある。複数の登場人物がいても、結局は一人の人間の言語を話しているように感じられるときがある。すると、そこに予定調和を感じてしまう。それは翻ってみれば当時の私が感じていた安心感を生んでいたものであるのかもしれない。だから、そのような作品に惹かれる人の気持ちは、よく分かる。
自分の知っている、分かる言葉だけで満ちた世界。余計な不和がないそれは、確かに心地よいものかもしれない。そんな世界であれば、いったいどれだけ生きるのが楽だろうか。
だが、やはりそれは限りなく空想(=フィクション)の世界でしかない。この世でまったく同じ言語を話す人間など、一人としていない。この世界はそういうものだ。自分は誰一人として相手のことを完全には理解できないし、自分のことを完璧に理解してくれる人も存在しない。誤解、すれ違い、勘違い、曲解……。そんな網の目が世間であり社会であり、そして世界だ。日常で行われている会話とは、かくも壮大なものか。
そのような安心とは対極の、不安に満ちた阿部共実作品の最大の特徴は、登場人物たちが皆、各々の言語を話していることだ。
今月完結した『潮が舞い子が舞い』(秋田書店)は非常に多くの登場人物がいる群像劇であり、登場頻度が低い者もあるのだが、その言語の特質故に、それほど登場人物の把握に難儀はしない。言語がその者を象徴している。
そしてこれもまた特徴なのだが、この作品はとにかく、基本的には言葉が多い。討論形式で進むことも多々ある。ほとんど文字では言葉を発さない登場人物もあるが、それもまた彼の「言語」だ。皆が自分の言語をぶつけ合っている。
しかしいくらを言葉を交わしたからといって、互いにどこまで理解できているのかどうかは分からない。いや、完全にわかり合うことなどできないことが分かっているから、こうして言葉を交わそうとしているのだろうか。初期の作品ほどの後味の悪さを残すものではないが、しかしこの作品もやはり「上手くいかない」人だらけであり、もどかしい。どうして皆が幸せになれないのだろう。やっぱりそう思ってしまう。もう少しだけ上手くいけば、と。
だが、考えてみれば日常はそういうものだ。皆が皆「上手くいかない」ものを抱えて、各々の言語を持ち、分かり合えなさを背景になんとか生きていく。「聞く所によるとけっこう難しいらしいぞ 人生」という主人公格の百々瀬や、その友人で本作でも特にその「言語」が独特な真鈴バーグマンの「でも私は思い通りにならなかったことをあまり不幸と呼びたくないんです」「だとしたら人生なんてほとんど不幸と言えてしまいませんか?」という言葉が印象的な最終話は、まさにそのような話だ。少し終わりを急いだ感もあるが、しかしこの話で、この群像劇をまとめようとしたことは象徴的に思われる。
最後、百々瀬は、望むものがすべて手に入る訳ではないが、それでも望むことをやめる必要はない。自分はなにがあっても「真鈴とずっと友達でいたいと思っている」と語り、そして波の音だけがするなか、裸足で海に入り手を繫ぐ2人の姿がフェードアウトして終わる。
この一切の台詞がなく、真っ白なコマで終わるのは前作の、結果としてテーマに共通する部分がある『月曜日の友達』(小学館)にも共通している。この空白は、しかしたくさんの言葉を交わしているときよりもかえって互いの思いが通じ合ったように感じられることが多い。翻って、言葉を交わすとはなんと面倒くさく厄介な行為か、と思わされる。だが一方で、そういった面倒くさく厄介な行為を愚直に重ねることでしか、その静かな交歓にはたどり着けないのだろう。
阿部共実はそれを全肯定するのとは少し違いながらも、どこか前向きにとらえようとしているようだ。これは現状肯定だとか、そんな器用なものではない。むしろ呆れるぐらいに不器用な生き方だ。それは作中の人物で、誰一人として器用な人間がいないことからも明らかだ。だからだろう。彼らのことを、妙に忘れられない。
私は根本的に阿部共実は短篇の人だと思っている。本作も短篇を積み重ねることで成り立っている作品ではあるが、しかしこれだけの数の登場人物の物語を単行本10巻という分量でまとめようとしたことで、新たな地平に入ろうとしているようにも感じた。これまで着実に作品を作りあげている作者だ。きっと近いうちに見せてくれる新作がどのようなものになるか。期待して待ちたい。
最後に、阿部共実には写真だけを載せている、更新頻度が非常に低いブログがあるらしいのだが*1、その写真がいま、気になって仕方ない。団地や集合住宅の風景が多く、『ちーちゃんはちょっと足りない』や本作にもあらわれる団地は、阿部共実のなかでどこか原風景となっているものなのだろうか。
今年の5月に更新された最新の写真では、『潮が舞い子が舞い』の単行本に、アンドレイ・タルコフスキー監督『ストーカー』のブルーレイディスクが立てかけられた写真などもあって、なんでタルコフスキー? と思うと同時に、私はちゃんとタルコフスキーを観たことがないのに何故か妙に腑に落ちる感覚もあり、不思議だ。
いま、阿部共実の作品を改めて読みかえし、なにか考えてみたい気持ちになっている。ついでに『ストーカー』、そしてずっと気になっている『ノスタルジア』を観るのもいいかもしれない。
(2023/08/15追記
タルコフスキー『ストーカー』は、『潮が舞い子が舞い』第25話にて「40年前のロシア映画」として登場していた。)
(矢馬)