ソガイ

批評と創作を行う永久機関

掌編小説「彼女」

  「彼女」

 恋人はいないし、作る気もない。周りにはそういっている。

 二次会の誘いを断った帰り道、駅から家の間に立つ五十五本の街灯、その五十本目は、この町に移ってから五年の間、ずっと不規則なリズムで白と橙の光の点滅を続けている。四十五本目を過ぎるころから歩く速さを落とし、四十八本目に差しかかると左手をコートのポケットから取り出し、四十九本目で中指の先を噛んで手袋を外し、バッグに仕舞う。頭の上でぱちぱち光が舞うと、裸になった左手、その手のひらを前に向けて小さく伸ばす。そっとあてがわれた五本の指を感じてから手を握り、残りの三本を、空に白い息をこぼしながら歩いていく。

 ステンレス製の階段に響く音は、冬の夜に似ている。カコン、カコン、と規則正しく刻まれる無機質で思いの外よく響く音は、かえって静けさを意識させた。一階から三階まで計十五部屋、現在十部屋埋まっているこのアパートだが、ほかの住人に出くわしたことは一度もない。最後にこの階段の外側をのぼったのは、四年以上前のことだ。

 空いている右手でバッグのキーリールを伸ばして鍵を開ける。ドアを開くとはじめて手を離し、ノブをつかんだ右腕をくぐって彼女が先に部屋に入る。

 かちゃかちゃとマグカップの音を背中に感じながら革靴を脱ぐ。台所で手を洗っていると、彼女がコートの裾を引っ張り、小さな両腕をいっぱいに広げる。くわえたハンカチで手をさっと拭って、コートを脱いで彼女に渡した。ぎゅっと抱きしめて、彼女はぱたぱたと廊下を小走りで居間に向かう。

 居間はほんのり温まっていた。彼女が淹れてくれた紅茶の湯気に、口の周りが湿った。彼女はタオルケットにくるまって、ベッドにもたれかかっている。彼女の吐息が、湯気を揺らしていた。まだ半分くらい残るマグカップを片手に、ベッドの上に丸まっていた毛布をもう片手で引っ張ってきて彼女の右側に腰を下ろし、そっと毛布を広げた。一度マグカップをテーブルに置いて、毛布を彼女のからだにかけてあげる。マグカップを取り直して残りの半分に自分もからだを滑り込ませると、彼女はすっとすり寄って、左肩にからだを預けてきた。

 からだが透明というだけで、彼女はいたって普通の人間だ。からだが透明なせいか、彼女は声も透明だが、もちろん声は聞こえる。透明といえどもからだはたしかにそこにあるのだから、当然、知覚することだってできる。移り住んだその日にも彼女は五十本目の街灯の陰に隠れていたし、こうして同じ部屋で暮らすようになるまでの一年間だって、彼女はそこにあった。

 気がつけば、時刻は二十二時。船を漕ぎ始めた彼女の肩を抱きよせると、とろんとした目でほほ笑んで胸板に頭を預けて、ぐりぐりと額をこすり付けてきた。おやすみ。半分夢の世界に入っている彼女は、かろうじて、といったように顔を上げて、おやすみなさい、と返して寝息を立て始めた。

 彼女との関係を言葉で表すのは難しい。

 知人、の枠は超えている。友人、にしても生活に密着しすぎている。だったら恋人か、ということになるのだが、それもどこか違う気がする。まれに参加する飲み会でお酒が回ったときに話題の中心となる恋愛関係の話や猥談で聞く恋人関係とは、ずれが拭いきれない。そういった意味では、恋人はいないという言葉に嘘はないのだが、では娘のようなものであろうか。たしかに、彼女は小さい。容姿だって幼い。だからといって、彼女の方が長く生きているのだから、手放しに娘とはいえないし、彼女とはもっと対等な関係だと思っている。

 抱っこした彼女をベッドに横たえてから、羽毛布団を首までかけてやる。彼女は口をもにょもにょさせながら両手で布団を引き寄せ、壁の方に寝返りをうった。

 もう寝てしまってもよかったのだが、まだ眠気には程遠い。牛乳を電子レンジで温めてから、元々は彼女のために常備し始めた粉末ココアをスプーンで二杯落とし、かちゃかちゃかき回す。濡れたスプーンはそのまま流しに放って、中身をこぼさないようにすり足で居間に戻り、ベッドに背をもたれ、彼女の寝息を背中に感じながら、読み止しの小説を開いた。

 えりを引っ張られる感覚で、本から顔を上げた。物語は終盤に向かっていた。その手をつかんで、薄く目を開けている彼女に、もうちょっとだから、と肩越しにささやいた。彼女は頷き、しかし手は離してくれなかった。仕方なく片手で本を支え、親指でページをめくって残りの二十四ページを読んでから、足にかけていたタオルケットを彼女の腕のなかに入れてあげる。彼女は寝惚け眼でそれを受け取り、顔に押し付けるように抱きしめる。静かに布団をめくりからだを滑り込ませる。手探りで枕元のリモコンをつかみ、消灯のボタンを、指を滑らせることで見つけ、電気を消す。

 タオルケットを抱きしめてからだを丸めた彼女の頭は、胸の下にある。からだの位置を整えて、収まりのいい位置、ちょうどあごが彼女の頭頂部にくる位置に合わせ、タオルケットを抱きしめる彼女の小さな体躯を抱きしめ、彼女の頭の、今日は柚子の香りを吸い込みながら、眠りに落ちた。

 その日、否応なしに巻き込まれた猥談に仕方なしに耳を傾けていて、彼女と同居するようになった四年前から自慰行為をまったくおこなっていなかったことに気付かされた。意味もなく回数を競っていた学生時代が、とうに自分の時間軸から切り離されたもののように感じられた。ひとは悪口合戦と猥談に際し、持ち前の熱量をフルに発揮する生き物らしい。ここに、男女の差はない。違いがあるとすれば、その性質くらいだ。

 およそ昼とは思えないシモの話題になると、オフィスのノートパソコンのスリープを解除し、インターネットをつなぐ。近頃、彼女は入浴剤に凝っている。品質ではなく、とにかく種類を楽しみたいらしい彼女のために、細かな情報収集は欠かせない。十種類の香りが二つずつ入っているセットを見つけ、帰りに薬局に寄って探すことに決め、ウィンドウを閉じた。デスクトップには、デジタルカメラで撮った写真を設定している。いつものことといえど、笑みがこぼれるのを押さえられない。

「お前、変わってるよな」

 同僚の一言に、猥談に興じていた四人の顔が一斉に向いた。

「自分の部屋の写真なんか見て、なにが楽しいんだ」

 作り笑いで濁していると、「ま、いいけど」と本当にどうでもよさそうにつぶやき、再び嬉々として、先日の二次会の帰りに抱いた後輩のからだの具合やらなにやらを、「エミちゃん、着痩せするタイプらしくて、脱いだらけっこうすごくて」などと、ひそめている割にはよく良く通る声で話し始めた。

 この画像は最初、携帯電話の待ち受け画面にしていた。それを覗き込まれたのもこの男だったが、そのときもいまと同様の反応だった。一切の許可を取らずに彼は携帯電話を仲間内に回し、その待ち受け画面の感想を、頼んでもいないのに集めて回った。二十五人。すべて同じ反応だった。ただの部屋の写真。ただのひとりも、写真の中央、体育すわりして斜に上目づかいがちにこちらを見つめ、右手をピースの形にして、その人差し指は右頬にぷにっと沈み込み、左頬にはぎこちなくえくぼを作り、でも可憐にほほ笑む彼女のことを指摘しなかった。

 昼休みが終わり、定時になるとすぐに退社する。仕事は終わらせているので文句は言われない。飲み会も、三日前にあったばかりなので、少なくともあと一週間は誘いがかからない。二回までは連続で断れるので、一か月くらいは平気だ。

 道中、いつも利用するスーパーに併設されている薬局に向かう足にブレーキをかけ、少し足をのばして、専門店に立ち寄った。入浴剤の種類も豊富で、この前ベッドのなかでかいだ彼女の香りのものと、目的のセットを見つけ、購入した。前者は特に必要なかったが、その日不思議と寝つきがよかったために、つい衝動が働いた。レジの女性からポイントカードの作成を勧められた。ポイントの還元率が良く、また、携帯電話やパソコンから簡単に登録できるそうだったから、とりあえずカードとパンフレットをもらった。彼女の入浴剤趣味がいつまで続くかはいささか不安だが、続く限りは活用させてもらうことにする。

 店を出ると、駅に向かうまでに、精力的に光を放つ周りのものと違い、ぱちぱちと点滅を繰り返す街灯があった。白光が消えるその瞬間、真下の電柱の根本に浮かび上がる影があった。彼女よりも一回り大きい彼女は、髪の毛も、それでもかなり長い彼女よりもさらに長く、毛先は地面間際まで伸びていた。彼女の髪の毛へのこだわりはすさまじい。対して彼女の髪の毛は伸び放題、手入れの欠片も感じられない、彼女が見たら激昂しそうな有様だ。

 真横に来るまで、彼女はどこか遠くを見つめたようにして動かなかった。右の手袋を外して手を伸ばすと、差し出された手とこちらの顔を交互に、とにかく緩慢な動きで見つめ、犬のお手のように彼女は右手を乗せ、首をかしげた。

 その手をつかんで歩き始めると、彼女はたどたどしい足取りながらついてきて、やがてもう片方の手でも右手をつかんで、背中の右にぴたりとからだを寄せてきた。

 改札を抜けて、一本一本街灯を数えながら歩く。右手をつかむ彼女は片時もこの距離を離さず、ときどきつまずきそうになりながらもとことこついてくる。自然と歩調が合わせられる。通行人に次々と追い抜かれていくが、特にいらつくこともなく、二十三本目の街灯を数えた。

 四十本目を越えると、不規則な点滅を繰り返す五十本目の街灯が目に入り、手袋を外すことを考え始めたとき、自分の左手が鞄でふさがっていることに気付いた。

 突然、彼女は腕を引っ張り、両腕で強く抱きしめる。思わずよろめいて振り向くと、彼女はとろんとした目つきは変わらず、瞬きもせずに無言で見返してきた。意志は固いようだったので、多少の窮屈さを我慢して左肩に鞄をかけて、歯で左手の手袋を外して、左手で取って鞄に仕舞った。

 四十九本目を通過すると、五十本目の許で地面を見つめていた彼女が顔を上げたが、その笑顔は、ひどく中途半端な形で固まった。街灯の点滅が激しくなった。

 手を伸ばしても、彼女がこの左手をつかむことはなかった。否応なく足を止めることになる。中断を強いられた彼女の笑顔はやがて口元が戦慄き、眉間にしわが寄り、いつも左手をつかんでくれる右手の人差し指を立て、右手を抱く彼女を指した。彼女に指さされた彼女は、彼女の指を避けるように背中を丸め、右手を抱いていた両の手を挙げて右腕を抱きしめ、盾にした。

 彼女の咎めるような視線は対象を変えた。こんなところで話すのもなんだから、という視線を送ると、彼女はふくれっ面になりながら、いつもとは違い、左腕を抱きしめ、自分の半身をこちらの半身にぎゅうっと押し付けてきた。肩にかけた鞄に遮られてうかがい知ることは出来ないが、わき腹にはあの頬が埋められているらしかった。

 五十四本目を過ぎたとき、新しい入浴剤を買ってきたことを伝えると、彼女は途端に顔を上げ、瞳をきらきら輝かせる。調子のいいものだ、と思うと、彼女は左ももを二回、手のひらでたたいてきた。その様子を見ていた彼女は、くいくいと右腕を引っ張る。すると彼女は、ついさっきまでむくれていたことも忘れたように、むしろ得意げに、入浴剤についてのいろはを熱弁し始めた。彼女はそれを黙って聞いていた。最後に、だったら今日、いっしょに入ってあげるわ、とお姉さんぶった調子で言うと、彼女は頷き、心なしか右腕をつかむ力は緩まり、自然な形になっていた。

 だったら、今日は薔薇の香りにしましょう、ばら、そうよ、薔薇はね、ものによってはちょっと甘ったるくてきついけれども、とてもいい匂いのする花なのよ、どんなおはな、さあ、絵や写真でしか見たことないわ、でも、べつにいいじゃない、うん、いい、

 透明な声で話す彼女たちの間で、香り立つ若い薔薇の匂いをかぎながら、これからはこの階段の真ん中しか歩かない日々が続くのだろうな、と考えていた。