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情報化社会の極限の可能性としての、野﨑まど『know』

 野﨑まど作『know』(2013年 早川書房)は、人造の脳葉<電子葉>を人間の脳に移植することが義務化された、2081年の京都が舞台の作品である。

 常に周囲の情報をモニタリングしている「情報素子」を散布された≪情報材≫がいたるところに設置されており、人間は<電子葉>を用いて通信をおこなうことでそれらの情報を得ることができる。まさしく、インターネットが人間の脳に内蔵された、高度に情報化が進んだ社会である。

 しかし、すべての人間が平等に情報を得られるわけではない。そのための仕組みが、≪情報格規定法≫によって定められる「情報格(クラス)」である。

 

 情報格規定法は、人々の情報の取り扱いに関する権限を規定する。

 情報格は各個人の社会的貢献度、公共的な評価、生活態度、そして納税額で上下する。それは情報省人事局が総括する市民情報を元に査定され、すべての市民は市民基本情報格1から3までを振り分けられる。(56、7頁)

 

 情報材によってあらゆる情報が無差別に取得されるこの世界では、プライバシー権を主張するような要求はできない。そこで、その情報の管理の方で差別化を図ろうというのがこの法律だ。

 クラス4~6という高官や内閣総理大臣に与えられるものもあるが、基本的に市民はクラス1から3を付与される。クラスが高ければ高いほど、より多くの情報にアクセスでき、そして、より多くの情報が保護される。このクラスによって、保険料が変わるなどの様々な影響が存在する。*1

 しかし、さらにその下、いわゆる生活保護を受けている市民(この世界での生活保護では、衣食住は絶対に保障されている)は、クラスが剥奪され、「クラス0」となる。

 彼らはほとんどの情報を得られないばかりか、ほとんどの情報が保護されない。その裸の画像や性的な情報が丸裸(オープンソース)になる。これは作中にも登場するエピソードだ。生活保護を受けている同級生のプライベートな情報を、悪戯感覚で覗く男子中学生三人組がいる。これは倫理的には問題のある行為だが、しかしそれを裁く法律はない。なにせ、オープンソースになっているのだから。オープンにされているものを見てはいけない、という由はない。これを問題視している人間もいるが、それはあくまでも一部でしかない。

 

 物語の主役は、この<電子葉>を開発しながら失踪した道終・条イチの「最後の教え子」で、クラス5の御野・連レル。彼が、最後に道終から託された、「クラス0」(少女は、児童養護施設で育っていることもあり、すべてがオープンソース、つまり、自分の情報をすべてのひとに見られる)でありながら、生まれながらにして、道終の発明した、<電子葉>の強化版、<量子葉>を備えた「クラス9」(あらゆる情報を得ることができる)の少女、知ルと共に、「すべてを知る」ために奔走する激動の四日間が、この物語の軸である。

 この小説を考えるときにやはり思い浮かぶのは、インターネットに象徴される現代の情報化社会である。この作品ほどではないとしても、現代は高度に情報化が進んだ社会である。インターネットを使えばあらゆる情報を即座に検索することはできるし、SNSで世界中の人々の「つながる」こともできる。

 この情報化社会のなかで、この作品でも描かれているが、このとき、「知っている」という言葉の持つ意味が、インターネットの普及の前と後で変わってきている。

 たとえば作中では、<電子葉>導入当初の上の世代の人間は、<電子葉>を使って得た情報を、「いま調べたんだけど」と前置きしてから話す。一方で、生まれてこのかた、<電子葉>が当たり前となっている下の世代は、いままさに<電子葉>で得た情報を、「知っている」こととして話す。この差が、世代間の対立の原因ともなっている。

 これは、あながち、現実とまったく乖離したものとは言えない。実際、ネットでかじった断片的な情報を、まるで見てきたかのように語る場面はしばしばみられる。ニュース番組やワイドショーといった、それまで大衆の情報源としての役割を担っていたメディア媒体でさえも、「いまネット(SNS)で話題のニュース」といった枕言葉がつき、「市民の声」と称したSNSのプライベートな発言を取り上げるなど、それこそ半ばネットと視聴者を介する媒体と化している。*2あるいは、実際に会ったこともなく、ときには本名すら知らずとも、SNSでフォローしている相手のことを「知っているひと」と言い、これが相互フォローになれば「知り合い」になる。

 「知っている」、あるいは「知」といった言葉の持つ意味は、すでに変わりつつあるのかもしれない。

 

 そんななか、作中、ひとの心を読むこともできるほどにだれよりも物を知っている「クラス9」の知ルであるが、彼女は自らの<量子葉>で得られる情報だけでは満足せず、連レルを、文字通りいたるところに連れ回す。

 「私、取り調べって初めてでした」「私、男の人を名前で呼ぶのって初めてです」「私、人を脅したのって初めてです」などと、どんな些細なこと、どんな危険なことでも、それが初めての経験であれば、その度に嬉しそうな反応を示す。

 思えば、この「経験」というものも、「知る」ことの一部である。知ルは、「クラス9」の力に甘んじることなく、経験による知を追求していく。*3

 この物語の主軸は、知ルが、古今東西の人類共通の謎ともいえる「死」を「知る」ための冒険譚である。天国、エデン、極楽浄土……、死後の世界を表す言葉はいくつもあるが、それはすべて人間の想像、妄想に過ぎない。

 「知る」といった行為が脳の働きによってなされる限り、その死とほぼイコールである人間の「死」を人間が「知る」ことは絶対に不可能である。絶対に不可避でありながら、「知る」ことは絶対に不可能。だから人間はそれを恐れ、架空の世界を物語ることで、なんとか「死」に形を与えようとしてきた。

 この世にはさまざまな宗教があるが、そのどれも、究極的には「死」に意味を与えることに腐心してきた歴史である、ということもできよう。この物語でも、まず知ルは真言宗の僧を訪ね、彼らの知識を文字通り「吸収」する。真言宗は密教であり、「隠された知」の側面を持つと言えよう。そのとき、知ルはその気になれば僧の<電子葉>とリンクして知識を得ることもできたろうに、実際に相対し、対話を通じて知識を吸収することを選ぶ。

 この対話のなかで、大僧正は金剛界と胎蔵界、ふたつの曼陀羅をふたりに見せながら、知ルの「悟りとは、なんでしょうか」という問いに、「知ることじゃ」と説く。曰く、「覚悟」とは、「覚える」ことと「悟ること」のふたつでできている。覚えていることとは「過去」を表し、対して悟ることは「未来」を表している。本来、「未来」は知ることができないが、人間は過去から学び、経験則で未来を思い描くことができる。こうしてなんとか覚悟をしている人間であるが、それでも唯一、絶対に覚悟できないこと、それが「死」である。

 知ルの<量子葉>を用いれば、「死」に関するあらゆる情報を収集し、分析することは容易であろう。しかし、知ルにとって「知る」ことは経験することである。だから、知ルがこの目的を果たそうとするとき、とるべき方法は、言われてみればひとつしかない――。

 

 さて、そこに至るまでの過程で特徴的なのは、「回転」と「対話」である。

 まず、道終が死の間際、連レルに講義した「メゾ回路(メゾスコピック神経回路)」。これは、ニューロンで作られる回路の名称であり、神経細胞クラスのミクロな機構と、葉や脳全体といったマクロな機構の中間に位置する、情報処理機構のことである。ひとつのメゾ回路がひとつの機能を表し、その大小さまざまなメゾ回路が三次元的に交わる状態を、道終は想像する。人間の脳を「回転」の集合体と見なした、というところだろうか。正直、このあたりは話が難しい。とりあえずは、クラウドを想像すればいいのだろうか。

 そして、知ルもまた、連レルに、「知識」の門番であるケルビムの話をする。これは、この小説のエピグラムにもなっている『創世記』の一節に由来する。この話のなかで彼女は、「人の脳が最も活性化する」のは「炎の剣が輪を描いて回る時」と言う。

 この「回転」は、先の真言宗の話から連想するに、「輪廻」の意味も含まれているだろう。

 

 物語は終盤、もうひとりの「クラス9」、有栖照・問ウが登場し、急展開を迎える。彼がCEOを務めるアイオーン社は、独自に<量子葉>の開発を進め、そして完成品を自分の脳に移植した。そのとき彼は、自分がもうひとりの「クラス9」と出会う運命にあることを悟ったという。そしてそれは、知ルも承知していたことだった。ふたりが望むのは、同じ領域の者同士の「対話」。面と向かって話をすることを、お互いに求めたのである。真言宗の僧侶と直に顔を合わせたときのように顔を合わせて行う対話では、お互いに目まぐるしい速さで情報を受容し、発信する。

 そうして始まったふたりの「対話」のなかで、知ルの脳神経が最高潮を向かえ、まさしく「回転灯」のように回りだす。「revolving lantern」すなわち「走馬灯」の状態を作り出し、死の間際の脳が最も活性化する瞬間を生み出して、「行ってきます」と言い残し、彼女は向こうの世界へと旅立っていった。

 

 メディア、とりわけインターネットを通じて得られる情報は、間接的なものである。そこにある情報が「いま、ここ」のものである確証はなく、むしろどれだけの時間を経ても、その情報は変わることがない。SNSの発言は、たしかに市井の人間の発言をも世界中に発信するという点において大きな意味があるとは言え、時も場所も無差別に摂取され、往々にしてその一部だけが切り取られて、誇張、曲解される。

 「クラス9」という破格の知識を持つものが、その身を以って得る経験、直接的な対話によって新たな知を求めようとするこの姿勢が、本来の「知る」という行為であろう、と思われる。

 しかし、このように便利に情報が得られるようになったにも関わらず、多くの人がそれをしようとしないのはなぜなのか。それは、莫大な量の情報が身近になりすぎたがゆえの徒労感のようなものと思われる。

 例として、佐々木敦『未知への遭遇【完全版】』(2016年 星海社)に印象的な実例がある。

 

   

 佐々木氏はテクノミュージックをはじめとしてさまざまな領域の講義を受け持っているが、あるときから学生に、たとえば「テクノに興味があるんですが、どこから聴いたらいいのかわからないんです。いったい、何から入ってどこまでいけば、テクノを極めたことになるんでしょうか?」といった類の質問をされるようになったという。そして、そのような質問をする学生からは、「これから未知の領域に入り込んでいく者ならではの、浮き浮きとして前向きな様子が(…)感じられないのです。どちらかといえば、ちょっと困っているようにさえ見える」と言う。

 その原因として、佐々木氏の言葉を借りれば、インターネットの登場による情報の氾濫により、学生に「「すべて」という幻想」にとらわれていることが挙げられる。つまり、その領域において学ばなければならないことが「無限」であるか、たとえ有限であっても、もはや無限に等しい天文学的数字に感じられ、その達成が絶対的に無理なものにしか思えなくなっている、ということだ。

 そんななかで、いったいどこから手をつけたらいいのか、分からない。ましてやテクノミュージックは、それこそ受験勉強のように体系立ったものとも言い難いから、勉強方法すら分からない。しかも、これは現在進行形の分野である。となると、先達人には情報量の点で絶対に及ばない。いまさら自分がなにをやっても、という気になってしまうのかもしれない。*4

 インターネットで表層的な情報を手あたり次第に網羅し、SNSでとにかく多くの人と「つながり」、その言動を逐一チェックするひとのメンタリティも、この学生たちの「無限」感と共通しており、その行動が表裏一体の関係にあるように思われる。

 佐々木氏に上のような質問をする学生は、その「無限」に圧倒され、困惑し、半ば諦めている。対して「インターネット民」「SNS依存者」は、「無限」を意識的に無視し、形だけでもとにかく多くの情報に触れ、流行に後れないようもがく。

 「知らない」ものとは、得体のしれないものと同義であり、そんなものが世の中にあふれている、と考えると怖い。だったら、とにかく多くの情報を摂取するしかない。しかし、そうして摂取している間にも情報は更新され、SNSのコメントは増え続ける。ただでさえ、過去に蓄積された「無限」の情報があるというのに。それでも、「知らない」、つまり「置いていかれる」のが怖いから、画面をスクロールし続けるしかない。このとき、過去は置き去りにされる。

 大量の情報へのアクセス権を得た人間は、果たして情報を自家薬籠中の物とすることができただろうか。むしろ、情報の力に圧倒され、流され、本来的な「知」を見失ってはいないだろうか。

 

 そこで、現在の「無限」の情報への無力感に対する方法として、この作品の結末、<電子葉>を開発した道終が描いた理想、「オープンソース」が、ひとつの答えとなるかもしれない。知ルの「死」ののち、≪情報格規定法≫は廃止され、すべてのものが、クラス6の情報取得権を得て、「クラス0」の情報公開義務を課されるようになった。つまり、すべての情報が公のものとなり、自由に利用できるようになった。

 先の佐々木氏の例を用いれば、これからテクノミュージックを学ぼうとするものが困惑するのは、テクノミュージックに関する情報の「無限」のさまもそうだが、なにより、その領域において、これから自分が学ぶことができるよりも多くの情報を有している人物がすでにして存在している、という事実であると思われる。いまからどれだけ努力したところで、その人物たちに追いつくことは出来ない。自分がやろうとしていることは、自分よりも知識を持つものによってすでになされている、あるいはやろうと思えばできてしまうことに過ぎない。そこに自分のやる意味はあるのか。そういった徒労感に、学生は打ちひしがれてしまう。

 だったら、自分が興味を持ったとき、すでにその領域のあらゆる情報を手にしているとすれば、そのような徒労を覚えることはなくなるのかもしれない。

 たしかに、インターネットの普及により、空間的な情報の障壁は低くなってきている。それを学ぶために要する時間については、『know』の世界だってそこまで変わらない。しかし、現実に情報の格差を生んでいるのは、独裁国家などの情報規制、権限をもつものしか閲覧できない外交などの機密情報を除けば、金銭的なところによるものが大きいような気がする。*5

 卑近なたとえになるかもしれないが、あらゆる版の漱石全集、そして漱石研究の書物を所有して自由に書き込みもでき、大きなデータベースなども利用できる金銭的余裕のある人間と、図書館でその都度、関連書籍を借りては返して、のちに参照したい点があっても、それを返していればまた借りなおさなければならない人間がいる、となれば、それはスタートラインの差はもちろんのこと、あたかも同じ野球という競技でありながら、片方は金属バットにきちんとしたグローブ、もう片方はプラスチックバットにミトン、といったまでの絶望的な格差がある。

 始まる前から勝負がついているこの試合を、すべてを「オープンソース」にすることでとりあえず対等の道具を持たせることに成功している、といえる。ここでは「「無限」という幻想」も消えるだろう。なぜなら、皆が同じだけの情報を共有しているのだから、「あのひとは知っているけど、自分は知らない」といった情報がなくなるからだ。たとえ見えなくとも、情報の端は明確に意識されるのである。ちょうど、検索エンジンでの検索で導き出される、「約4,870,000件」という結果が、数値上は有限でありながら、どこまでも「無限」に思われるのとは対照的に。

 だったら、皆が平等になるのか。そうではない。知識だけでは意味がない。それを利用する能力が今度は求められる。

 事実、クラス9である知ルの優れている点は、情報量というよりもむしろ、その驚異的な思考力にあった。ハッキングの攻撃に対処しながら、短い間にそのハッキングの方法を解析して学び、完全に自己のものとして反対に相手の<電子葉>をハッキングして「初めて」人を脅迫する、といったように、あるいは、ひとの心を読むことができる、と錯覚されるほどまでに、相手の行動パターン、思考の癖などの膨大な分析から次の相手の言葉、行動を推測する、といったように。*6

 当然、こういった思考力は、それなりの知識量といったものが前提となる。つまり、車の両輪なのだ。「自分らしさ」を「知る」ためには、まず「他人らしさ」というものを「知って」いなければならない。他者に関する「知識」を前提に、その相対化という「思考」を経て、人間は自分の「自分らしさ」を獲得していくのだから。となると、必要なのは他人との交際、そして対話である。

 知ルが「クラス9」足り得るのに、その<量子葉>は十分条件ではなく、必要条件だ。自らの身体を使って経験を重ねること、そしてその最上の「思考力」が、彼女の「クラス9」を担保しているのである。

 

 最後、連レルは、道終が<電子葉>、そして<量子葉>に求めた本当の役割を悟る。それは、「人間の脳を鍛えること」であった。人間の脳に取って代わる、のではなかった。

 道終が、自分で開発した<電子葉>を自分の脳に移植していない理由を尋ねられた際、自分にはもう遅すぎる、と答えた理由がこれだった。現行法では六歳での移植が義務化されているが、道終に言わせればそれでも遅い。知ルは生まれながらに<量子葉>を移植された。自然状態ではありえないような大量の情報を、自分なりに分析し、推測する。究極の「詰め込み教育」と最上級の「思考教育」の両立。それを幾度も幾度も繰り返すことによって、人間の脳は発達する、道終はそう考えたのだった。しばしば、人間は自分の能力の一部しか使えていない、と言われているが、そういったことも通じているかもしれない。

 膨大な情報を人間にもたらす器具によって脳の働きを高めることができるならば。

 昨今嘆かれてばかりいるインターネットの子どもへの浸透も、使い方次第では、そう悪いことばかりではないのかもしれない。

 

 すべてが「オープンソース」になれば、そこからは純粋な思考力や熱意の勝負になる。これは、インターネットから情報を得る<電子葉>だけではまかない切れない領分だ。だから、人間は本来持っている脳を、<電子葉>によって鍛えられた脳を使って、物事を考える。

 『know』というタイトルは、もちろん「知る」という意味もあるが、同時に「脳」という音である。外部の器具がいかに発達しようとも、「知る」とは、「対話」に代表されるインプットとアウトプットの絶え間ない繰り返しを通じた、どこまでも「脳」を使った行為である。

 単純に物語としておもしろいこの作品は、そんなことを言っているような気がする。

 

(文責 宵野)

*1:class という単語、そこから派生するclassifyという単語には、「分類する」という意味のほか、「機密扱いにする」といった意味も持つ。

*2:思えば、「焼き鳥を串から外してから食べるか、串のままかぶりつくか」「ラーメンの麺をすする音の可否」などといった「論争」が増えたのも、SNSが普及したここ数年のことのように思われる。論争が成立するには、それ相応の参加者が必要だ。その点、SNSはより多くのひとが参入しやすい場を生み出した。

*3:思えば、knowという単語には「経験あるいは学習の結果として知っている」というニュアンスがある。たとえば『オックスフォード現代英英辞典』では「to have information in your mind as a result of experience or because you have learned or been told it」とある。また、物事に関して言えば「精通している」、人物に対しては「交際している」とか「知り合いである」といった意味ももつ。単に「情報を持っている」というのとは、どうやら違う性質のものであるらしい。

*4:ネットを見れば、その興味がある分野で、自分と同じくらいの年齢で自分なんかよりもずっと詳しい人間はざらにいることが分かってしまう。私自身、文学や小説について真剣に取り組みはじめたのは大学生になってからだった。いざはじめようと思って周りを見ると、それこそ中学・高校からたくさんの本を読み、あるいは文章を書き、多くの知識を持っているひとがたくさんいた。もうこのひとたちには絶対に及ばない、なんて思ったかもしれないし、たしかにそのときは、先の学生のような困惑を抱いたかもしれない。

*5:となると、情報化社会によって得られるはずの人類全体の利益もまた、資本主義の枠組みに回収される。そして、特権的な人間だけが情報を掌握し、利益が偏重する、ということになるだろう。

*6:「自分らしさ」を伸ばす指導方針の欺瞞性はさておき、いわゆる「詰め込み教育」に対するものとして求められている「個性を伸ばす教育」が目標としているのは、一応、こういった思考力のことであろう。

 しかし、だとすればおかしいのが、道徳の授業に正解らしきものが存在し、挙げ句には通知表で成績・コメントがつけられるようになったことだ。もちろん、あまりにも過激なものであれば、教師は大人の人間としてたしなめる必要もあるだろう。しかし、感情や思考にまで正解を求めるなら、それは定められた「自分らしさ」を「詰め込」んでいるだけな気がする。これでは、戦前の「修身」となにが違うのか、わからなくなってくる。