ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ18

7月20日

思うことがあり、ここしばらく本棚の大整理をしている。

いままでの「この本はもう手放してもいいか」という基準から、「どの本は残しておいてまた読みたいか」という考えで処分している。とにかく本を減らしたく、理想は半分だがさすがに難しそうで、とりあえず4分の1から3分の1は手放すつもりで動いている。うずたかく積み上がるばかりだった積み本からもかなりの本を売った。いつか読むために置いておいても、という考えもあるが、もしそのときが来ればまた買うか借りるかすればいいだろうと、社会を自分の延長された本棚と見なすことにしている。

まだ半ばだが、本棚がだんだんすかすかになってきて、物理的にも精神的にも軽くなっているのが少し気持ちいい。本を並べ直すのがいまから楽しみだ。

また併せて、いまはとにかく、絶対に買うと決めている本以外には本を買わないようににしている。本屋にも極力足を運ばない。少なくとも残りの半年は続けるつもりだ。手持ちの本を増やしたくない。こんなことは物心ついてから初めてだ。

自分に入ってくる文字情報を減らす。リアルタイムの情報から適度に距離をとる。ついでにSNSも基本はログアウト状態にして、見る時間を限りなく短くした。時事情報は新聞を取っているのでそれを流し読みするくらい。仕事中に手が空いてすることがないときにネットニュースをちょこっと覗くこともあるが、新聞で気になっていた政治や社会ものの解説記事か、あとはスポーツか競馬のニュースくらいしか見ない。それ以外は意図的にあまり見ないようにしている。

きっとSNSではいまでも炎上や議論が日常茶飯事のように起こっているのだろうが、それについてまったく知らないということになる。これが精神衛生上、非常に良いようだ。

「議論」と言えば聞こえはいいが、SNSで行われているのは概ね自分というか自我のぶつけ合いであり、攻撃性が高すぎる。悪意にも満ちている。そんな言葉に絶えず晒されていれば心も言葉も刺々しくなるのは当然のことだ。

だからといって、入ってくる情報が減ったわけではない。代わりに散歩の時間などを増やし、外の景色に触れるようにしている。戸田ツトムが言うように、風景というものが持つ〈情報量〉は膨大なものだ。翻って、SNSが持つ〈情報量〉は実は大したものではないのではないか、とも思えてくる。風景と対話するなかで、自分の言葉をゆっくりと見つめ直している。少しずつ、自分が本当にやりたかったことが見えてきた気がする。

散歩の動機付けのために、中古のデジタルカメラなんかも買ってみた。決して安くはない買い物だったが、本を売って得る金額と、これから本を買うのを慎むことで生まれる潜在的な出費減を考えれば簡単に賄える額だろう。機能としてはスマートフォンのカメラでも十分なのだが、最近の私はどうも用途が少ない、それに特化した道具に興味がある。思えば数年前からスマートフォンのアラームは使わずに近所のスーパーの処分品コーナーで買ったデジタルの目覚まし時計を枕元に置いて使っているし、電子辞書をやめて紙の辞書を買ったし、スマートフォンにこれ以上使用用途を与えたくないのか頑なにバーコード決済は使わないしと、そのきらいはあったのかもしれない。

本を整理したら、残った本に少しずつ向き合おうと思っている。今までの、今現在の、そしてこれからの自分を見つめ直すためにも、いまある本と話をする。そんな時間を持ちたい。

さっそくポール・ギャリコ『雪のひとひら』を読み直した。10年ほど前に初めて読んだときから妙に好きなのだが、改めて、好きだなと思った。今回、訳者の矢川澄子についても少し考えさせられた。巻末の解説からも分かるように矢川にとってこの『雪のひとひら』はとても大切な作品だったようだ。いったい、なぜそこまで大切だったのか。そして、人生でそんなひとつの作品と出会えるのが、どれだけ幸せなことか。いまの自分の心境の変化に、重なってくる。

(矢馬)