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世界から見捨てられた人々、世界を見捨てる人々 『ファイト・クラブ』から見るテロリズム

 テロリズム、あるいは個人かせいぜい数人の集団による無差別殺人は現代を特徴づける一つのキーワードかもしれない。これらの事象は国内に限らなければ、それこそ毎日のように発生し続けている。それらの原因は政治、経済、宗教、民族など様々な要素に分解されるだろうが、根底にはもっと原初的な欲求があるのではないか。

 つまり現在の世界は無価値であり、それ故に徹底的な破壊が許される。むしろ徹底的に破壊することは善行でさえある。そして、その後素晴らしい新世界を作り直さければならないという二つの欲求である。

 パラニューク*1著『ファイト・クラブ』はそんなテロリズムと深く関わっている作品である。

パラニュークはテロリズムに取りつかれているようにも見える。

 『サバイバー』解説より ページ番号は振られていない。

 

 と翻訳家の柳下毅一郎が的確に指摘するようにパラニュークはこの作品に限らず、テロリズムを題材としている。しかし、その描き方は奇妙で、どこか空想的な形だ。

 『サバイバー』では主人公はいつのまにやら飛行機を乗っ取ってしまい、テロリストになってしまう。いつのまにかテロリストになるというのは、実に奇怪な表現だが実際にそうなのでしょうがない。

 そして作者の代表作でもあり、映画化もされた『ファイト・クラブ』では殴り合いを目的として結成されたファイト・クラブが徐々にテロ組織と化していく。クラブの創始者である主人公*2はその変化に戸惑っていく。

 ここで重要なのは主要人物として、主人公の相方として登場してくるタイラー・ダーデンが主人公のもう一つの人格だったという設定である。この設定はこの小説が一人称であることを活かした小説技術として、あるいはエンタメ的な効果狙ったどんでん返しとしても語れるかもしれない。だが、より重要なのは主人公が二重人格になった物語的な理由だろう。

 主人公は生きている実感を得られずに不眠症に陥っていた。そんな事態を解消するために主人公が最初に選んだのは難病患者たちの互助会であった。主人公と同じように仮病を使って、互助会に参加していたマーラ・シンガーはこう言う。

 生きてるって実感できる。肌に透明感が戻った。生まれてこの方、死人を見たことがない。対比するものがなかったから、生を実感できなかった。

『ファイト・クラブ』p49 以下全て同書からの引用。

 

 主人公と違い、マーラは自分が互助会に参加する資格が無いことを隠そうとはしない。女性にもかかわらず、精巣癌患者の集会に参加するほどだ。そんな彼女の登場によって自分が仮病であることを痛感させられ、互助会から生の実感を得られなくなった主人公は吐露する。

 これはぼくの人生でただ一つのリアルなものなんだ。それをぶち壊すな。 

p27

  主人公は自分が乗っている航空機が墜落する様子を空想し、実際に起こることを願いさえする。明らかな破滅、自殺願望である。何故、彼が生きている実感を得られず、このような破滅願望を抱いているのかは作中からは明確な理由が読み取れない。

 ただ、一つ言えることは彼が現在の自分の人生にうんざりしていたことだろう。生きたいように生きられず、雑事に忙殺される人生に。これは決して珍しいことではないと思う。

 例えば、美味い飯を食べるためには金を稼ぐ必要があり、金を稼ぐためには会社に務めなければならず、会社に務めるためには毎朝そこまで自宅から移動しなければならず、移動するためには燃料が残り少ない車にガソリンを入れておかなければならない。そんなことが世の中には多すぎる。やがて、最初の目的が何だったのかすらあやふやになっていく。

 物語の筋に戻る。マーラの登場で窮地に陥った主人公を救ったのはタイラー・ダーデンだった。家が何者かに爆破された主人公は、偶然出会ったタイラーと一緒に住むことになった。そして彼らはファイト・クラブを発案する。そこでは参加者が一対一で、素手で殴り合う。他人を傷つけ、自らをも傷つけることで主人公は生の実感を得ていく。

 主人公を含む参加者たちは、ファイト・クラブは日常生活と全く別人のように振る舞う。

 ファイト・クラブでの男たちは、現実世界での彼らとは別の人間だ。

 (中略)

 ファイト・クラブでのぼくは、ボスが知るぼくじゃない。

p66

  今の自分は本当の自分ではない。そんな不満を抱いている人間は少なくない。タイラー・ダーデンは主人公のそんな欲求の具現化である。そして同様に欲求不満を抱えた者たちがファイト・クラブに次々と参加する。自分を変身させ、生の実感を得るために。

 しかし、そんな二重の生活を送ることは無理があった。現実的な面で言えば、毎週ファイト・クラブで手ひどく傷つく主人公は上司から目をつけられる。精神的な面で言えば、喧嘩をするぐらいでは破滅願望を抑えることができなくなっていた。

 主人公の片方の人格たるタイラーはこう語りかける。

 (前略)自己改善から逃れ、一目散に破滅へと走らなければならない。事なかれ主義ではここから先へ進めない。

 p97

  そして、主人公はタイラーが石鹸を製造し始めた事を知る。これこそ世界を破滅させる兵器たるダイナマイトの原料になるもの*3だった。そして実は物語の冒頭で主人公の家を爆破したのはタイラー(念の為付け加えると、主人公の別人格である)のこのダイナマイトだったのだ。

 ここで石鹸からできたダイナマイトは主人公の人生を漂白する役割を負っている。石鹸は言うまでもなく体を綺麗にするために使われる、日本語で言えば禊に近い効果を持つ。主人公は刑事に語る。爆破された家具一つ一つが自分自身だったと。それゆえ自分自身が吹き飛ばされたのだと*4。爆破は主人公をいわば一度殺し、別人として生まれ変わらせるために必要だったのだ。

 同時に彼らはさして過激とも言えない悪戯行為に手を付けている。例えば、ウェイターとして働いているホテルの料理に小便を混ぜるなど。ここで主人公は自分たちのことを「テロリスト」と形容するが、この文脈では冗談としてしか捉えられないだろう。自分が食べている料理に小便を混ぜられても、それがテロリストの仕業だと本気で考える人間などいない。

 しかし、主人公は次第にそんな悪戯を退屈に感じ始める。最初はスリリングな行為でも、回数を重ねていけば徐々に魅力を感じなくなるように。その局面を打開するためには、さらなる過激行為を行うしかない。

 悪戯行為を受けたホテルなどへの恐喝を資金源にファイト・クラブは急速に拡大していった。クラブの参加者たちにタイラーは放火や街中での悪戯*5を命じる。ここに至って、破壊行為は組織性を帯び、露見すればまず逮捕を免れないような悪質なものになってくる。

 タイラーは堂々と宣言する。

 我々には、我々一人ひとりに、世界を支配する力がある。

p173

 なりたい自分になる。やりたいことをやる。本当の自分になる。という言葉はほとんどの場合、当たり障りなく使われ、解釈されているが、厳密な意味で全員がそう目指した場合は惨憺たる有様になるだろう。気に入らない上司を殺す。盗みたいものを盗む。そんな事態が頻発することになる。

 ここで私が言いたいのは社会契約だとか、人権調整だとかの話ではない。思い通りにならない既存の世界に服従して生きていくのか、それともありのままに生きるために世界を改変するのかという話である。

 私達は物心ついた頃から法律や道徳に、つまり自分自身以外のものが作り上げた行動基準に、従って生きることを強いられる。逆らえば、親に殴られたり力ずくで止められる。大人になっても反抗するならば、親などとは比較にならない強制力をもった警察や軍隊が待っている。社会的に生きるとはそういうことである。

 実際のところ世界がどのようなものであるかを決するのは、力にほかならない。警察や軍隊が強力ならば、こちらはさらに強力な戦力を、兵器を持てばいい。タイラーが、テロリストたちが目指しているのはそういうことである。

 そしてタイラーに引きずられるように主人公もその考えに取り憑かれていく。

これはぼくの世界だ。ぼくの世界で、古代人は死んでもういない。

(中略)

ぼくらは世界を吹き飛ばして歴史から解放してやりたいと思った。

p176

 文明を破壊することが目的の「騒乱プロフェジェクト*6」が開始され、計画の実行のために多くのファイト・クラブの参加者がタイラー及び主人公と一緒に住むようになっていった。

 こうして平凡な会社員だった主人公はテロリストになった。世界を破壊したいという妄想、願望は時に具体性を持った計画になり、計画は時に実行される。いつのまにやら、現実が妄想に侵食され始め、やがてどちらが現実なのかの区別もつかなくなってくる。タイラーが自分の別人格だと、とうとう悟った主人公に彼はこう反駁する。

 (前略)タイラーはぼくの幻覚なんだ。

「くだらない」とタイラーは言う。「おまえのほうこそ、おれの` ` `幻覚かもしれないぞ」

p242

  ここに来て、主人公は自分とタイラーの性格、行動の違いを強く認識し始める。

 ぼくはタイラー・ダーデンのすべてを愛している。(中略)タイラーは有能で自由だ。でも、ぼくはそうじゃない。

 ぼくはタイラー・ダーデンじゃない。

p251

  自分の理想としてのタイラー・ダーデン。しかし、あくまで理想は理想だったと言うべきか。理想の人間になることは、現状の自分の人格、身体の消失を意味するからだ。分かりやすい例を挙げれば、身体にコンプレックスを抱えている人間の徹底的な全身整形がこれに当たるだろう。外見からは同一人物であることを周囲の人間は判別できないし、手術を受けた自分自身ですら初めて鏡を見た瞬間自己同一性が揺らぐだろう。

 まさしく自己消失である。忌み嫌っていたはずの自分の人格に対する愛着がここでは顕になっている。

 活動がますます過激化し、ついには死者が出るに至って主人公はファイト・クラブを解散する決意をする。しかし、外見はタイラー・ダーデンと同じ主人公の命令を聞くものは誰もいない。タイラー・ダーデンが主人公の意に反する行動を始めたように、ファイト・クラブもまた主人公とは別の意思を持ち始めたのである。主人公はそんな世界を、自分が望んだはずの世界を嫌悪し始める。

 世界は狂い始めている。ぼくのボスは死んだ。ぼくの家は吹き飛んだ。ぼくの仕事ははなくなった。そのすべての元凶はぼくだ。

p276

 あるいはそれは元々の世界に対する再評価と表裏一体であるかもしれない。邪魔だったはずの上司が実際に殺されたときの喪失感。破滅を望んだ世界が、いざ破滅しようとするときの喪失感。

 いずれにせよ、もはや主人公は自分の理想であったはずのタイラー・ダーデンを殺すことを望むようになっていた。小説の終盤で、主人公はタイラーに対して、つまり自分に対して引き金を引く。

 以上主にテロリズムと二重人格の側面から『ファイト・クラブ』を紹介した。だが、この作品は資本主義、キリスト教、アメリカなどの題材を強く含んでいるし、ヒロインであるマーラ・シンガーとのロマンス小説の面もある。紹介しきれなかった魅力は是非自分で読んで確かめてほしい。なお、日本語訳には旧版もあるが、著者あとがきや解説が加えられ誤訳も減っているので、新版をおすすめする。

 本記事ではあまり触れなかったデヴィッド・フィンチャー監督による映画版は、大筋では一緒だがラストシーンは大きく異なる。非常に美しいラストシーンだ。なによりタイラー・ダーデン役のブラッド・ピットはまさしく理想化された男性像にぴったり当てはまっている。こちらも必見だ。

 

文責 雲葉零


参考文献

『ファイト・クラブ』〔新版〕(2015)チャック・パラニューク  訳 池田 真紀子  早川書房

『サバイバー』(2005)チャック・パラニューク  訳 池田 真紀子  早川書房

『Fight Club』(1997) Chuck Palahniuk    Vintage

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*1:私が聞く限り、ポラニックという表記のほうが原語に近い感じは受ける。だが早川書房の翻訳で定着したパラニュークで以下表記する。ちなみにアメリカ人でも初見では正しく発音できないスペルのようだ。

*2:結局作中で彼の本名は明らかにされない。

*3:実際、石鹸からダイナマイトが作れるかは私には良く分からないが、その点はあまり重要ではないだろう。

*4:156ページ。

*5:例えば、ビルの壁面に顔の絵を描き、両目の中心に火をつける。

*6:原文ではProject Mayhem。日本語にするとどうも格好良さがなくなる。