簡単な紹介
本作は朱戸アオによる漫画であり、雑誌『イブニング』で2018年2月現在も連載されている。その内容を一言で説明すれば、現代日本のある市でペストが流行していく様子が描かれている。局地的なパンデミック漫画とも言える。
タイトルの由来
『リウーを待ちながら』というタイトルは一見しただけでは、何を意味しているのか分からない。その由来は以下の様なものと考えられる。
『ゴドーを待ちながら』というサミュエル・ベケットの戯曲がある。題名にも入っているゴドーをいつまでも待ち続けるという不条理演劇*1である。最後までゴドーはやってこない。また『ペスト』というアルベール・カミュの小説がある。
その登場人物の一人にベルナール・リウーという人物がある。医師であるリウーは語り手でもあり、作品内において重要な役割を果たしている。
また『リウーを待ちながら』の中で、医学者の原神が以下のようなセリフを言う場面がある。昔読んだある本に感動してそこに出てくる医師のようになりたかったが、無理だった。だから、その先生を待っていると*2。その本こそ『ペスト』であった。
ある意味でネタバラシをしているわけだ。もっとも、あまりにも気づかれなければ元ネタとして意味を成さないわけだから、しょうがないのかもしれない。
この二作品はどちらもフランス文学であるわけだが、作者の朱戸アオはその方面に詳しいのだろうか。確かに『ペスト』は『リウーを待ちながら』の内容と直接的に関係している。どちらもペスト感染が作品の主題と言っていい。だが、『ゴドーを待ちながら』はそうでもないと思う。元々思い入れがなければ、元ネタに使おうとは思わないだろう。
ちなみに恥ずかしながら、私は『ペスト』の方しか読んだことがない。なので、この感想も『リウーを待ちながら』と『ペスト』を中心に進めていく。また単行本しか読んでいないので、この感想は現在発行されている2巻までのものとなる。
カミュ『ペスト』の紹介
『リウーを待ちながら』の前にカミュ『ペスト』の内容をもう少し、紹介したい。物語の舞台はフランス植民地・アルジェリアの要港オランである。時代は第二次大戦前後ぐらいだろうか。そして、オランで発生したペスト感染の経過が描かれている。
特徴的なのは、ペスト感染の医学的な解説をするというよりも、人々の精神的な反応を濃密に描いていることである。ペスト感染が酷くなるに連れて、人々の精神がどのように変わっていくかがこの小説の重要な見どころの一つである。もっとも、人間の精神を重点的に描くのは、小説なのだから当たり前かもしれないが。
例えば、ペスト感染がかなり進んだ段階の市民たちの様子はこのように表現される。
(前略)事実上、保健隊の人々は、もうどんなにしてもこの疲労をこなしきれなくなっていた。医師リウーは、友人たちや自分自身の態度に奇妙な無関心さが増大しつつあるのを看取して、そのことに気がついた。例えば、それまで、ペストに関係のあるあらゆる報道に対して実に活発な関心を示していたこれらの人々が、もうまるで、そんなことを気にかけなくなってしまった*3。
ちなみに保健隊とはペスト感染を防止する役割を果たしている団体のことである。そのような人々でも疲労とあいまって、非常事態が日常化していることがここでは描かれている。平和ボケという言葉があるが、これは非常事態ボケとでも表現できる事態だろう。もっと簡単にいえば、人間は事態に順応するということだ。
『リウーを待ちながら』とはあまり関係がないが、私が『ペスト』の中で特に好きな場面がある。作中で作家志望の登場人物グランは小説*4を書き、ときたまリウーに見せる。
しかし、接続詞や形容詞の使い方など文章の細かい点にこだわりすぎて創作は全く進まない。小説の最終盤で、グランは文章の形容詞をすべて削ってしまったと笑みを浮かべながらリウーに話す。推敲の正反対のようなエピソードだ。神は細部に宿ると言うが、細部に拘りすぎると文章は完成しない。
本題に戻ろう。『リウーを待ちながら』では、所々に『ペスト』の引用がなされる。また『リウーを待ちながら』を読んでいると、『ペスト』の描写が思い出されることがある。おそらく、作者が意図的にやっているのではないか。具体的な箇所は、次の『リウー』を待ちながらの内容紹介で指摘したい。
詳細な内容紹介
物語の部隊は富士山麓のS県横走市である。同市には自衛隊の駐屯地*5があり、中央アジアのキルギスへの災害派遣から帰還した自衛隊員が感染源であった。
このペスト菌が多剤耐性菌*6であることもあり、感染は凄まじい勢いで拡大していく。そして、周囲への感染拡大を防ぐために横走市は封鎖される。『ペスト』のオランと同じように。封鎖された横走市では物資が不足する。
ペスト感染自体の被害に加えて横走の人々には、人間の悪意が降りかかる。周辺の住民は横走からの脱走*7を防止しようと自警団を結成する。ちなみに脱走者が描かれるのも『ペスト』と同じである。また感染直前に横走から引っ越してきた家族に、感染を恐れた町内会の人間が更なる引っ越しを迫る。
母親をペストでなくした女子高校生鮎澤は、市外の高校に通うことができなくなった。それだけではなく、ネット上や同級生からのからかいや批難の対象となった。そんな彼女も怒りをペスト感染源の自衛隊にぶつける。また感染源の隊員は、他の隊員からいじめを受ける。自分以外の人間に怒りをぶつけ、責任を追求してしまうのは仕方のないことかもしれない。ペスト菌に感情はないのだから。
横走と福島
これらの描写から私は思わず福島での原発事故を想起してしまった。そう考えると、感染を防ぐ防護服も、放射線に対する防護服と似ているようにも思える。ひょっとして作者は意図的にこのような描写をしているのかもしれない。特に横走の人々に対するデマや悪意は原発事故の際のものを参考にしているのではないか。
例えば、ニコニコ動画風のコメント欄に横走菌大繁殖!! という文字が流れるが場面がある。現実では原発事故の避難者に対して名前に菌を付ける、放射能が伝染るから触るなといういじめがあった。
一方で放射能が感染するというのは偏見にすぎないが、ペストは確かに感染するわけだ。こちらのほうがある意味では放射線よりも厄介かもしれない。
もう少し広い観点から考えると、英語でNIMBYと言われる迷惑施設*8が立地し、その施設が災害を招いた点においてやはり横走と福島は共通している。
絶望と希望
そして2巻の途中で既に人々の間には無力感が漂っている。そのことは『ペスト』から引用された以下の文章に表されている。
「市民たちは事の成り行きに甘んじて歩調を合わせ」
「みずから適応していった」
「彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度を取っていたが、しかし
それでも本作は絶望、不幸、怒りだけで出来ているわけではない。例えば医学者原神はそもそもペスト菌をキルギスに持ち込んだのは、他国の災害救助部隊かもしれないことを鮎澤に告げる。すると鮎澤はこう尋ねる。
「じゃあその人達が悪いってこと?」
(筆者注 原神)「人助けに行ったのに?」(中略)
(筆者注 原神)「世界は複雑なんだよ」
ここで原神は原因の複雑性を鮎澤に気づかせることで、彼女の直情的な怒りを緩和している。
また治る見込みのない患者への果てしない医療活動に疲れ果てていた、医師玉木は院長の命令に逆らって特別な取り計らいをする。患者の母子二人を同じ病室に入れたのである。しかし、というか予想通り、二人とも死んでしまう。そのことに対する玉木の反応はなんとも描写のしづらいものである。
これらの希望はささやかなものである。希望というより絶望への反抗とでも形容したほうがいいかもしれない。
古典への入口となる漫画作品
今回書評で本作を取り上げたのは、作品自体の魅力もある。だが、それだけでなく古典作品に対しての尊敬が感じられる作品だったからである。また、同時に古典への入口となる漫画作品ではないかと思った。
『ペスト』は文庫本で450ページほどもある大作である。カミュは大作家であるが、現代日本でどれだけこの作品を読む人がいるのかは怪しいものだ。そもそも海外文学がほとんど読まれないようになってきているようであるし。
もちろん本作単体でも読み応えがあるが、『ペスト』を読めばより楽しめるのではないだろうか。長さはともかくとして、文章や内容自体はそこまで難解なものではない。フランス語の固有名詞が見慣れないかもしれないが。
なお以下のサイトで本作の第一話が読める。
参考文献
『リウーを待ちながら 1巻』(2017) 朱戸アオ 講談社
『リウーを待ちながら 2巻』(2017) 朱戸アオ 講談社
上記はいずれもkindle、電子版である。
『ペスト』(2011) カミュ 宮崎嶺雄 訳 新潮社
ゴドーを待ちながら(ゴドーをまちながら)とは - コトバンク
(最終閲覧2018年2月14日)
震災6年 埋もれていた子どもたちの声 ~“原発避難いじめ”の実態 - NHK クローズアップ現代+
(最終閲覧2018年2月14日)
また巻数を付しているものは全て『リウーを待ちながら』からの引用である。いちいち題名を付けると膨大になるのでこのような形を取った。
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