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人生の童話~『雪のひとひら』書評~

 新装版が1冊と文庫が2冊、となぜか3冊持っている小説がある。(2冊目の文庫はちょっとした行き違いによるものだが。)ポール・ギャリコ『雪のひとひら』(矢川澄子訳)である。

 題名通り、「雪のひとひら」と作品内で呼ばれる一片の雪の結晶を主人公とした物語、といってしまえば、いかにもメルヘンな感じもする。間違ってはいないのだが、だとすればこれは、なかなか先鋭的なメルヘンかもしれない。動植物が主人公となって言葉を話す物語なら、しばしば見かける。しかし、無機物、しかもそれが一片の雪となれば、話は別だ。

 そんな独創的な主人公を立てて語られる物語の主題は、「愛」や「ある女性の一生」、あるいはそれをもひっくるめた「運命」だ。

 

 ある日、雪のひとひらは空から降って、地上に舞い落ちる。自分はいったい、いつ、どこで、なんのために生まれたのか、なにひとつとしてわからない、雪のひとひら。そんな彼女の旅が始まる。その旅とは、青くさいことは承知で喩えるなら、「人生」という名の旅路である。

 最初に舞い降りた村では、自然のさまざまな風景にときめき、可愛らしい少女に出会ってうきうきした日々を送っていた。しかしある日、雪のひとひらはその少女と友人の手で雪だるまの鼻にされた。そればかりか、その雪だるまは、少女たちの学校の校長先生の目につく。雪だるまは、この校長先生を揶揄したものだった。激昂した校長先生は雪のひとひらもろとも雪だるまを踏み潰す。

 そのうえからさらに雪が降り、夜には表面が凍って、冬の間、雪のひとひらは顔を出すことができない。次に顔を地面から出し、太陽と再会するとき、それは春、いうなれば青春の始まりだった。雪解け水として川へと流れた雪のひとひらは、その流れに乗って、最期の瞬間まで終わることのない旅へと出発するのだった。

 いったん丘を下りはじめてからというもの、雪のひとひらは、どうしても立ちどまることができなくなっていたのです。彼女には知るよしもないことでしたが、これは長旅のはじまりであり、あとはただひたすら走りつづけなくてはならないのでした。いのちあるかぎり、二度とふたたび落着く日はないのでした。(52頁)

 これはけっこう重い表現ではあるが、人生というものを端的に表わしているかもしれない。そして、このあたりから物語のスピードは一気に上がる。この数頁後、雪のひとひらは早くも、「自分もつくづく大人になったものだ」と感じるのだから。

 雷だったり水車だったり、雪のひとひらにはいくつもの苦難が襲う。同時に、どうしようもない寂しさに襲われる。それはこういった理由による。

 なにより気が滅入るのは、自分がひとりぽっちだということでした。なるほど、彼女は四方八方から自分そっくりの仲間たちにとりかこまれてはいましたが、そのこと自体が雪のひとひらをよけいさびしく思わせることだった、というのは、彼らはいずれもわがことにかまけているばかりで、どこからも友情のささやきはきこえてこなかったのです。だれひとり、彼女のことをかまってもくれなければ、こちらがどうなろうと我関せずなのでした。(63頁)

 そんな彼女の生活を変えるのは、ひとりの男性「雨のしずく」との出会いだった。やがて伴侶となるひととの恋により、彼女は人生最高潮の幸せを迎える。そのすぐあと、ふたりは湖に入って、まさしく、つかの間の安寧の日々を手に入れるのだ。

 

 これでちょうど物語の半分、といったところだ。雪と雨の恋、と考えるとたしかに非現実的かもしれないが、中身は、本当にいたって普通の女性の生活である。

 ということは、これからの彼女にはいくつもの試練や災難が襲いかかり、そして老いや別れが待ち受ける。童話チックな物語でありながら、このあたりは本当に重い。しかし、これが本当に人間を主人公にして同じ話をしたならば、あまりにも暗い話になってしまっただろう。主人公を雪のひとひらという女性にしたことで、人類に普遍的な重いテーマについて、まだ軽やかに語ることに成功しているように思われる。

 

 数々の別れを経て、最期のときを迎えるまでの雪のひとひらの自問には、全体から比してかなりの分量が割かれる。自分はなんのために生まれたのか。どうして最期は死ぬことが分かっているのに、生きねばならないのか。

 臨終のこのときにあたり、雪のひとひらの胸にはおさない昔の日々のことがよみがえり、いままでついぞ答えられなかった数々の疑問が舞い戻ってきました。何ゆえに? すべては何を目あてになされたことなのか? そして何より、はたしてこれは何者のしわざなのか?

 いかなる理由あって、この身は生まれ、地上に送られ、よろこびかつ悲しみ、ある時は幸いを、ある時は憂いを味わったりしたのか。最後にはこうして涯しないわだつみの水面から太陽のもとへと引きあげられて、無に帰すべきものを?

 まことに、神秘のほどはいままでにもまして測り知られず、空しさも大きく思われるのでした。そうです、こうして死すべくして生まれ、無に還るべくして長らえるにすぎないとすれば、感覚とは、正義とは、また美とは、はたして何ほどの意味をもつのか?(133、4頁)

 物語のなかで繰り返し語られる、この「何者」。これは、原文では「He」と表記される。大文字の「He」は、もちろん「神」のニュアンスを持つ単語である。神によって作られ、神のもとに帰る。そう言ってしまえば、これはなんと宗教的な童話か、ということにもなろう。

 しかし、たとえギャリコの宗教観が分からずとも、雪のひとひらの一生の小説が「救い」の物語であることは、きっと理解されるだろう。なにひとつとして意味のないものはない。痛み、戦い、愛するものとの別れ、老い、孤独……。そんなものに苦しめられながら、それでも生まれてきた理由が、ぜったいにある。そしてそれは、最期には必ず「He」によって迎えられることで報われる。だからこれは、人生救済の物語なのだ。

 突飛ではあるが、しかし私はここで、この作品が1952年に発表されたこと、そのときポール・ギャリコはすでに50代であったことを考えてしまう。

 ニューヨーク生まれの彼にとっての戦争、そして戦後は、日本人にとってのものと当然異なるだろう。*1しかし、彼もまた戦争を経験した世代、そして終戦後まもなくこの作品を書いた、ということに込められているのかもしれない意思。

 あの、無数の命が声もなく消えていく戦争の最中、そして戦後の荒廃した社会のなか。なんのために自分はこの世に生まれたのだろう、と雪のひとひらと同じ疑問を抱えずにはいられなかったひとは、きっと多かったのではないか。

 それでも生きていく、あるいは、生きていかねばならない。そんな人々への応援歌として、この物語は書かれたのではないか。

 この考えに、なんら実証はない。それでも私は、そんな風に考えてみたい。

 

底本 ポール・ギャリコ『雪のひとひら』矢川澄子訳 新潮文庫 平成20年12月発行

(文責 宵野)

*1:この時代、アメリカは戦禍をほとんど受けなかった戦勝国として、「黄金の時代」と呼ばれるポジティブな時代でもある。しかい、だとすればこそ、その時代にこのような、人間の根源に関わるような重いテーマを扱った小説を、しかも童話チックな仕立てで書いたことに、考えるところがあるかもしれない。