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地に足を付けるための勉強―荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』を読んで考えたこと

 いまは、多くの大学生が卒業論文に苦しんでいる時期かと思われる。場所やゼミにもよるだろうが、まあ少なくとも二万字を越えるような文章を書く機会、というものは、そうあるものではない。

 図書館に通い詰めて参考文献を読みあさったり、あるいは専攻分野によってはデータを集めたり、調べれば調べるほど、いまさら自分が書けることなんてまったくないのではなかろうか、といった不安と疑心に駆られる経験は、できればもう二度と味わいたくないものだ、と当時の私も考えていたはずだ。(もっとも、私はいまだにそういった活動を続けているのだが……。これはもはや、性といったものなのだろうか?)

 さて、毎年多くの学生がこのような苦労を経験し、ときには「~を、今後の研究課題としたい。」なんて末尾に書き記しておきながら、しかしその後の人生でその研究を続ける人間は、いったいどれだけいるのだろうか。

 たしかに、実験を必要とする理系学問や心理学においては、大学という研究設備を備えた空間を出てしまうと、研究を続けることは非常に困難かもしれない。しかし、とりわけ人文系の学問は、本さえあれば、研究を続けることもけっして不可能ではない。いまはAmazonなどのネットで比較的容易に書籍は手に入るし、図書館を利用する手もある。論文も、CiNii Articlesで探して、ものによっては閲覧もできる。さらには国立国会図書館に登録すれば、お金はかかるが、遠隔地からでも論文の複写などを取り寄せることもできる。

 もっともそういった性格が、いま人文系不要論の声が強いひとつの要因なのかもしれない。つまり、大学で勉強することでもないではないか、と。人文系不要論には賛成できないが、後者については、まったく理解を示さないでもない。たしかに、勉強は大学にいなくてもできる。

 研究者とは大学に所属しているものだ、という先入観が、ひとびとにはあるかもしれない。しかし、そうでない研究者もいる。在野研究者、と呼ばれるひとたちだ。

 現在、日本の在野研究者として有名なのは荒木優太ではないか、と思われる。彼は文学の修士課程を修了して、いまは在野で活動をしている。専門は有島武郎。(いくつかの著作がある荒木だが、その専門の有島武郎に関する著作はない。というのも、先日彼はTwitterで、有島論を出す準備はあるのだが、その出版に踏み切ってくれる出版社がないのだ、と嘆いていた。たしかにいま有島論が売れるのかどうか問われると、私も頷きがたいものではあるが……)

 そんな彼の著作、『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍、2016年)は、日本のさまざまな在野研究者を取り上げながら「在野研究の心得」を説いていく、といった、まさに在野研究の手引き書といえる。題名にもなっているエリック・ホッファーだが、私はこの本を読むまで知らなかった。「沖仲仕の哲学者」とも呼ばれ、『大衆運動』などの著作もあるホッファーは、7歳で一度視力を失ったことから、初等教育も受けられていない。その異名の通り、沖仲仕の仕事、つまり肉体労働をしながら独学で学問を修めた人物だそうだ。

 さて、私はこの書に大きく感銘を受けた者ではあるが、これは決して、狭義の在野研究者を目指す者にだけではない、論文を書こう、とか、著書を残したい、とか、そこまではいまのところ考えてはいないけれども……、といったひとにも有用な書だと感じた。というのも、この本で荒木は、大学教育を否定しているわけではない。在野研究を、大学での学問のオルタナティブ(もうひとつの選択肢)として提示しているのだ。

 

ここで取り上げるのは、比喩的にいえば、大リーグを目指していた野球少年が商社に就職し、しかしそれでもなお、休日に仲間とやる野球大会をどう計画するか思案するリーマンの話。あるいは、アルバイトをしながら生活費を稼ぎつつ地下アイドルとしてファンたちと一緒に盛り上がる女子フリーターの話にすぎない。といっても、その野球チームのなかにメジャーリーグでも通用する剛速球を投げる者がいることを、また、そのアイドルの歌が口コミで話題となって紅白のトリを飾ることがあることを、私は固く信じているのだが。(7頁)

 

 それが言うは易く行うは難しであることは言わずもがなだ。在野研究では、つまり研究によって生活していくことは難しい。つまり、ほかに生業となる職業を持っていなければならない。仕事と研究、あるいは家庭と研究の両立は、やはり容易ではない。(その困難については、本書でも繰り返し語られている。)それは重々、承知している。

 そして私は、研究はやりたいひとがやればいい、と思っている。別に特別な使命感に駆られる必要もない。自分の好奇心を満たすため、違和感の正体をつかむため、なんだっていいと思っている。

 だからこそ、大学の外でも学問はできるのだ、ということをいくつもの実例をひきながら述べているこの本が、有用だと思う。大学とは学問の場所だ、なんて言葉が建前も建前になってしまって久しいのかもしれないが、それでも私は、学問に未練を抱えているひとは少なくない、と信じているからだ。

 そして、本書に勇気づけられて、あるテーマについて調べていこう、と思ったならば、それができる環境に現代はある。それこそいまはネットというものがあるから、本書で紹介されているようなひとたちの時代と比べれば、情報はずっと得やすくなっているはずだ。

 ……いや、実はここが不思議なところなのだ。いま、多くのひとがスマートフォンを所有しており、それこそ指一本で、いつでもどこでも情報にアクセスできる手段を持っている。それでいながら、調べない、という事態が発生しているらしいのだ。

 一時期、「ググレカス」といった言葉が流行った記憶がある。当時は、そんなこといわずに教えてあげてもいいじゃないか、と思わないではなかった。しかしいま、いやさすがに「カス」は言い過ぎだけれども、どうしてそれを調べないのだろう? と感じることがしばしばある。

 たとえば、いまの大学生くらいの年齢のひとは、小学生の頃からスマートフォンが普及している世代にあたるだろう。(ちなみに私は、高校時代に周りでぼちぼち持っているひとがいて、自分は大学入学を機にスマートフォンにかえた人間だ。)だから、ネットには自分たちの世代なんかよりも親しみがあるはずなのだが、実はパソコンがうまく使えないらしいのだ。(大学の最初の講義で、Gmailの使い方やメールの送り方などを教えなくてはならない、という話を聞いたこともある。みな、もうLINEしかやっていないらしい。)

 使えないのは仕方ない。事実、それまで使ったことがないのだから。しかし、たとえばメールには題名をつける。添付ファイルを送ることだけが要件だとしても、本文に相手の名前、「いつもお世話になっております。○○のレポートです。お納めください」「よろしくお願いします。」くらいは書いて、最後に自分の署名をする、くらいのことは、調べれば出てくることではないか。しかし、調べないひとが少なからずある。

 つまり、なんでもかんでも調べられるが故に、自分が興味のある情報にはどっぷり浸かって、ほかには目も向けない。いつでも調べられるから、いま調べることはない。いやしかし、これはある種の防衛本能なのかもしれない。なんでもかんでも調べれば分かってしまう、知っていなくてはならない。それは苦痛だから、知らない、という状態に安住する。多すぎる情報に、人間の方が対応できていないのではないのかもしれない。自分で言っておきながら、これは自分にとっても耳の痛い話である。

 しかし、だからこそいまの時代、なにかひとつ学問的な(「的な」でいいのだ)を趣味に持っておくことは、バランスを取るためにもいいのかもしれないな、と思う。

 私の意見だが、学問のいいところは、ひとつの物事が分かるのに時間がかかること。そして、ひとつのことが分かるまでに、いくつもの分からないことを発見すること。そうやって、いつまで経ってもすべてを知ることはできない、ということ。そんなことだと思うからだ。たとえば、ひとりの作家に2年間、がっぷり四つで組み合ったところで、まだそのほとんどが分からないままなのだ。

 情報化社会、情報が流れるスピード、更新の速度が速い。たとえばTwitterは一日前のつぶやきをタイムラインで探すことは億劫である。まさに情報の波に流されて、自分の立ち位置が分からなくなってくる。(だからこそ、分かりやすいイデオロギーを支持するか、それに徹底的に刃向かうか、といった方向に向かうのかもしれないが)

 そんななかで、遅効性がある、あるいはいつ効いてくるかもわからないようなものを一本、軸として持っておけば、自分の立ち位置をその都度、確認することができる。地に足の着いた精神を得られるだろう。

 

 そんなわけで、本書はそれこそお守りのような役割を果たすことになるかもしれない。そして、先人たちに学ぶこと。それこそが学問の本質でもある。つまり、この本は在野研究を学ぶとともに、そもそも学問の仕方を学ぶ、ということにもなる、といっては大げさだろうか。

 最後に、在野研究というと、書斎にこもって……といったような孤独をイメージするかもしれない。それも完全には否定できないのだが、本書は同時にコミュニティやコミュニケーションも重視している点を見落としてはならないだろう。

 結局、最後はひとなんだ。こう言ってしまったら身も蓋もないかもしれないが、しかしいまのところ、私にはこの命題を完全に否定する術を持たない。ひとのあるところに学問はある。そして、学問の集まるところにひとは集まり、ひとの集まるところに学問はまた生まれるのだろう。

 ちなみに自分の話になるが、いまの私の密かな野望は、10万字のまとまった文章を書くことである。

 

(文責 宵野)