『アイデア』402号(誠文堂新光社)の特集「小さな本づくりがひらく 独立系出版社の営みと日本の出版流通の未来」を読んだ。
7つの出版社へのインタビューと4つの論考、そして7人の選者によるブックリストと、かなりのボリュームがある。本旨についていろいろと感じたこと、考えたことはあるが、それについては後々書くかもしれないし、まだしばらくは書かないかもしれない。
ところで本筋とはあまり関係がないのだが、本特集のインタビューでは複数人、中学高校時代から近代文学をはじめとした文学作品を日常的に読んだり、小説を書いてきたりしてきたことを話のとっかかりとしている。
これは本特集以外でもよく見られる光景だ。たとえば純文学系の作家のインタビューであったり、文芸誌での対談・鼎談などを読んでいると、10代の頃からそのような文学作品に触れているのがどこか当たり前であるかのように感じられる。
プロに限らずとも、私は大学時代に文芸サークルに所属していたが、やはり中学高校時代から大江健三郎やヘッセといった作家の作品を読んでいるとか、村上春樹の愛読者であるとか、星新一の文庫はほぼすべて読んでいるとか、SFの名著とされるものは一通り手に取っているとか、もちろん小説を書いていて発表しているとか、そういった人はまったく珍しくなかった。
私は大学に入るまで、それらの本を課題として以外ではほとんど読んだことがなかった。精々がライトノベルで、大学の進学先が決まってから、文学系のところに入るのにまったく読んでいないのはまずかろうと義務感と焦燥感で夏目漱石、芥川龍之介、太宰治あたりの作家の本をBOOKOFFで買い集めたのがほとんど最初だった。
だから10代前半から文学に親しんでいる人の話を聞くと、最初の頃は劣等感もあった。たとえ今からそれらの作品を大量に読もうとも、中高生時代にそれらを読んだ、という経験は絶対に得られない。勝手に、そこに見えない壁を感じていた。
いまでも自分を文学好きなどと言われると首肯しかねるのは、でも自分は中高ではライトノベルしか読んでないしなあ、という思いによるところもある。自分はそっち側の世界の人間にはなれなかった人間だから、と。みみっちいプライドと言われれば返す言葉はないが、それでもいまだ完全には拭い切れない。案外大きなコンプレックスなのだろう。しかしこの界隈にいると、高校まで本なんてほとんど読まなかったよ、と言う人をなかなか見かけない。実際にそうなのか、はたまた私と同様だとしても、それは口に出しづらいのか。
一方で、その意識がいまの自分に絶えずあるオルタナティブの意識に繫がっている面がないとは言えない。20歳をこえたあたりからだったろうか、文芸誌の文章に目を通していて、書き手の目がどうにも内側に向いているように感じられることが多くなった。いわゆる「文壇」の評価軸を内面化しているような。
文学作品に限らない。漫画でもドラマでも映画でもPOP音楽でも、妙な閉塞感を覚えるようになった。あらかじめ正解があるかのようだ。ファンに言わせればどれも違うのだろうが、私には大同小異にしか思えなかった。書評家、評論家などが「この作品は今までのものとは違う」と絶賛しても、少なくとも概要を聞く限り、はて、そんなものかなと首を傾げる。確かに表面的な部分は独特だが、根っこの部分はそんなに珍しくもないではないか。なにがどう特別なのか、さっぱり分からない。それは、100人近くいるアイドルグループのそれぞれのアイドルの顔がファンにとっては皆違うものである一方で、興味がない人間にはどれも同じに見えるように、私の関心が現代の物語作品から少しずつ離れていってしまっていた証左でもあったのかもしれない。
そんな私だから当然本特集の「独立系出版社」にはそれなりの関心があり、なるほどと感心させられたり、大手・本流から離れたところで出版を行う意識について共感を覚えたりするところもあった。しかし、隔靴掻痒の感も否めない。
すなわち、確かに各々独自の活動をしているのだが、話の内容というよりトーン、根っこにある意識が概ね共通しているように思えた。同質、といってもいいかもしれない。
それは文字起こし、編集作業のなかで生まれた全体的な空気、あるいはこういうものを描きたいという明確な意図によるところもあるのかもしれない。しかしこのようなことは他の媒体における独立系出版社や独立系書店を扱った記事、それら当人のSNSなどでの発言を見ているときに時折感じることでもある。
本人が望む望まないに拘わらず「独立系」と呼ばれ、独自色を出しているように思える一方で、やがて言動が「独立系」の人らしいもの、という色を帯びてくる。読書好き、業界が望む「独立系」像を内面化してしまうのだろうか。SNSがすべて悪いとは言いたくないが、しかしSNSの言語空間に絶えず接していると余計にその流れには抗えず、あっという間に内側から変質して均されてしまう、とは言えそうだ。このようなことは出版に限らず広く見られることだ。まったく他人事ではない。
いずれにせよ、オルタナティブはオルタナティブでも、やがてはメインストリームとなってしまうこと、ことに現代はそのスパンが非常に短いことを改めて感じた。なかなかオルタナティブのままではいさせてくれない世の中で、自分はどう生きるか。
ところで、今回の7社はその大半が2010年代に設立した新しい出版社だ。2番目に古い書肆侃々房も2002年に屋号としての現社名を設立。すなわち21世紀からの会社だ。唯一港の人が1997年、つまり20世紀の創業。無論、世紀で分ける合理的意味はないのだが、しかし出版においてこの時期の10年、20年の違いはかなり大きい。本や出版を取りまく環境がまるで違うと言っても過言ではない。
それも一因だろうか、港の人のインタビューはどうにも空気感が違う。写真であげられている本の佇まいも違う。上手い表現が見つからないが、一時代前にあった本、というような感じがする。いや、心なしか写真そのものも違う気がする。一つだけ、やはり異質だ。
それに、全体的なトーンが他の6社と比べるとやや重く、暗い。それは社主の上野の「ぼくが思うような出版のかたちはすでに終末期なんだなと思ってい」る、という発言に象徴されるだろう。いまは弱まっている、というのではなく、もう終わりに向かっている、終わりにあるという認識。この違いは大きい。他の6社は、たしかに厳しい状況を語る者もあるのだが、どこか明るさが感じられる。本特集に希望を抱きたい人ならばそちらの方に力づけられるだろう。そして、編集の全体的な意図もそちらにあるように思われる。それはいいのだが、しかし私は諸手を挙げてそれに乗れるかと言えば、少し躊躇する部分もある。
上野も、ただ悲観的なわけではない。いま出版を考えるならば、そこから考えなければならない、という意識を持っている。出発点を間違ってはいけない、ということだろう。終わりゆくものの中で自分はどうあるべきか。
港の人のインタビューで最も印象に残っているのは、活版印刷に対する意識だ。「出版に関わる以上、活版印刷の本をつくりたいと思っていた」という上野はその理由を手触りといったフェティッシュなものではなく、「本が物質であるということ」を「根本から規定しているのが活字であり活版印刷だから」と言う。
その中では「活版詩集」というプロジェクトを立て、書店にもかなり宣伝をしたというのだが、しかしこれにはほとんど反響がなく、がっかりしたそうだ。
港の人には活版印刷の本がいくつかあるが、しかしその印刷をお願いしていた印刷所は廃業してしまい、いまや日本で書籍の活版印刷に対応してくれる印刷所はほとんどない。元は本文が活版印刷だった光森裕樹『鈴を産むひばり』は、それにより3刷からオフセット印刷になったりしている。
そのことに対し上野は、「日本の文化を下支えしてきた活版印刷がこんなふうに終わっていったのに、世間も出版界も知らん顔だった。それを思うと暗澹とした気持ちになります」と失望の色を隠さない。その奥に、そんな人々がいま、これからの出版を云々などと論じるのはちゃんちゃらおかしいことだ、との呆れと怒りを感じるのは私だけだろうか。これは時代的に当然といえば当然だが、他の出版社で活版印刷に言及しているところはない。ほぼ完全にDTPに置き換わった時代から出発しているからだろう。
もちろん上野もDTPを否定しているわけではない。DTPの登場を、出版にとっての悪くはない、ある意味では「発展」している一面であると認めている。実際、港の人の本にもDTPで製作された本はたくさんあるだろう。
だが、活字・活版印刷という物質性の感覚があるかどうかの違いは大きい。私の話になるが、先日、70代の大ベテランフリー校正者と話す機会があり、当時の出版現場の話をいろいろ聞かせてもらった。今のようにパソコンが一人一台使えるようなものではなく、電子メールや携帯も普及しておらず、そして活版印刷がメインの時代は、今よりも出版現場そのものに物質性があったのだと思わされた。雑誌の校了直前で1文字のアフレが発生し、しかし担当者はすでに退勤し飲み屋にでもいるのか連絡がつかず、仕方なく句読点類のアキを詰めるなどしてそのアフレを収め、印刷所では活字を文字通り削ってなんとな事なきを得た、なんて話を聞くと、本当に大変だったんだろうなと思うが、しかし一方で、なんか良いな、と感じた。ノスタルジーではなく、それが「出版」という歴史的な営みなのではないか、という思いだった。
そして、いやしくも「紙の本の魅力」なるものを語るのならば、この物質性を蔑ろにしてはならないのではないか、とも。
上野はこう語る。「DTPは無限に選択肢があるのでやっているうちに迷路に入り込みがちなんですけど、活版印刷は物理的に決まっている。逆にいうと全部自分で決めないとなにも出現してくれない。その体験から得られたものは大きかったと思います」。
物質性、物理的……。本特集を読み終わり、私の頭ではこの2つの単語がぐるぐると回っている。
(矢馬)