ソガイ

批評と創作を行う永久機関

作品によって変わる作者の顔、それでも変わらない場所~私にとっての柴崎友香の場合~

 正直なところ、柴崎友香の作品に苦手意識を持っていた時期があった。それは、芥川賞受賞作『春の庭』(文春文庫)をすぐさま購入し、読んだときにも拭えなかった。(思えば、なぜなかば読まず嫌いになっていた作家の作品を迷わず購入したのか、いまになってもよく分からない。)

 以来、2年間ほど手に取る機会もなかったのだが、3ヶ月前に、少しまとめて彼女の作品を手に取った。このときは、『ショートカット』(河出文庫)を読んだ後で、『春の庭』を再読した。これがかなりおもしろく感じられたのだから、再読とは本当に不思議なものである。

 このとき、『春の庭』を読みながらとったメモをこの前見つけたので、ちょっと載せてみる。

 

・お姉さんの「私」に視点の移るところは間違いなく目をひくが、それより前にも、いくつかきわどいポイントがある。

・水色の家と「春の庭」。家を外からも見て、中からも見る(見たい)。

・水色の家の中を見ようとする西を見る太郎。太郎の部屋からは見えないものを見ている西を見る太郎。そのような視点の移動性が、やがて最後の大きな視点移動を生む。太郎の様子をときどきうかがう巳さん。見る、見られるの関係、外と内の関係。

・雲の上。飛行機の視点。三人称一元視点から、一人称、そして「わたし」は最後、なめらかに消えていく。「わたし」が明らかに知り得ない太郎の行動や心情を語っているのは、憑依しているというよりは、やがて「わたし」が消えていく、そのための準備のようにも思える。

・不発弾。長年、足下にあったものでありながら、それに気づかず普通に生活していた。しかし、その存在が明らかになると避けられる。それまで、不発弾の時間は止まっているようなものでありながら、見つかった瞬間に、それまでの時間も一気に回収される。不発弾は掘り出されて、父の骨を摺ったすり鉢、乳棒、骨壺にも似たトックリバチの巣を埋める。やがて父を思い出すよすがとなるのは、これらのアイテムではなくなる。時間が眠る?

・だんだんと、いろいろな人物が入り交じって、固有性があいまいになっていく。西の描くイラストは、ひとがヘビ(巳)みたいになっているもので、そう考えるとおもしろい(巳さんはあだ名のようなものではあるけれど)。突然あらわれた女優は、馬村に似ているようでもあったけれど、じつは似ていなくて、むしろ西に似ている? 太郎、という特徴のない名前。「わたし」の「私」性をあいまいにしていくために必要だった人称や視点の移動?

 

 メモそのままなので、あまり分かりやすくはない文章になっていることは否めない。というよりも、メモを書いたはずの自分ですら、細かいところはあやしい。(私はずいぶん前、ブクログを使っていて、ときどきコメントを投稿してもいた。半年ほど経って、ほかのひとの感想も読んでみたいな、とコメント一覧を眺めていると、お、これはおもしろいこと言ってるぞ。自分の感じ方とも近い、わかるわかる。そう思って投稿者の名前を見てみると、なんと自分だった、なんてこともあった。)

 が、おそらくこのときの私が考えていたことの根幹はひとつ。『春の庭』の視点移動、三人称一元視点「太郎」から太郎の姉である一人称「わたし」への人称操作は、すべて、最後に「わたし」をも消すためにおこなわれていたことだったのではないか、という思いつきだ。そしてそのとき、「見る/見られる」の関係が重視されている、とも考えていたらしい。

 

 さて、『春の庭』は本題ではないので、このあたりで切り上げる。個人的に、もっと深く考えてみたいな、と感じる作品なので、また次の機会にしっかりとした形でやるつもりだ。では、なぜこのメモを転記したのか。それは、今回読んだ柴崎友香の作品と、どこか通じるところがある、と感じたからである。

 

 今回読んだのは、『かわうそ堀怪談見習い』(角川書店)。

 題名の通り、怪談である。一般的な柴崎友香のイメージから離れているかもしれない。この作品の主人公は女性の作家、谷崎友希。ドラマ化された作品が恋愛を中心に描いたものであったことから、世間から「恋愛小説家」と呼ばれている。けれども、本当は恋愛にはそれほど興味はない。そんな看板は下ろしてしまいたい。そう思った彼女が心機一転、書き始めたのが、怪談だった。なんだか、現実の柴崎友香とも少し重なるところがあるように思われて仕方ない。

 そうは言いながら、谷崎はなかなか怪談を書けない。そんな彼女が怪談小説を出版するまでに見聞きした数々の奇妙な出来事を描いたのが、この『かわうそ堀怪談見習い』という作品となる。

 私は怪談小説を読み慣れているわけではないから、ここに描かれる怪談が、どれほどのレベルのものであるのかは分からない。しかし、高をくくっていると、かなり驚かされる箇所も少なくなく、なかなか怖い。

 そして、この作品で語られる怪談話は、ほとんどすべて、怪異的な存在に「見られる」という点で共通している。「見た」というより、「見られた」話なのだ。

 一般的な創作技法においてもしばしば言われることだが、「私」は「私」を見ることができない。少なくとも、だれかに見られているときの自分を、現在進行形で知る術はない。だから、だれかに見られている、というのはけっこう不気味なことでもあるのかもしれない。

 なにか得体の知れないものに「見られた」ひとびとは、そのものの正体を突きとめようとするよりも先に怯え、それがなにか分からないまま逃げ、その後の生活のなかでもそのものの視線を抱え続ける。直接的に危害を加えられるわけではないのに、怯え続ける。このあたりが、ホラーというよりは怪談、といったところか。

 それを「視線の内面化」、といえば、なんだかフーコーぽい気もする。『監獄の誕生』では、ベンサムが考案したパノプティコン(一望監視システム)がその一例に挙げられている。が、身近な例で言えば、授業参観の様子を思い浮かべればいいだろう。教室の後ろには、視界には入らないけれど、親がいる。そう思うと、もしそこで親が外を見ていたり、居眠りをしていたとしても、子どもは、絶えず親の視線を意識させられる。下手なことはできない。

 話を戻すと、この「見る/見られる」のテーマは、『春の庭』にも見られたものだ。語弊を恐れずに言えば、『春の庭』は、ほかの柴崎友香の作品と並べれば、芥川賞っぽい作品と、言えないことはないだろう。(版元も文藝春秋であることだし。)

 対して、この『かわうそ堀怪談見習い』をはじめとして、遠距離恋愛をテーマにした『ショートカット』や、映画化もした『寝ても覚めても』など、柴崎友香には恋愛の要素を前面に出した作品が多い。このあたりの作品はエンターテイメント性も程よくあって、かなり読みやすいものが少なくない。

 たしかに、この二方向の作品は、作風や空気感には違いがあるかもしれない。しかし、根幹にあるテーマは共通しているのかもしれないな、と『ショートカット』と『春の庭』を続けて読んだときに感じたことが、強化された。

 

 ある作家を読み始めるとき、まず大きな賞を取った作品から読む、というひとも少なくないだろう。私もその口だった。ただ、それが本当に良い出会いとなるかどうかは、かなり微妙なところもある。(それも、いくつかの作品を読んでみないことには始まらないのだけど)

 私の読んだ限りではあるが、柴崎友香の書きたいことはかなり一貫しているように思える。『ショートカット』は恋愛小説集、『かわうそ堀怪談見習い』は怪談としても読めるので入りやすく、柴崎友香入門としても最適だと思う。そこから『春の庭』に入る、という読み方を、私はおすすめしたい。

 もし『春の庭』で止まってしまっている読者がいれば。そんなひとにも届くといいな、なんて思っている。

 

(文責 宵野)