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「そうするよりほかに手立てがないじゃないか。」ー『事実を集めて「噓」を書くー心を揺さぶるスポーツライティングの教室』書評

 ここ1年ほど、スポーツ記事をよく読むようになった。特に『Number』なんかは手持ち無沙汰でウェブの記事を適当に覗いたりするのだが、それほど長いものではないものの、中にはかなりの充実感を覚えるものもある。特定の選手にフォーカスしたものが特に好きで、その人物の言葉や動作のほか、過去のコーチやチームメイトの証言などから実相を掘り出していく様がおもしろい。良い文章に出会うと、そこで取りあげられる人のことが大抵好きになってしまう。

 書店を覗いていると、藤島大『事実を集めて「噓」を書くー心を揺さぶるスポーツライティングの教室』(エクスナレッジ)がなんとなく目に入った。実用書的なものかな、とあまり期待せずに手に取る。いままで文章指南本はいくつか見てきたが、細かいテクニックに終始するものが多く、本当の意味で役立った経験がほとんどなかった。

 私には書店で手に取った本の目次を見た後、すぐに最後の頁を見てしまう悪癖がある。ミステリー小説にあまり食指が伸びない要因はそこにあるのかもしれない。此度もその例に漏れず、気がつけば指は結尾を捲っていた。そこには、山口瞳がサントリーの成人の日の新聞広告に載せたという文章の、ある一節が引用されていた。

 僕は、この人生、血も涙もないとばかりは思っていない。正直にマジメにやっていれば何か良いことがあると信じている。第一、そうするよりほかに手立てがないじゃないか。(『諸君!この人生、大変なんだ』)

 あ、買おう。そう思った。

 本書は藤島が、かつてスポーツジャーナリスト講座の講師を務めたときの元教え子、三谷悠に対して語ったことの聞き書きの形を取っている。いわゆる問わず語りのようでもあり、必ずしも体系的なスポーツライティング指南書とはなっていないかもしれない。しかし、極めてシステマティックで実用的な文章指南本が優れた書とは限らないのと同様、ところどころで話が逸れ、横に置いてすぐに使えるようなものとは言い難い本書が良くない本だ、ということもない。

 もちろん具体的な方法論が示されていない訳ではない。事実、この文章も本書で示されている手法をいくつか反映させている。書く対象をスポーツに特化したコツも示されている。

 だが、プロとしてまず「うまい」文章を書かねばならない、と最初に言うように、その多くは対象をスポーツに限ったものばかりではない。そしてなにより、ここで語られることの大部分は物を書く以前の、物を見つめること、あるいは物事を考えるときの心構えなど、土台となる精神についてだ。あるプレーについて、ただ技術を解説しただけではプロのスポーツライターの文章とは言えない。そこから選手やその競技であったり、あるいは世の中、時代の光景といったものにまで迫っていくものでなければならない。大事な物は奥にある。文章について言えばそれは書く人であり、そしてその心だ。

 本書ではキーワードのように繰りかえし使われる言葉がいくつかある。その一つが「見つめる」だ。

ただ「見る」のではなく、「見つめる」。これがすべての前提です。「見る」という行為に明確な意識を介在させて、考察につなげていく。(54頁)

 見つめる。これは芸術の根幹でもある。誰もが見てはいる。でもそれを見つめた者はそうはない。そうして見つめるなかで生まれてきた自分だけのものを表出し、ゆえにそれが万人のものとなる。

 しかし少なくともSNS空間においては、この見つめることによって湧き出してきた言葉を見ることは難しいだろう。なぜか。それが時間のかかる営みだからだ。そして物事を見つめると、そんなに簡単に割り切れるものなどないということが嫌でも分かってくる。一言でスパッと言い切れたり、善か悪かを断じることができるようなことはない。本書ではそれを「際(きわ)」と表している。際を考え抜くことが肝要だ、と。

 たとえば少年・学生スポーツの勝利至上主義について。最近ではスポーツ関係者のみならず、専門外のコメンテーターや文化人なども、これを諸悪の根源のごとく否定する。競争社会の過酷さに多くの人間が苦しめられている現状があるからだろう、この手の意見は賛同を得やすい。自身の地位を確立するためのトピックとして、利用されている感さえある。

 たしかに、勝利のためにと道徳に反することまでするのが是とされる空気があるのならば、それは問題だ。しかしどうだろう、スポーツはやはり試合で勝つことが最大の目標であることは間違いない。勝つために練習をするし、団体競技であればチームメイトとコミュニケーションをとる。心の底から勝ちたいと思うから、負けて悔しいのだ。真摯に勝利を目指してはじめて、負けて得られるものがある。なにも悔しくない敗北になんの意味があるのか。

 一方で、勝利の欲望に囚われ、視野狭窄に陥るとその周りにある大事なものを見失う。それも事実だ。すると、重要なのは指導者ということになるかもしれない。勝利を目指し、同時に人間としての成長を促すコーチング……。では、なぜそれができない指導者がいるのか。人の上に立つことによる傲りであったり、周りからの圧力であったり、あるいはそれでしか自身の成果を認めてもらえないような空気であったりする、と考えることもできる。すると、これはなにも少年・学生スポーツに収まる話ではないのではないか。そんな思いを巡らせることになる。

 このように気になり出せば、自然と調べる方に進む。勝利とはなにか。なぜ指導者は勝利ばかりに価値を置くのか。いつから、このようなことが問題になり始めたのか。そのきっかけは。勝利至上主義を掲げ、上手くいっているところはあるのか。あるとしたら、上手くいっていないところとは何が違うのか……。

 こうして、際を考え抜くには膨大な時間がかかる。考えれば考えるほど、そう簡単に割り切れるものではないことが分かってくる。言い切ることができなくなる。

 これがSNS空間のコミュニケーションにはまったく適していないことは明白だろう。スピードが求められるこの空間では、とかく反応がインスタントになる。しかし、これは危うい。そのとき、言葉は分かりやすい潮流に飲まれる。ここに正義という大義名分が付いたときの危険性を私たちは知っているはずなのだが、私にはいわゆる文化人もまた、この正義の波に喜んで乗っているように見える。しばしば、自分はマイノリティのために戦っているのだ、と意気込む風に見せる者もいる。本人は本当にそう思っているのだろう。しかし、私はときに疑問を覚える。実のところ、現代の社会によって「正しい」と保証された立場にあると宣言することで、安全が確保されているのではないか、と。

 本当にそれでいいのか。皆が正しいというものに対して、一度俯瞰する。漠然としてまだ光を当てられていないものを言語化することがジャーナリズムであり、そして芸術なのではないか。

 とっさに出た感情に「ちょっと待てよ」と唱えて、考える。皆が怒っているものに咄嗟に一緒に怒る前に、そもそも何故その人はそんなことをしてしまったのだろうか、どうして皆はここまで怒っているのだろうか、と立ち止まることが必要だ。瞬時に湧き上がった感情にまかせてものを言ってしまうと、大抵は口が滑る。言わなくてもいいことを言い、不用意な発言が勢いで出てきてしまう。ミイラ取りがミイラになる光景を、私は何度も見てきた。だから、感情が大きければ大きいほど、一旦飲み込む。怒るのが悪いのではない。ひと呼吸おき、自分を見つめ、際に考えを巡らせた上でしっかりと怒ればいい。

 だが、SNSでそれができている人がいるとは思えない。いや、実践している者もあるだろうが、それは必然的に時間がかかる故に、ようやく発信に至ったときには既に話題は過ぎ去っている。SNSで誠実な言論など不可能だろうと私が思うのは、それが理由だ。時間をかけない、かけようとしない議論に、いったい何ができると言うのか。

 また、最近の作家を見ていると、悪口が下手になった印象を強く受ける。紙面上ではかろうじて体裁を保てていても、同じ人物がSNSで何ものかへの批判をするのを見ると、どうしてここまで言葉が汚く、そして雑になるのだろうか、と疑問に思っていた。だから、本書でさらっと触れられているこんな文が、強く響いた。

 悪口、批判、このときに語彙は問われます。(193頁)

 SNSでの発信も「きれい」を意識したほうがよい。

「きれい」にはフェアネス、公平さも含まれると思いますが、美しく、汚くない言葉を使うのが基本。(……)きれいに書く。雑に書くと思考まで雑になりますから。(196頁)

 悪口、批判は難しい。勢いに任せればどんどんと汚く、そして雑な方向に向かっていくからだ。批判は、称賛よりも余程綿密な論理と、慎重さが求められる。それでありながら、最大限の重力がどす黒い淵に向かってかかっている。厄介な代物だ。しかし、どうにもそれを分かっていないのではないか、と思われる言葉で満ちている。

 こっぴどく痛罵しているのに、不思議と嫌な気持ちにならない文章がある。その対象が自分の好きなものであってさえもだ。きっとそこには、自分を際立たせたいだとか、相手を貶めてやりたい、などの打算はない。書くものの卑しい感情は、語彙や文体から滲む。読む者が読めば分かる。そういうものだ。

 有り体に言えば、そこに愛があるかどうか。それだけなのではないか。小っ恥ずかしいだろうか。痛いだろうか。それでも、私は愛がすべての根源にあると思っている。愛のない者の作品は、たとえどれだけ巧みで高級であろうとも、私はまったく惹きつけられない。賢しらな者たちに指をさされあざ笑われようとも、愛が大事なんだ、と私たちは言い続けなければならない。大事なのは心だ。

私たちの心が手と協働して物を作るのですから、性根が腐っている者に、まともなものを作れるわけがない。(澤直哉『架空線』港の人、51頁)

 改めて、冒頭に引用した山口瞳の文章を読む。何故私は、この文章に惹きつけられたのか。山口は「正直にマジメにやっていれば何か良いことがある」とは言わなかった。「正直にマジメにやっていれば何か良いことがある『と信じている』」と書いた。ここでは、実際に良いことがあるのかどうかはさして問題ではない。そう信じて生きることが語られている。

 この文章を書くために、初読時に鉛筆で線を引いた箇所を確認していたら、偶然か、こんな所に印がついていた。

 万人ではなく数人に。いや、ひとりをめがけて書く。そのほうが気が散らない。担当でなくともその原稿を送る媒体とは異なる出版社であろうとも、尊敬する編集者をめがけて書く。あの人ならどう読むだろうかと。あるいは酒場の親しい主人でもかまわない。抽象的なのですが「裏切らない」という感覚は、えいっ、これでいいや、という妥協を阻んでくれる。仕事とはそういうものではないでしょうか。ひとりに向かって書くから万人にわかってもらえる。わたしはそう信じています。万人をめがけると、50人しか喜んでくれない。そうも思うのです。(271頁)

 もっとも、私は文字通りの万人にわかってもらう必要はないと思っている。だが、この感覚はよく分かる。漠然と広い人に向けようとして書いたものは、驚くほど届かない。ここ数年は、ずっとそのことを反省してきた。

 ヘリコプターから大量に撒かれた勇ましい文章よりも、直接手渡された、チラシの裏に書かれた拙くも真摯な言葉を、私は読みたい。

 手紙を書くように文章を書きたい。そのとき、私はいったい誰に向けて書こうか。いまはそれを考え続けている。

(矢馬)