吉田篤弘の作品を読むのは、これが2冊目である。『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫)は、たしか2年前くらいに読んだ。現実とファンタジーのあいだのような雰囲気と、ほんわりとこころのあたたまる話が、非常に魅力的な作品だった。その後も、気になっていたのだが、他の所用に忙殺されていて、なかなか読む機会に恵まれないまま、ここまできてしまった。
今回、この作品を手に取るきっかけとなったのは、『私的読食録』(プレジデント社)を読んだことだ。この本は、堀江敏幸と角田光代が交互で一作品ずつ、食べ物をテーマとして小説やエッセイを紹介する、といった内容の連載を書籍化したものだ。合わせて100の作品が紹介されているのだが、そのひとつに、堀江敏幸がこの、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(中公文庫)を紹介した文章があった。
なつかしい名前を見たぞ。そんなことを思っていた私は、こじらせにこじらせたインフルエンザで弱ったからだのリハビリがてら、一駅先の書店まで徒歩で出かけ、本棚を物色していたとき、この本を発見した。これもなにかの縁だ、ということで即決で購入、翌日から読み始めた。
この作品は、連作短編の構成となっている。路面電車が走る町に引っ越してきた、失業中の主人公、大里(通称オーリィ)には、ひとつの趣味があった。それは、映画館通い。しかし、それは普通の映画好きとは異なる。彼は、一昔前のマイナー映画のいくつかを、上映される度に映画館に足を運んでは、繰り返し繰り返し観ている。彼の観る映画には、ひとつの共通点がある。それは、松原あおい、という女優が出ている作品である、ということ。
彼女は、けっして大女優ではない。大里が知る限り、ひとつだけ主演作があるほかは、準主演作すらなく、クレジットはされているものの、そのほとんどが、登場時間わずかというちょい役である。大里は、そんな彼女に恋している。その大里を中心として、この物語には、そのほかに、アパートの大家・マダム(と大里がひそかに呼んでいる)や、二度の失業ののち、サンドイッチ店「トロワ」を経営している安藤、その息子のリツ、そして、毎回映画館で顔を見る緑帽子のおばあさんなど、さまざまひとびとが登場する。『それからは~』は、そういったひとびとと大里との関わり合いを描いた、ささやかな、優しい物語である。
のちに「トロワ」で働くことになる大里が、味噌汁の腕を評価され、お店の新メニューとしてスープを作ることを依頼される。試行錯誤を重ねるなかで、いくつかの偶然を経て、映画館でいつも会うおばあさんと接点を得る。このおばあさんの作るスープは、自他ともに認める絶品である。
彼女のスープには、きまった材料・作り方といったものがない。基本は、冷蔵庫にあるものを適当につっこむ、といったようなものである。特徴としてひとつ言えることは、このスープは、「主役のいないスープ」である、ということだ。飲むひとによってその味は、じゃがいもだったり、えびだったり、桃だったりして、しかも、ひと口めとふた口めでも、もう味が変わっているのだ。だから、このスープには名前がない。これが、題名のなかにある「スープ」のことである。
このスープを作るコツ、というかレシピは、究極的にはただひとつ、「とにかく、おいしい!」、このひとつを念じること。これは、『それからは~』のささやかに優しい物語のキーアイテムでありながら、ある種の換喩となっているのかもしれない。
私が購入した、中公文庫の帯には、「第8回京都水無月大賞」を受賞したことが紹介されているが、その下には、このようなあおり文がある。「もしかして これは恋愛小説かもしれない。」。これは言い得て妙だ。恋愛小説「かもしれない」、のだ。
かなり大人びたところのあるリツの関心事のひとつは、恋愛である。そんなリツに、好きなひとはいないの? と訊かれた大里は、だいぶ濁して映画女優であることを伏せつつ、松原あおいの存在を打ち明ける。その話を聞いて、リツは、遠距離恋愛ってやつだね、とませたことを言う。ここでの距離とは、映画館の席とスクリーンのなかの距離であり、大里が映画を観ている「いま」と、映画のなかの松原あおいの時間との距離である。
事実、大里は映画が好きというよりは、松原あおいが好きで、彼女に会いたいがために、彼女が出演している作品が上映されている、と聞きつければ、その出演時間がどれだけ短かろうと、映画館に出かけている。それは、片想いのようでもある。彼の、松原あおいに対する感情は、行動だけみればストーカーすれすれの執拗さも感じさせるのだが、実際に読んでいると爽やかであって、むしろ愛おしいくらいだ。
しかし、やはりこの作品を「恋愛小説」と区分することには抵抗をおぼえる。なにがいけないのだろう。ということで、試しに「恋と愛の小説」と分けてみる。だいぶ、しっくりくる。おそらくこれは、大里の松原あおいへの感情が、ほかの人物、マダムや安藤、リツのようなひとびととの関わり合いと比べて、この物語のなかでは極端に大きいもの、というわけではないからかもしれない。
そして、松原あおいに対する大里の感情は、一般的にイメージされる「恋愛」とするには、いささか純粋で、空想的であることも、要因のひとつだろう。大里は、松原あおいとどうこうしたい、なりたい、というのではない。ただ、恋い焦がれているのだ。彼自身、携帯電話の解約を考えたり、映りの悪い、古いブラウン管テレビを実家から持ってきていたり、インターネットの類いを使っていなかったり、俗世間から離れたような生活を好んでしている。また、この町も、どこか現代から離れた、懐かしさを感じさせる空気がただよっている。
恋愛、という概念がいつ生まれ、どのように変遷をしているのか、具体的にはわからないし、説明もできない。しかし、「恋愛」と、見た目では「恋」と「愛」が合わさっただけのこの単語は、くっつくことで新たな文脈が付与されて、恋とも愛とも違う、べつのものになっているのかもしれない。思えば、『つむじ風食堂の夜』で描かれる「私」と奈々津さんとの関係も、「恋愛」とは言い難い、繊細で微妙な空気で彩られていた。
つまり、私の考えでは、この作品は「恋愛小説かもしれない」が、「恋愛小説」ではない、ということになろう。
物語のなかで、大里はあるひとりの女性と出会うことになる。この私の文章でも、察しのいい方ならば気付いたかもしれない。私も、本作を読んでいてかなり早い段階で、そのことには気付いた。オーリィくん、きみは鈍いなあ、と思ったものだ。しかし、それに気付いてしまうことが、この物語の良さをそこなうことはない。この物語は、なぞを解くことを志向しているのではない。気付いたら気付いたで、そのうえで、物語の流れに身をゆだねること。そのような読み方が、よく合っている。
大きな事件は起きないけれども、不思議とぐいぐい読ませる、というより、いつのまにか読んでいる作品だ。このふたつは矛盾するかもしれないが、忙しい通勤電車のなかか、夜寝る前のお供におすすめしたい。前者ではこころにゆとりを、後者では穏やかで優しい夢を、きっと生んでくれるだろう。
(文責 宵野)