ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ19

10月1日

 

ここ最近ブログの更新が滞っている。理由はいくつもあるのだが、なによりも今年の初夏頃から始まった、文章に対する反射的な拒絶が最大の要因だ。

仕事では特に問題はないのだが、それ以外の時間に本を読んでいると言葉がまったく頭に入ってこず、だんだんと苛々してきて、数十分も持たず本を放り出す羽目になる。一時期は漫画の台詞を読むことも難しかった。当然、こんな有様では文章を書いていても言葉が出てこないし、かろうじてひねり出した自分の文章にもまた苛立ちが募って、1000字もいかずに放棄することを繰り返していた。私のような人間がこの言葉を使うのは烏滸がましいが、人生最大のスランプだ。

いったいどうしたことだろう。

思えば、兆候らしきものはあった。近頃、なにか焦っていた。そして、常にうっすらと苛立っていた。余裕がなかったのかもしれない。文学をはじめとした世の中の言葉にも、もうずっとうんざりしていた。そうして少しずつ心の奥底に積もっていたものが、破裂した。

本の大整理を決行した理由のひとつもここにある。本に溢れている部屋が嫌になった。なんでこんなに本があるんだ、と怒りにも似た感情が、一瞬ではあるが湧いた。いまでこそ冷静に受け止めているが、最初はそう感じてしまった自分にショックを受けた。

それでもとにかく一度リセットしたくなった。少し本を忘れることにした。

生命活動という点では、人は本がなくても生きていける。そんな当たり前のことを改めて知る。だったら、なぜ私は本を読んできたのだろうか。本を読まず、休みの日は部屋に横になるか、あてもなく散歩する生活のなかで、なんとなしに考えていた。

今回の芥川賞を巡る世の中の流れを横目に見ていて、その思いはより強くなった。

私は該当作を読んではいない。いや、冒頭は読んだが、私には特に惹かれるものはなかった。ただでさえ文字を読むことが苦しくなっているのに、面白そうとは思えない、十中八九辛くなってくるだろうことが予感されるものを辛抱して読めるような状況ではなかった。

しかし、それ自体はどうだっていい。私が面白いと思わない、興味を惹かれない作品がすなわち悪い作品であるわけでは当然ない。それに、絶対数からすれば世の中の99.9%以上の作品が私にとっては興味のない作品になるのであり、本作もその一つである、というだけの話ともいえる。

それよりも私は、作者の言葉、それを報じる言葉、そして評価する言葉の数々にまったく乗れず、身を投じることができなかったことについて考えている。確かに「正しい」のだと思う。読書のバリアフリーがこれから考えていく必要のある問題であることに、異議を挟む気はない。

だが、少なくとも「文学」という点に立ったとき、これは本質的な話なのだろうかという違和感が拭えない。どこを見ても絶賛の言葉しか見られない*1この作品について、もう少し踏み込んだ言葉がないかと調べていてひとつ、「今回の一連の芥川賞現象ですっかり置き去りにされたもの」は「文学それ自体」だと言う文章*2に接し、その通りだと思った。

少なくない人が衝撃を受けたという受賞記者会見やインタビューの文章をいくつか読んだ。編集のせいだろうか、間違ってはいないし正しいとも思うが、果たしてそれほどのものか、と首を傾げた。しかしそれを脇に措くとしても、「文学」という言葉は確かに出てくるが、その実、「文学それ自体」の話はほとんどしていないような印象が拭えない。それが悪いとは言えないのだが、しかし私は釈然としない。本作の感想のようなものでは、大抵が「読書文化のマチズモ」という言い回しに代表されるような、いわゆる紙の本を買って読むことが容易ではない人たちへの視線を欠いていた自分を反省したり、電子書籍をはじめとした読書のバリアフリーの必要性を痛感したりと、まさしく先のブログにも引用されている平野啓一郎の「リプロダクティブライ(性と生殖に関する権利)について(中略)議論を喚起する強い力」があるとする講評の通りのものが目立つ。小説をどのように読んで、あえてこういう言い方をするならばどのように使うかは自由だからそれが間違っているとは言わないが、しかし少なくとも私にとって文学とは、そのような動機をもって読むものでは一切ない。ただ、今世の中は文学に限らずこのような捉え方が「正しい」ものだとされているように感じる。

文学でも漫画でもアニメでも、「それ自体」ではない話ばかりが広がるようななか、自分も少しずつそれに飲み込まれるような感覚があって、身体の方が免疫を働かせた。免疫が働くときは往々にして発熱など身体に不調が生じるが、喩えるならいまの自分はそのような状態にあるのかもしれない。いまの自分をそう考えてみることもできる。

風邪のときは休むのが一番だ。汗をかこうと無理をして運動をしても症状は長引くばかり。そうして休んでいる内に、少しずつ調子が良くなってきた。漫画を読み始めた。短い文章を読んだ。気になっていたアニメなんかも観てみた。それがどう評価されているかは気にしない。なによりも私自身が、どう思うか。いまはそれだけを考えている。

鬱屈しているとき、往々にして一人で考え込んでいると暗い方向に進んでしまい良いことはなく、私の場合は信用している人と話すことに限る。このような話をすると、そもそも物事がすべて関係しているという考えは幻想だ、人は世の中のごく一部にしか関われない、なにもかもが自分に関係しているはずがない、と言ってくれた。これは、だから自分に関係のないことは考えなくていい、という投げやりなものでは当然ない。今、人びとがとらわれている呪縛から逃れるための意識だ。

私はさほど良い本とは思わなかったが、『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史、光文社新書)などでは、現代の若者の傾向として、話題になっているもの、皆が観ている/読んでいるものを知らないといけないという意識がある、などと書かれている。果たしてこれが現代に特有のものなのかどうかは眉唾ものであるようにも感じるが、しかしそもそも私は10代の終わり頃から、「皆が知っているもの」「いま大流行しているもの」というのはそれを遠ざける理由にはなれど、手に取る要因には一切ならない人間だった。今になって思えば、少し前の自分は、随分と性に合わないことに齷齪していたものだ。

しかし、もういい。これからは愚直にやっていく。それが「世間」にとってどうであるとか、それは結果論でしかない。やる前から気にしても詮無いことだ。

明るい方向に諦めはじめたのかもしれない。

 

(矢馬)

*1:ここにはおそらく、本作が重度障害者である作者が当事者意識をもって書いたもの故に、それを批判することは作者、ひいては重度障害者を批判するという構図が生まれてしまう、といった要因も大いにあるだろう。作者がそれを意図しているかどうかは別にしてこれはこれで「文学」としても不健全な空気であると思うが、ここではこれ以上踏み込まない

*2:

文学の脱・当事者性 (芥川賞 第169回)|ヤマダヒフミ 閲覧日2023/10/01