ソガイ

批評と創作を行う永久機関

文学フリマ東京37参加のお知らせ

11月11日の文学フリマ東京37に参加することにした。

 

ギリギリまで今回は出店する気はなかったのだが、開催が土曜日だということもあり、行ってみるのもいいのかなと考え直したのが最近のこと。

とはいえ、募集が2000ブース、先着1600ブースまでは抽選対象外ということもあって、今からの申し込みでも余裕で参加できるだろう、と高をくくっていた。それが蓋を開けてみたらそもそも抽選枠であり、しかも〆切1週間前あたりの時点ですでに2000を超える応募があると言うではないか。回を重ねる度に規模が大きくなっているのは分かっていたが、しかし改めてこの出版斜陽の時代の、いったいどこにこれだけの本を出したい人たちがいるのだろう、と自分のことは棚に上げて不思議に思わされた。実感が伴わないでいる。

先月発売の『文學界』9月号の特集「エッセイが読みたい」では、高瀬隼子と大前粟生が文学フリマ東京に行って、そこでいくつかのエッセイ本を買って紹介する「文学フリマでエッセイを買う!」という企画まであった。高瀬隼子は出店側として文学フリマに参加することも多々あったとのことだ。私は高瀬隼子の小説をちゃんと読んだことはないが、聞こえてくる話やインタビュー記事から、なんだか納得できる気がした。

それにしても『文學界』という「文学」の権化たる媒体に、元を辿れば大塚英志が文芸誌に象徴される「文学」という制度を批判し、そのアンチテーゼとして提唱するところから始まった文学フリマがこのように大々的に取りあげられ、そして気鋭の純文学作家が称賛する、という構図は、文学フリマの影響力が来るところまで来たなと思わせると同時に、少々変な感じもする。素人の表現の場であったYouTubeに、いまやプロの芸能人がプロのプロデュース、プロの編集を施されたチャンネルを持つのが当たり前になったような空気にも似ているかもしれない。

もっとも、文学フリマが商業出版に対するオルタナティブの出版の形であった時期はすでに終わりつつあるように私は感じていたので、それほどの驚きはなかった。それが良いことなのか悪いことなのかはよく分からないが、少なくとも、諸手を挙げて喜べるような状況なのかと言えば、なかなかそうは思えない。私にはこの盛り上がりがときに、消える前に一瞬バッと燃え上がる蠟燭の火のように思えることもある。それくらい、最近の規模の拡大具合には、ちょっと怖いところもある。無論、こんな予感は外れるに越したことはない。

先日、コミティアに言ったときにも感じたことなのだが、規模が大きくなればなるほど、ふらっと立ち寄ってなんとなくブースを眺め、ところどころで足を止めて立ち読みして、大抵は買わずに戻し、ほんのいくつかのものを買う、という行動様式が困難になってくる。もう回るだけでヘトヘトになり、途中からはほぼ義務感だけで人の間を縫っているような感覚になる。

いちおう紙のカタログはあるものの、まったくなにも知らない状態で見ても特に参考になるようなものではない。紙幅が限られているから仕方ないとは言えるが、そのせいもあって、最近は文学フリマのカタログもほとんど読まなくなった。いまはWEBカタログがあるじゃないか、と言うかもしれないが、いちいち各ブースのページを開いては一覧に戻って、を繰り返すのはあまりにも面倒だ。SNSのハッシュタグも然り。整理されていない情報をただ狭いスクリーン上に示されても、まったく頭に入っては来ない。コロナ禍以前の文学フリマの紙カタログは私にはとても良いものに思えていたのだが。

最初の頃は物珍しさもあったのだろう、私は文学フリマに行く度に、それなりの数の本を買っていた。だが最近は、いちおう店番を相方に任せてフロアを回りはするが、あまり買わなくなった。そもそも手に取らないからであろう。もちろん、規模が大きくなるということは人が増えるということだからそれ自体は喜ばしいことのはずなのだが、どんな物事もそう単純なものではない。そこにはジレンマもある。難しいものだ。

今回、ジャンルをいままでの「評論・研究│文芸批評」から「小説│その他」にかえてみることにした。特に深い理由があるわけではない。そもそも今までのジャンルが消去法で決めたもので、自分たちの冊子が「文芸批評」と言えるものなのかどうか、というのはずっと悩みの種だった。もっと言えば、私は割と早い段階から、自分が文芸批評をやっている認識はほとんどなかったし、最近ではむしろ括弧付きの「文芸批評」や「批評」からは少し距離を置きたいとすら感じていた。

横に並ぶ他の出店者の様子を見ていて、自分たちは場違いなのではないか、と常に感じていた。特にこのジャンルは半プロ集団のようなところも少なくなく、買いに来る人の動きを見ていると、かなり固定ファンがついているような感じだ。そんなところに批評をやる気のない人間が作ったものが並んでいるのはどうなのか、と思うこともあった。

また、活動が少々マンネリ化してきたこともあり、単純に景色を変えてみたいという思いが芽生えてきた。同じ所にずっといると思考が固まってくる。新しい風を、自分たちに取り込んでみたかった。

そこで選んだのが「小説│その他」。結局「小説」というのは消去法であり成長がないのだが、しかし「その他」の方は、かなり積極的に選んだ。「その他」。ある特定の名称をつけることができなかった雑多なものに暫定でつけるこの響きが気に入った。これもまたノリでつけたこの「ソガイ」という名前だが、この名前を持つ私たちは「その他」が相応しい。もし「その他│その他」というジャンルが用意されていれば、私はそこを選んだであろう。

今回、新刊はないが、せっかくなので私がぼちぼち始めようとしている製作物の試作品を少しだけ持っていってもいいかもな、と思っている。とはいえもう2カ月しかないわけで、中途半端なものになるくらいなら持ってはいかないから、蓋を開けてみたら既刊だけ、ということになっている可能性も低くはない。その点はご了承いただきたい。

私生活での変化もあったせいか、著しいモチベーションの低下に悩まされている。新しい風景、そして「その他」の感覚に触れ、自分の中で何かしらの静電気が起きてくれないだろうか。そんなことを考えている。

 

(矢馬)