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書評 ケン・リュウ 紙の動物園

 今回の書評で扱うのは『ケン・リュウ傑作短編集1 紙の動物園』である。長々しくなるのでタイトルでは省略した。元々『紙の動物園』という題名で出版された一冊の短編集を二冊に分冊したものだ。七つの短編が収録されている。

 

作者紹介

 ケン・リュウは中華人民共和国で一九七六年に生まれ、十一歳の頃にアメリカに移住した。大学では英文学を専攻すると同時にコンピューターサイエンスの授業も取っていた。卒業後はソフトウェア関係の仕事をした後、ロースクールに通い弁護士になった。現在は特許訴訟関係のコンサルタントをしつつ、アプリ開発もしている*1

 SF作家が技術関係の仕事をしているのはさして、不思議ではない。だが、法律も学んで弁護士にまでなったというのは中々、多才な経歴である。また後述する、『月へ』の法哲学的な問題意識はこの経歴から培われたのかもしれない。

 しかし、なによりも中国で生まれアメリカに移住した、この経歴が作品に影響を与えているようだ。まずは作品を一つ一つ、軽く紹介する。 

 

『紙の動物園』

 表題作。母が折ってくれた折り紙の動物達を軸に母と語り手の関係が描かれている。母親はアメリカ人の父のもとにアメリカへ嫁いできた中国人女性だった。しかし子供の頃にそのことをからかわれたことから、語り手と母の関係性は希薄なものになってしまった。例えば、中国語で話しかけてくるなら答えを返さないというふうに。母の死後、語り手は折り紙の裏面に書かれた中国語のメッセージを発見する。中国語が分からない主人公は、観光客の中国人にそのメッセージの内容を読んでもらう。

 

『月へ』

 アメリカの若手女性弁護士が初めて担当したのは亡命案件だった。希望するのは中国人男性とその娘。しかし、中国人男性の嘘が判明する。難民条約の定義と適合するように虚偽の申請をしていたのだ。ただし、彼が役人によって立ち退きを強要され、妻を殺されたのは事実だった。法と正義の相反という古典的なテーマが取り扱われている。

 

『結縄』

 結縄とは縄の結び目によって物事を記録することである。現実にもインカ文明で存在していた。アメリカ人研究者が結縄文化が残っているミャンマーの村を訪ねるところから物語は始まる。研究者は結縄を読み解く技術をタンパク質の構造解析に活かせないかと考えていたのだ。総評で詳しく取り上げる。

 

『太平洋横断海底トンネル小史』

 アメリカと上海及び東京を結ぶ太平洋横断トンネルが実用化された世界を描いている。それは、大恐慌後に日本とアメリカが外交的に協調政策を取った結果である。語り手はトンネルの建設に携わった台湾人の元労働者。彼はトンネル工事の際、捕虜あるいは犯罪者達が捨て駒にされ、見殺しににされた秘密を知っていた。

 彼はその事実を、気づかれない形で後世に残そうと試みる。

 

『心智五行』

 タイラという女性の宇宙空間での遭難から物語が始まる。彼女が取った行動は、得体の知れない惑星へワープすることだった。その惑星では、遠い昔に入植してきた中国人達の子孫が住み着いていた。

 タイラは落下の衝撃で意識を失い、また体調が芳しくない。そんな彼女を発見した現地人のフォーツァンは、治療を試みる。その治療法の理論体系はおそらく漢方や五行説に基づいたものだ。やがて意識を取り戻したタイラは先端科学技術ではなく、伝統的な知識を重んずる彼らに戸惑う。

 しかし、徐々にタイラの考えは変わっていく。現地の生活と食物に彼女は馴染み始める。それにフォーツァンの治療により体調も良くなったのだ。やがて、タイラはフォーツァンと恋に陥っていく。

 そして、彼女たちの前に救援船が訪れる。

 

『愛のアルゴリズム』

 人間に似通った精巧なアンドロイドが開発された。見た目だけではなく、自然な会話もこなせる。語り手はこのアンドロイド開発者の女性。夫は彼女が務める企業の経営者だ。彼らが製造したアンドロイド群は大ヒットする。

 しかし、二人の娘が生後間もなく死ぬという悲劇が起こる。語り手は自分を慰めるために、五歳の女の子を模したアンドロイドを製造することを考えつく。当初、夫は反対するが、結局同意した。そのアンドロイド、タラは極めて精巧なものだった。初めてタラと接した夫が、人間の子供と勘違いしたほどに。

 本作では、中国語の部屋という有名な哲学問題を引き合いに出し、思考とは何かが追求されている。もっと具体的に言うと、人間とAIに区別はあるのかということだ。哲学的ゾンビとも関係してくる問題意識に思える。この問題は総評で詳しく取り上げる。

 

『文字占い師』

 少女リリーは父の仕事の関係で台湾に引っ越してきた。時代は一九六一年、台湾が独裁政権下だったころだ。学校に馴染めず、クラスメイトからいじめられる中、彼女は台湾人の友人を二人作る。老人、甘とその義理の孫テディである。

 甘には文字占いという特殊な技術があった。名前の中の漢字や(占われる側が)自分で選んだ漢字に基づいて運勢を占うのだ。例えば、漢字をばらばらにしたり、書き足してみたりして。

 やがてリリーの不用意な発言で甘はスパイ容疑をかけられることになる。

 

総評

 全体的に米国と東アジアの文化及び人物が、作品の中で重要な役割を果たしているのが特徴的である。それら二つの異なる文化が接触するさまが描かれている。また基本的に難解な科学技術の描写はなく読みやすい。科学技術にさほど詳しくない私でもすらすらと読めた。

 また表題作『紙の動物園』に顕著なように、全体として感傷的な作品が多いように感じた。帯の煽りにある「いまいちばん泣ける小説」という文句はあからさまであるが、作品の性質を的確に表現している。

 ディック作品との相似と相違

 私はこの短編集を読んで、ディックの作品を思い出した。一つの理由はディック作品『高い城の男』に東アジアの文化が登場するからである。例えば『高い城の男』では易経思想が何度も登場する。ちなみに『結縄』の冒頭にも易経は紹介される。

 もっとも、『高い城の男』は例外的なのかもしれないが。それに『高い城の男』の東アジア文化の描き方はエキゾチシズム的でどこか的外れである。やはり、白人のアメリカ人が遠い東アジア文化を正確に把握するのは困難なのかもしれない。

 また『結縄』のソ・エボは、ディック『変数人間』のトマス・コールを彷彿とさせる。二人を詳しく説明しよう。村長のソ・エボは結縄の達人である。新種の稲との交換を条件に、彼はアメリカ人研究者に協力することになる。村は干魃に苦しんでおり、水が少なくても育つ米が必要だった。ソ・エボは結縄を読み解くようにタンパク質の構造解析をする。もっとも彼に理論的な知識はない。研究者が設計した構造解析ゲームを直感で解くだけだ。最終的に彼は構造解析に成功する。

 一方、トマス・コールは二〇世紀初頭の修理工である。理論的な学識はないが、なんでも修理することができる腕を持っている。未来人の手違いで、彼は二〇〇年後の世界に連れ去られてしまう。偶然、その未来では地球とプロキシマ・ケンタウリとの戦争の危機が迫っていた。そして地球側のコンピューターは緻密に戦争勝利の確率を計算していた。

 しかし、コールの出現によってコンピュータの計算は狂ってしまう。操作あるいは予測可能性の低い、確定しない要素=変数として彼は出現したのだ。紆余曲折を経て、コールは難航していた新兵器の開発に手を貸すことになる。超人的な修理の腕を買われたのだ。と言っても彼は理論を理解してない。ただ、配線をいじくるだけだ。自分の直感に沿うように。

 結論から言うと、コールが兵器を完成させることはなかった。代わりに、彼は超光速航法を実現させる。直感に従い、作業をしたコールは兵器ではなく超光速航法を作り出したのだ。彼はその報酬として元いた時代に戻ることになる。

 

 実践的な人間が理論の助けを得ずに大きな技術的進歩を成し遂げる、という点で二つの作品と主人公は共通している。しかし、コールと大きく違うのはソ・エボが理論の側に大きくやり込められていることだ。

 ソ・エボは見事、タンパク質の構造解析に成功する。そこでアメリカ人研究者が手渡したのはDNA操作された品種だった。しかし、その品種の稲穂からとられた種籾はうまく育たないように遺伝子操作されていた。そのため毎年、新しい種籾を買わなければならいのだ。またアメリカ人研究者はソ・エボの構造解析方をアルゴリズム化する。そのせいで、もはやソ・エボは構造解析に必要ではなくなった。ソ・エボは構造解析によって種籾代を稼ぐことも不可能になったのである。

自動化、ロボットへの懐疑、憎悪と人間の悲しみ

 いわば、ディックはコンピューターに対する人間の直感の優位を描写したが、ケン・リュウはその直感すら自動化可能ではないかと示したわけだ。現実的にも直感や実践を理論化、アルゴリズム化することは、決して不可能なことではない。

 そしてその二人の見立ての違いは作家の感性というよりも時代によるところが大きいだろう。例えば『変数人間』(短編としての)の出版は1953年であるが、登場人物の一人シェリコフはコールにこう仕事を頼む。

 (前略)ロボットも使ってみたが、この仕事にはたくさんの意思決定が要求される。ロボットには意思決定ができない。反応するだけだ」

『変数人間』438頁。

 反応の積み重ねこそ実は意思決定の正体なのではないかという疑念はそこには存在していない。SFの想像力を持ってしても、まだコンピューターの計算能力すら未発達な当時に、そのような疑念を呈することは困難だっただろう。読者の側にとっても全くリアリティを感じられない問題提起だったろう。しかし、現代の我々は違う。AIが人間と同様な、あるいは人間以上に複雑な意思決定(または反応のかたまり)ができる世界はさほど現実離れしてはいない。

 そして、これは『愛のアルゴリズム』で主人公が抱える問題意識にもつながってくる。同作の主人公はAIと同じように人間もアルゴリズムに従っている、つまり脳内の電気信号で自動的に行動しているだけではないか、という疑念を抱く。主人公は次のように独白する。

 

 アルゴリズムは確定したコースを走る。われわれの思考は、そのアルゴリズムに次々と従う。軌道上の惑星とおなじように機械的で予想可能だ。時計屋が時計だった

『ケン・リュウ傑作短編集 紙の動物園』 190頁。

 ここで考えなければいけないことがある。何故、直感あるいは人間の行動の理論化が反発を受け、場合によっては憎悪されるのかである。人間がAIと同じではないかという問題が重要なのかについても同じである。考えようによっては、この二つは問題ですらないのではないか?

 まず前者の問題から考えよう。例えばアルゴリズム化やそれによるロボット化は、価格の低下をもたらす。つまりより多くの富やサービスを享受できる。それなのに、何故、私たちはしばしばマニュアルや自動化に嫌悪感を抱くのだろうか。

 一つには失業が挙げられるだろう。例えば、産業革命期の労働者は機械打ち壊し、ラッダイト運動を起こした。現代でもAIやロボットの導入による失業が叫ばれている。だが、これだけではとても説明がつかない。そのような実利的な問題とは全く別な精神的な理由がある。

 それは簡単に言ってしまえば誇りである。人間は、人間だけができるということに誇りを見出す。例えば、『変数人間』には決められたことしか出来ないコンピューターへの侮蔑と自由意識を持ち、予測不可能で未来を変えられる人間への礼賛が読み取れる。シェリコフの別の発言を引こう。

「結局、戦争は統計的予測なしでもやれる。SRBコンピューターは予測するだけだ。コンピューターは機械的な傍観者でしかない。コンピューターだけで戦争の成り行きは変えられない。戦争するのは人間だ。コンピューターは分析するだけだ」

『変数人間』433頁。原文には人間に傍点が添えられている。

 言ってしまえば、一種の人間至上主義である。実利に関係なく、人間だけができることがなければ困るのである。その事態は人間の誇りを奪い取るものであるからだ。例えば一昔前の日本人が、外国人横綱の登場に困惑したように*2

 そしてその人間だけができることによる誇りは、人間の思考とAIに差がなければならない、差があるはずだという後者の命題と関係している。そしてその差は否定的というより肯定的な価値を持つものだろう。例えば、人間はAIよりも創造的なことができるなど。いわば能力が存在、もっと言えば存在価値を規定しているのだ。

 

 また私達は、人間がある程度の自由意志を備えているという共通の仮定のもとで、生活を営んでいる。もし、裁判で犯人がこう言ったらどうだろう?

「私の脳が犯罪をおかすようになっていたんです、私にはどうしようもなかった」

 あるいは恋人がこう言ったらどうだろう?

「君と付き合っているのは自分の脳の電気信号がそうさせているんだよ。それが愛の正体だ」

 どちらも共通の仮定、既成観念からかけ離れている主張だ。人間とAIが大差ないのではないか、という考えは既成の正義や愛の観念を激しく揺さぶる。そして私たちは既成の正義や愛を(それが科学的に正しいかどうかは別として)そう簡単には捨てられないのである。

 

 ディックの素朴な人間至上主義に対して、ケン・リュウの作品群はその点極めて現実的である。すなわち、AIやロボットに対する人間の優位性、独自性は虚構にすぎないことを描写している。それらは模倣可能なものにすぎない。だが、現実的であると同時に、冒頭で言ったようにリュウの作品群は感傷的でもある。

 そして『結縄』や『愛のアルゴリズム』からは人間が優位性、独自性を失うことに対する戸惑いや嘆きが読み取れるのである。彼は単に、人間なんて電気信号で動かされてるだけだよと突き放しているわけではない。だからこそ、彼の作品は読者を引きつける。こじつけて言えば、合理的に割り切れず、既成観念を捨てられないことが人間らしさなのかもしれない。

 

 文責 雲葉 零

 参考文献

『ケン・リュウ傑作短編集 紙の動物園』ケン・リュウ 古沢嘉通 編・訳 早川書房

『変数人間』フィリップ・K・ディック 大森望・編 早川書房

 

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*1:『ケン・リュウ傑作短編集1 紙の動物園』256及び257頁。

*2:敢えて人種差別問題と対比して考えたのは意図的なものである。何故ならば、考えようによってはわざわざ人間と高度なAIを区別して考える必要はないからである。それは一種の偏見である。