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「危うさ」と「きわどさ」の魅力としての、堀江敏幸『砂売りが通る』

 読書の醍醐味のひとつに「再読」があることは、論をまたない。とはいえ、折に触れて何度も何度も紐解きたくなるような作品なんてものは、そうそう出会えるものではない。一般的に評価が高くても、それは、その作品が自分にとって何度も読みたくなるものになる、ということを保証してはくれない。経験として、はじめてその作品に触れたときにひどく感動したり、おもしろいと思ったりしたとしても、のちに再びその作品を手に取りたくなるかどうかは、また別問題のようだ。

 飛び抜けて読書量が多いわけでもない私にも、そのような、何度も読み返したくなる作品がいくつか存在する。小説作品のなかから一例を挙げると、谷崎だったら『春琴抄』『吉野葛』、川端康成『伊豆の踊子』『片腕』『雨傘』、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』、小沼丹『黒と白の猫』など。漫画だと、過去に記事として挙げたもの以外に、一時期『神のみぞ知るセカイ』(小学館)や『P2!』(集英社)を繰り返し繰り返し読んでいた記憶がある。ベタっちゃベタだが、『涼宮ハルヒの消失』は、シリーズのなかでこれだけは何回か読み返したはずだ。

 

 さて、いま挙げた作品は、比較的有名な作品であるかと思う。で、ここでひとつ、「僕にとって再読したくなる作品は?」と考えたとき、名前はすぐに浮かんだのだが挙げなかった作品がある。

 作者は有名だろう。堀江敏幸。その、『砂売りが通る』という初期の短編小説である。「俺、『砂売りが通る』が好きなんだよ」と話しても、なかなか通じない。

 いちおう、芥川賞受賞作『熊の敷石』を表題に持つ単行本にも収録されている作品だ。

 『熊の敷石』ももちろんいいのだが、やはり私は、この『砂売りが通る』だけを何度も何度も読み返してしまう。それくらい好きなのだが、なかなかその想いをひとに話す機会にも恵まれず……。なので、ここでちょっと語ってみようと思う。感情が先走りそうで少し不安でもあるが、過去の文章を見ていると、どうも私は多少感情がたかぶっていた方がおもしろい文章を書けているようなので、その確認もかねてみようか、と思っている。

 

 さて、堀江敏幸の小説、と聞いたとき、ひとはどういったイメージを思い浮かべるのだろうか。端正な日本語で書かれた、どこか優しい物語、なんて思い浮かべるひとが少なくないだろうか。それについては私もそう思う。

 なのだが、けっして優しいだけではないのではないか、と僕は最近、思うようになった。『河岸忘日抄』のような終始いらいらしている空気があったり、世間に対して厳しい言葉を発していたり、ときには官能的な表現が飛び出したり。そういった面も、気にしてみてみるとけっこうある。

 そして、この『砂売りが通る』である。

 物語は、「私」の友人の三回忌のあと、その友人の妹と娘と「私」、その三人で砂浜を歩く場面から始まる。「私」と友人の出会いは大学、妹との出会いは大学に入った翌年の夏である。

 大学に入った翌年の夏、親しい友人の年の離れた妹として、私は彼女に出会った。ねちりとした掌で左手の小指を握ってくれる彼女の手を引いて友人の実家に近い房総の浜を歩いて以来、兄を仲介にしてつかず離れずのつきあいをつづけてきたから、実の妹とまではいかなくとも姪っ子のようなものだ。私が二十歳のとき彼女は六つだった。あの湿った掌の感触は、もう十八年もむかしのことになるのか。(118ー9頁)

  不思議な関係である。ここだけを見れば微笑ましい関係、と言えないこともない。しかし、その仲介であった兄は亡くなってしまったし、その18年のあいだに彼女は結婚し、娘を産み、そして離婚をしている。そんなふたりが、彼女の娘と並んで、いつも砂浜の城をつくっていた思い出の場所で邂逅している。この微妙な距離、背徳的な雰囲気が、こころをくすぐる。

 そして、その当時のことを思い出して語る場面が、この空気をよりこそばゆく彩る。

 かがみ込むともう十分ふくらみかけた乳房がのぞくくらいの年頃になっても、夏休みのたびに彼女は学校のプールで使っている紺色の水着をまとって私たちと浜に行き、最初の城づくりの思い出をこちらには不可解なほどの情熱をこめて語りながら、儀式のように、あるいは義務のように砂の城をつくった。泳いだりビーチボールで遊んだりするのならともかく、女の子が異性の友だちも見つけずこんな遊びに熱中するのは少々考えものじゃないかと兄の方に訊ねた私の言葉を耳ざとく聞きつけ、札幌には雪祭りがあるんだから、どこかに砂祭りがあってもいいでしょ、もし砂の城の世界選手権があったらぜったいに出場してみたいの、とどこまで本気なのか語尾の柔らかさとは裏腹な勁い眼で見返したときの表情が心に焼きついている。(119ー120頁)

  特に好きな箇所である。それを思い出している「いま」を考えると、かなりきわどい官能性やフェティシズムを感じさせる場面だ。

 

 この作品はとにかく、あらゆる次元で錯綜や混同が起きている。タイトルの「砂売りが通る」は、フランス語で眠くなることを言うらしい。過去(「私」、友人、妹)と現在(「私」、妹、娘)が思い出の場で混在し、ときに重なる。淡い雰囲気のなか語られていくこの作品は、まさしく眠気、あるいは微睡みそのものであるといってもよい。このタイトルとのつながりも良い。時間、関係、地の文とセリフ(この作品では、それこそ小沼丹のように、セリフをかぎ括弧でくくるのではなく、頭にダッシュ(――)をつけて示している)、顔、風景……あらゆるものたちが、絶妙に入り交じっている。

 そして、終始ふわふわしたこの空気のなか、それに馴染みすぎるまでに馴染んでいる物語……にいっけん思えるのだが、よく読むと、なかなかきわどい表現、そしてきわどい状況が描かれていることがわかってくる。分かりやすいようで、実はつかみ所が見つからない。この危うい関係性こそが、この作品の魅力だと私は思っている。

 なにより、年下の女性の描き方が良い。これは『砂売りが通る』に限らない。私が好きな作品に、たとえば『いつか王子駅で』がある。

 

 この作品には家庭教師をしてあげている咲ちゃんという中学生の女の子がいるのだが、この子が本当に可愛らしい。じつはまだ読めていないのだが、『なずな』も子育てがテーマとなっているだけあって、気になるところだ。

 『砂売りが通る』は、とても短い作品であるが、物語、文章、登場人物……すべてをまるっとまるごと、そのまま魅力を味わえるものとなっている。自信をもっておすすめできる。

 

底本 堀江敏幸『熊の敷石』講談社 2001年2月

 

(文責 宵野)