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遅読のすすめ~宮沢章夫『時間のかかる読書』を参考に~

 どこを歩いていても書店を見つけては吸い込まれ、一時期は書店に勤めていた人間として感じるのは、相変わらず「速読」本は、ひとつのコーナーを作れるほどには店頭に並んでいる、ということだ。

 なにを隠そう、私自身、高校生の頃だったと思うが、何冊かの速読本を購入してその技術を習得しようとした身である。一日に三冊もの本を読めれば、受験勉強だって当然はかどるだろうし、いかにも頭が良さそうではないか。いま思えばあまりにも安直な動機だった。第一、その速読本をゆっくり読んでいたのだから、まったくもって矛盾もいいところである。

 当時以上、というよりも比べものにならないほどに読みたい本、読まねばならない文章が増えている現状、速読ができるひとの話や、その効能を聞くと羨ましいことこの上ないのであるが、しかし、もうここは諦めている。自分には合わなかったのだ。(受験勉強も、結局は効率からはどこかずれた勉強法に落ち着いた。)

 

 念のため付け加えると、速読そのものを否定する気はない。時間は限られているなかで、可能な限り多くの文章を読めるのだったら、それに越したことはないと思う。ただ、これは私が小説読みということもあるのかもしれないが、速読信仰には少々の違和感、抵抗感を覚える。

 なんだったら、私は比較的文章を読むのは速い方であるらしい。しかし、それはあくまでも「読むのが速い」だけで、その要因があるとすれば、せいぜい、多少、ひとよりは多くの文章を読む習慣があって、読むことに慣れているから、くらいのものだろう。「速読」技術があるからではない。そう、速読は技術なのだ。

 たとえば、文章を読まずに写真として記憶する、とか、いちどに3行の文章を見る、とか、あとはいわゆるスキミングをする、だとか。もはやそれは文章を読んでいるのかよく分からなくなってくる。これは慣れによって得られるものというよりは、テクニックに近い。だから、それ専用の鍛錬が求められる。それゆえに、速読本という指南本(ハウツー本)が成り立つのだ、と言えよう。

 ところで、速読には眼筋の強さが求められるようで、練習のなかには眼筋トレーニングが用意されていることもある。思わぬ効能として「近眼がなおる」というのもあって、弩がつくほどの近眼である私はその文句に惹かれたところもある。

 

 さて、速読本が置かれているのは、ビジネス書のコーナーであることがほとんどだろう。私のような人間がビジネスを語るのも我ながら片腹痛いのだが、ビジネスの基本は「効率化」ではないだろうか。すると、速読は非常に相性がいい。

 私が読んだ速読本にも、速読のおかげで毎朝のメールチェックの時間が短くなった、という成功体験が語られていた。いや、そもそも世のビジネスマンは毎日それだけのメールに追われているのか、そりゃあ労働生産性が上がらないわけだ、と変な納得をしてしまったわけだが、それは措く。

 速読を求めるひとはつまり、かつての私と同様、効率性を求めているのだと思う。気持ちはわかる。しかし、なぜかこれだけのビジネス書が出ている出版状況であるから、こんなことは言わない方がいいのかな、とも思うのだが、いまの世の中、読書ほど効率の悪い情報収集の方法はないのではないだろうか。これはスピードももちろんだが、物理的な面においてもそうだ。満員電車のなか、本を読むよりはスマホでニュースサイトを見る方が手軽だろう。周りから白い目で見られることもない。(本読みには厳しい世の中である。)

 そういうわけで、私はあるときから読書に対して効率を求めることをほぼ完全に放棄した。すると、生活の多くの場面でも効率をあまり重視しないようになり、周りから見ればじれったいのかもしれないが、私の心身は不思議と良い方向に進んでいる。

 というよりは、世の中があまりにも効率を重視しすぎている。たとえばそれは、コストパフォーマンス、という言葉に象徴されるだろう。この種の言葉は往々にしてその適用範囲がもとの意味を超えて広がるものだが、このコストパフォーマンスもその例に漏れず、「コスパ」と略され(だいたいこの種の用語は、略されて広まると碌なことがない。)、生活のあらゆる場面で用いられているようだ。結婚や子どもを持つことにさえ「コスパ」の概念が持ち込まれるのだから、なかなかなものである。

 「コスパの悪い」ものは徹底的に排除される。これはかなり怖い。

 だれも、進んで無駄をしろ、と言うのではない。しかし、「コスパ」追求のなかで見落とされているものがないだろうか、と私は不安だ。自分の行動が無駄になってしまうのではないか、と恐れて最初から動けなくなる、という例をしばしば聞く。コスパが悪いことは社会悪である、という風潮に絶えずさらされていれば、それも当然と言ったところだろう。

 だから、部下に対しても効率を常に求める経営者が、若者のチャレンジ精神の欠如を批判するのは根本的に矛盾している。チャレンジ(challenge)には「難問」という訳もある。成功すればいいが、失敗すればそれはまるまる無駄なコストでしかない。だったら、最初からそんなリスクを取らない。そういった発想に行き着くのも、まあ無理はないだろう。

 

 さて、ここに『時間のかかる読書』(河出書房新社)という本がある。

 劇作家・演出家であり、芥川賞候補の経験もある小説家でもある宮沢章夫が、横光利一の短編小説『機械』を、なんと11年以上かけて読んだ、その記録である。厳密には、その11年の間に何度か通読もしているらしいのだが、ともかく、ひとつの短編小説の読書録を、ひとつの雑誌(『一冊の本』(朝日新聞出版))で10年以上も連載し続けた、ということからして衝撃的である。「速読」に対する「遅読」の極地、とでも言ったところだろうか。

 内容については、ここではあまり入り込まない。というのも、この本を私がここでまとめてしまったら、それこそ興ざめだと思うからだ。かなり脱線も多い、というよりも脱線に次ぐ脱線、いや、脱線そのものが推進力、とでも言ったような趣で、それを味わうには愚直に前からひとつずつ読んでいくのが唯一にして最良のこの本の読み方だろう。ちなみに頭には横光利一『機械』の全文が載っているので、いちど読んだことのあるひとも、予め読んでおくとよいだろう。私もその口である。

 

 なので、ここではあとがきに触れたい。

 宮沢は、ほかの自作の文庫化に際して解説を書いてくれた知人に、「その世界の専門家でありながら常に門外漢のような書き方をする」と指摘されたことに触れる。

「門外漢」と聞くとマイナスのイメージがあるだろう。しかし、ここでの「門外漢」はむしろメタ的な態度、と言い換えられる言葉だ。「専門家」であることは悪いことではない。しかしそれが「オタク的」になりすぎないようには注意したいものだ。これもまたさじ加減の問題ではあるが、外への視線を失うと、対象に対する視野も狭まり、豊穣だったかもしれないその対象の可能性をはなから無視することにもなりかねない。文学で言えば、批評オタクになると、まず第一に、小説・物語としておもしろいかどうか、という視点を見落として、もっぱら批評の観点からしか評価しない、という危険性もある。

 その「門外漢」の視点を無意識のうちに持ち続けていた宮沢は、この遅読の結果を、こう振り返る。

作者は「屋敷」の死そのものより、「屋敷」が死ぬことによって動く「私」の意識をこと細かに描写する。専門家は『機械』を通じて横光利一を子細に分析するだろう。あるいは「ネームプレート製作所」を「隠喩」としてすぐれた解釈をするだろう。だが、ゆっくり読むこと、ぐずぐず読むことによって、細部のどうでもいいような言葉から、どこか魅力的な「誤読」ができたと自負する。はじめに書いたように、それは「批評的」なまなざしの誤読だ。「誤読」だと宣言するのは責任を放棄するようで卑怯だが、わたしにはそれしかできなかった。むしろ「誤読」こそが『機械』にとって正しい態度だと、十年以上という「読み」の時間の蓄積の中、少しずつ感じてもいたのである。(288頁)

 「遅読」ゆえの「誤読」。速読が正しい内容把握への超特急であるのとは、まるで反対だ。

 この「誤読」というのも、私の好きな言葉である。第一、小説の読みに絶対の正解なるものなどない。それは、たとえ作者が、「自分はこういうつもりでこの場面を書いた」と宣言しても、だ。

 読者論っぽくなるが、作品は、書き手と読み手の共同作業によってその場ごとに生成される。それは刹那的でさえある。ひとりの読者であっても、1度目と2度目で感じるものが異なることだってざらだ。作品とはそういうものなのだ。

 

 この本にはひとつの特徴がある。それは、毎章の見だしに、そのとき現実に起きた事件や出来事が付されていることだ。俳優の死や、オリンピックの開幕、イチローの安打記録更新など、内容もさまざまだ。これは特に本書の内容に関わるというほどではない。しかし、作品が戦前の、しかもフィクションであったとしても、現実とまったく隔絶された読書というものはあり得ない、ということを示しているのかもしれない。私はいちおう、「テクスト至上主義」に懐疑的な立場を取っているつもりであるのだが、それも以上のような考えに依っている。実のところ、現在の私の考え方は『時間のかかる読書』に触発されているところも大きいのだ。

 いまはこうして書評のようなものを書いたり、ときには論文チックなものを書いてみたりもしているが、とりわけ書評については、「そのときの私の読み」を提示しているにすぎない。印象批評だ、と批判されれば、たしかにその通りなのかもしれないが、私は自分の読みが絶対の正解だとは思わないし、そうでありたいとも思わない。読書とはそういうものだ、と思っているからである。

 

 もっともそれは、ゆっくり読めばいい、といった単純なものではない。それは、必ずしも速読がいけないというわけではないのと同様だ。

 結局のところ、その読書経験を生かすも殺すも自分次第だ。最後の最後に放り投げる形にはなってしまったが、しかし、他人任せの態度ではいけない、というのはなにも読書に限ったことではないだろう。

 

底本 宮沢章夫『時間のかかる読書』河出書房新社 2009年11月初版

(少し前に文庫化もしたそうです。また、日本近代文学館が主催する「夏の文学教室」の4日目(8月2日)に宮沢章夫さんが登壇され、『機械』についてのお話をされる予定だそうです。有楽町よみうりホールにて。当日券もあるのでお時間のある方は是非。

夏の文学教室 - 日本近代文学館

(文責 宵野)