いちおう私はこういったブログを運営しているわけだが、正直な話、文学研究や批評の類の文章を読んでいても、よくわからないことが多い。それは、自分の頭が追いついていないせいだ、と思って後ろめたさのようなものを感じていた。いや、その意識自体はいまも変わらないといえば変わらないし、事実そうなんだろうと思うが、いまは、そのわからなさも楽しめるようになってきたと思う。
わからない、わからないを繰り返していくうちにふと、自分の経験なんかも思い出されながら、あ、なんかわかってきたかも、と感じられる瞬間がくる。それは拙いし独自の理解かもしれないが、これがけっこうおもしろい。やがてその内容を忘れてしまっても、頭か心か、とにかく自分のからだのどこかにその残滓は残っているものらしい。
とはいえ、それこそ私の頭が追いついていないせいなのかもしれないが、これはわざと難しく書いているのではないか、お高くとまっていないか、と思わずにはいられない本も少なくない。もっとも、その著者にとって私などは想定されていない読者である、というだけの話なのかもしれない。それなら構わないのだが、難しく書けば高級になる、という意識がどこかしらで働いている結果なのだとすれば、それは由々しき事態だと思わないでもない。
批評でも文学でも、最近はそれらのものが読まれなくなってきている、と嘆く声はしばしば耳にするが、もしその種の「選民」意識というか、「高級」意識があるというならば、それも仕方がない話なのでは?と自戒も込めて、思ったりもする。(だからといって、通俗的に書けと言っているわけでもない。念為)
私はこういった畑の端くれにいちおういる人間だから実際のところはよくわからないのだが、近代文学は難しい、と一般的には思われているのだろうか。たしかに、背景にある文化の違いがあるから、そこで戸惑うことはあるだろう。夏目漱石を読むときの東京と現代小説の東京は、もはや別物である。それ以外でも、たとえば『坊っちゃん』における東京と松山の距離を、いまの感覚で読んではならないだろう。また、多少言葉の使い方や語彙に時代差がある。
そういった問題があるにはあるが、実感として言わせてもらうと、むしろ現代の純文学と呼ばれる小説よりはよほど、漱石だったり芥川だったり、なんだったら横光利一のようなちょっとクセもある?近代作家の作品のほうが読みやすいと思う。(もっとも、漱石といえば『吾輩は猫である』のイメージがあるだろうが、あれはなかなか難しい作品だろう。)
個人的に、やっぱりもっと多くのひとに近代文学を読んでほしい。おもしろいうえに、古い作品を読むことで現代に生きる自分を相対化できるというか、もうひとつの目を養うことにも結果的にはなると思うし、なにより、これらの作品は文庫で大変安く買うこともできる。小説への入り口として、これ以上のものはないと思う。
そんな私の漠然とした思いを果たしてくれる本を、最近見つけた。
近代を見直すことは、自分がいる〈いま・ここ〉ではない、さまざまな「地点」に立って近代とは何かを炙り出しにすることだ。古典を学び、歴史を学び、社会を学び、世界を学び、そして近代そのものを深く学ぶことが、私たちが寄って立つ「地点」を基礎固めしてくれる。学問がそれに当たるだろう。しかし、学問の殻に閉じこもっていたのでは、前には進めない。現在の学問は専門の領域に閉じられているからである。いやしかし、学問は閉じられているだろうか。閉じられた学問という見方は虚構ではないだろうか。(10頁)
『近代という教養 文学が背負った課題』(石原千秋 筑摩選書)は、まさに日本の近代文学が始まったころの明治文学を、主には「進化論」*1という、これまた欧米列強に追いつけ追い越せで近代化していった明治の日本を支えたイデオロギーを横に据えながら、丁寧に述べたものである。付け加えると、引用した文章からもわかるように、ここにはアカデミズムに対する批判の姿勢も含まれている。
全八章に渡る本書を通読すれば、明治文学を読む際の心構えのひとつができるようになるだろう。ついでに、といってはなんだが、現代日本を生きる私たちにとってもまったく無縁ではあり得ない進化論について、そのアウトラインを理解することもできる。限りなく小さく見積もっても、一石二鳥である。
丁寧に論が進められている本書であるが、だからといって簡単なわけではない。私はこの著者の『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス)を読んだこともある。
この本も、読者論のアプローチを実践的に体験することのできる良書だと思うが、決して簡単ではない。専門書や学術論文からの引用もある。しかし、流れに沿いながらそれをゆるりと解説してくれるので、そこではいったんスピードを落とし、理解ができたと思ってからもう一度引用の箇所を読んで、再び進む、という読み方ができる。しかも、周辺知識も適宜補ってくれるので、理解も進みやすい。入門にもうってつけだし、また近代文学を読み慣れたひとであっても、より広い視野を得ることができるだろう。
どの章もおもしろいのだが、個人的に、白眉は第二章「進化論の時代」ではないかと思う。
まず前提として、幾度として語られる「進化論的パラダイム」をはじめとする「パラダイム」。これがもっとも大きな力を発揮するのは、それが「自然」となったときである。もはやそこに疑問を挟むものはいない、というその状態が、一番強いのだ。小説も社会のなかで書かれる以上、その社会を覆うパラダイムから完全に自由でいることはできない。それが、ここでは「進化論」なのである。
ここでいう「進化論」とは、ざっくり言ってしまえば、すべての事象は時間を追って改良されていき、新しいものが一番良い、という考え方だろうか。とりわけ近代では、それは競争によって引き起こされるものだった。いまだってそうだろう。資本主義の市場経済とは、環境に適応して「進化」した者が勝つ。その一言に尽きるとも言える。近代は、この進化論の考え方に覆われた時代である。
著者は、まず大学の講師としての経験から、進化論と時間の関係について語る。現代では、電車のダイヤに代表されるように日本人は時間をよく守る、という言説があるかもしれない。(その対比として、沖縄のひとが時間にルーズであることが沖縄県民の特徴として取りあげられたりする。)しかし、明治期においてはむしろ、欧米人の方が時間に厳しかったようだ。第一、江戸時代に、一般庶民にまで精巧な時刻を示す時計が普及していたとは思えない。
それもそのはずで、西洋において時計が発明されたこと、時刻の支配が統治の象徴として機能したこと、安価な時計が流通し、それを身につけることがエリートの証となったことがそもそも大きい。それまで、日が出ている時間と沈んでいる時間、という不定時法を用いていた日本にそれがもたらされたこと自体が、近代化の象徴なのだ。では、日本においてそれはどこで国民に植え付けられたか。「鉄道・工場・学校」である。なんだか『監獄の誕生』(ミシェル・フーコー)を思い起こさないでもない。
では、なぜ西洋では時間が重視されたのか。それは「生存競争が激しい」からだ、と当時の実用本は語っている。ここでぬるりと引用されるのが、夏目漱石の『草枕』の一節である。漱石の文明批判として有名なその一節を引用し、「時間による人間疎外(非人間化)」への批判を読み取るその刀で、今度は『行人』にみられる、速度への恐怖を読み取る。
ここから、「進化」という言葉の裏にひそむ「競争」というワードを、当時の自己啓発本や、家族のあり方の変化、詰め込み教育からゆとり教育あぶり、そして脱ゆとり教育、電電公社の完全民営化とKDDIの設立、きわめつけにグローバリゼーション、といった、様々な事象を持ち出してあぶり出す。このあたりの流れるような論理は見事だ。
さて。だがここからが凄い。次に出てくるのは「優生学」である。
いまさら説明するまでもないだろうが、優生学とは「不良」な遺伝子を持つ者を排除することで、その人種の健康は保たれる、という思想である。進化論で有名なダーウィンの従兄弟のゴルトンが提唱したとも言われるこの思想は、ナチスドイツのユダヤ人虐殺の根拠になったことで有名だろう。しかし、日本も無縁ではない。丘浅次郎『進化論講話』(明治37年)がその権威だそうだが、要約すれば、「虚弱な体質の者を医療で助け、その者が子どもを作ると虚弱は遺伝していく。するとめぐりめぐって日本人は弱くなる。だから淘汰するべきだ」。現代からすればトンデモ思想である。
だったらこれは、あくまでも日本の過去のものでしかない、ということになるだろうか。いや、つい最近も話題になったではないか。日本にはつい最近まで、「優生保護法」という法律があった。
1940年に「悪質なる遺伝性疾患」を断つために制定された「国民優生法」を受け継ぎ、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と条文にあるこの法律が制定されたのは、1948年。つまり戦後である。1996年に「母体保護法」となって、ようやく、障害者に対する差別的な条文が削除された。たった20年ちょっと前のことである。*2
では法律がなくなって優生思想もなくなったか、と言えば、それも違う。たとえば、出生前診断や、出生前の遺伝子治療。倫理上問題があるとして議論が紛糾しているこれらの「技術」だが、素人目に見ても、そのような議論が巻き起こることは容易に想像ができたはずだ。それでも医学が、そのような技術を生み出してしまうのは、やはり優生思想=善、医学の「進化」=善というパラダイムに支配されているからではないだろうか。
論はその後、歴史の記述についてに進む。これはざっくりまとめれば、歴史は、あとから各々の出来事を恣意的に選択して作った因果関係によって作られるものでしかない、ということ。その因果関係がリアリティを持つかどうかは、その時代の「読者」の感覚に委ねられているにすぎない。これは、小説においても言えることだ。
「近代という時代を因果関係を持った連続した歴史と認識させる装置」、それが「進化論」だったのである。*3これにより、歴史はあるひとつの方向、つまり時間の流れに支配されて変わるもの、と認識されるにいたったのである。
最後に利子についての話もあるのだが、これについてはざっくりと。利子とは、時間が進むにつれて大きくなるものだ。時間と利子は、切り離せない関係にある。ここではベケットの『ゴドーを待ちながら』が引用されている。)
以上を踏まえた結論は、「文学史」の否定だ。文学史もまた、進化論的パラダイムに支配された物語だからだ。
そこまで長くはない章で、これだけの内容がつまっている。参照元もさまざまで、有名どころだけでも、うえに挙げた以外に、真木悠介、ギデンス、レヴィ=ストロースなど。
近代文学だけの問題に止まらない。そして近代だけにも止まらない。入門、概観として優れた文章だと思う。
もう一度引用しよう。
近代を見直すことは、自分がいる〈いま・ここ〉ではない、さまざまな「地点」に立って近代とは何かを炙り出しにすることだ。古典を学び、歴史を学び、社会を学び、世界を学び、そして近代そのものを深く学ぶことが、私たちが寄って立つ「地点」を基礎固めしてくれる。学問がそれに当たるだろう。しかし、学問の殻に閉じこもっていたのでは、前には進めない。現在の学問は専門の領域に閉じられているからである。いやしかし、学問は閉じられているだろうか。閉じられた学問という見方は虚構ではないだろうか。(10頁)
文学が、いったいなんの役に立つ?
そのしたり顔の問いに対する答えには、とりあえず本書を読んでからでも遅くはないのではないだろうか、と言っておく。*4
もし、この本を読む時間すら惜しい、と自分から問うたくせにそう答えるひとがいれば? 「進化論的パラダイム」は本当に現代にも跋扈しているんだな、とフィールドワークができた、とでも考えておけばよいだろう。
その目があるか、ないか。それだけで、これからの生き方はやがて大きく変わっていくだろう。
文学は、閉じた学問ではないのだ。
※引用は、石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』(筑摩書房 2013年1月)より
(文責 宵野)
*1:厳密に言うならば、ここで語られる「進化論」は社会進化論であろうし、また、進歩史観も包括する。
*2:ニュースでは、実際に「優生保護法」に則って手術をした医者がインタビューに応じていた。曰く、そのときはなにも疑問を抱かなかった。言われたとおりに手術をしてしまった。国への責任転嫁にも思えるかもしれないが、きっと素直な告白だったと思う。しかし、『近代日本一五〇年』(山本義隆)を最近読んで、現在にいたるまでの日本の権力と科学技術の関係を知ってしまった身としては、医学もまた、権力の手先となっていたことを再認識せざるを得ない。また、最近『BLACK JACK』(手塚治虫)も読んでいるが、医学博士でもある手塚治虫があの戦争のあと、権力を嫌悪する無免許医師というキャラクターを生み出したことについても、もう一歩踏み込んで考えたくなる。
*3:歴史は時間が進むのに沿って改良されるものであるとする進歩史観の考え方は、いまやパラダイムになっているだろう。しかし、近代以前の日本では儒教的な思想が広まっていた。儒教では、古代中国の堯舜の治政を理想とする。つまり、いまでは当たり前のように受け取られている進歩史観は、この国には近代になってからようやく入ってきたものだった。
*4:本書に書かれている内容に限らず、文学と社会は切り離せないものである。私は、物語のひとつの形でのある「文学」(極端な話、世の中の大抵の事象は「物語」のかたちになってはじめて、認識されていると言える)というものには大きな力があると思っている。それは正と負、両方向の力である。文学は、ときに権力と結びついて利用され得るものだ。
タイムリーなだけに、残念ながら付け加えないではいられない。アニメ化も決まっていたライトノベル『二度目の人生を異世界で』についての問題だ。中国や韓国に対するヘイトスピーチ的な内容の、作者の過去のツイートが明るみに出て大きな問題となっているこの作品であるが、アニメ化が決定するくらいであり、売り上げ自体は好調だった。もちろん作者のプライベートとその作品は、ある程度わけて考えるべきだと思う。たとえば、同性愛者の主人公の話を書いたからその作者は同性愛者である、と決めつけるのはあまりにも短絡だ。この手の読み方、読まれ方がいまだに横行しているのは残念なことである。蛇足ではあるが、そもそも同性愛者であることがスクープとなってしまう社会自体が、進歩史観がいかにあやしいものであるのかを証明していまっているような気もする。
閑話休題。しかし、「ある程度」というのは「ある程度」であって、まったく切り離すこともできないだろう。(そもそも、0か100か、という二項対立的な発想そのものが、種々の議論を泥沼化させているのではなかろうか。)今回の件は、そのツイートの過激さや内容(第一、まがりなりにも作家という、言葉を売り物にする者があのよう言葉や文字の使い方をする、誤解を恐れずに言えば、言葉や文字を「犯している」ことなどは、まったくの問題外だと思う。)と作品の設定(明らかにかの大戦を思わせる時代に、戦地で膨大な数の人間を斬り殺した軍人が、大往生したのちに異世界に転生する、というもの。)から判断するに、分けて考えることは困難なように思われる。それでも、作品としておもしろければいいのか。もちろんそういう意見もあるのだろう。
たしかに、思想は自由だ。どんな過激なものであったとしても、それはこの国の憲法によって保障されている。しかし、それは内心にとどまる限りに、である。ここを忘れてはならない。だれでも気軽に発言ができる時代だからこそ、自らの思想を公の場に出すという行為の結果を、もっと真剣に考えねばならない。作家は、その作品が流通するに当たって、どうしたって自らの名前がついて回るのだ。作者は簡単には死なない。
しかし、私が今回、この作者以上気になったのは、これを出版しようとした版元、そしてアニメ化に踏み切ろうとした制作陣である。彼らもまた、おもしろければいい。そう判断したのだろうか。いや、それ自体はこの際不問にしよう。しかし、だとしてもこの設定で流通させてしまったこと、そしてSNSの発言ひとつで炎上することが、それこそ火を見るよりも明らかなきょうび、作者のSNSの発言を確認しなかったこと、など。ここにおいて「編集」は、いったいどこに存在しているのだろうか。まともに中身を読んでいないのではないか。そのように疑えてしまうくらいだ。もちろん、それ相応の信念があってこの作品の書籍化に踏み切ったというなら、それも表現・出版・思想の自由として尊重されるものだと思う。(もっとも、これらの自由は他の基本的人権と抵触するときには、比較衡量や公共の福祉の観点から制限されることもある。)しかし、もし彼らが今回の出来事をまったく予想すらしていなかったのだとすれば、あまりにも杜撰、と言わざるを得ない。これでは、なんのために編集者がいるのかわからない。あるいは、この版元は校閲もまともに機能していないのではないか。
ネットでの反響の数字を見て、この作品を書籍化した出版社や編集サイドは、書籍として公の場にそれが流通する、という事態にはらむ影響力の強さや、あるいは権力といったものに、あまりにも鈍感で無頓着だったのではないか。いくら、最近のそういった類の小説群がほとんど消費財のようなものになっているとはいえ――いや、はっきり言わせてもらえば、むしろ大衆的なものこそ強く権力と結びつき、受け手のなかでそれが培養されていくことだってあるのだ。
今回のことは、特殊な事例と見なすべきではない。著名な作家や文筆家、学者のなかにもあやしい人物は少なくないからだ。
だからこそ、私は今回の件を経てさらに、本書の著者が次に目指そうとしている「近代文学研究から社会への発信」の仕事、その姿勢に強く期待を寄せ、また自分もそのような眼を持ち続けよう、と心に誓った。