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中村文則『掏摸』 運命へのささやかで確かな抵抗

 中村文則の『掏摸』を近所の本屋で買って読んだ。

 

 著者の名前やその著作『教団X』などは知っていた。しかし、彼の著書を読んだのはこれが初めてであった。なぜこの作品を最初に選んだのかと言えば、著者が友人相手にこの小説を書くために掏摸の練習をしたという、どこかで読んだ逸話が記憶に残っていたからだ*1

 また消極的な理由で言えば、長編小説としては短く文庫で安いのでつまらなかった時にがっかりしない、ということもあった。だがそれは取り越し苦労で、面白く読ませてもらった。

 それで一つ書評でも書こうかと思ったのが、『掏摸』は三十万部を売り上げた小説であり、ある程度書評も出回っている。そんなわけで今更この作品を事細かに紹介してもしょうがないだろう。私が印象に残った場面とそこから感じたことをつらつらと述べるのをこの書評の主眼にしよう。

 まず、『掏摸』のあらすじを大まかに書けば、凄腕の掏摸の主人公がその技術を買われ、否応なしにある陰謀に参加させられるといったところだろうか。勿論本一冊分もの小説だ。こんな短いあらすじですべてがまとめられるわけはないのだが、無理やりまとめるとこうなる。ちなみに小説の筋は理解しやすいし、それ自体もこの小説の一つの魅力だろう。

 そんな話の本筋とは直接的に関係がない*2、裏の筋として主人公とある子供との交流がある。ある日主人公はスーパーで万引きを試みている子供を見かける。少年は母親に万引きを命じられているようだったが、その技術は拙くしかも監視員に見られていた。見かねた主人公は母親にバレていると告げる。

 同じようなことが更にもう一度あって、本業が掏摸の主人公は子供に万引きのお手本を見せる。更には、有名な掏摸の愉快な逸話を話したりする。

 熟練された行為にはしばしば美しさや鮮やかさが伴い、人はそれに惹かれる。場合によっては、それが違法行為であったとしても。その子供も掏摸を単に母親からの命令を実行したり、食料を得るための手段以上のものとして見ている。最初に主人公が子供に万引きを見せる場面、つまり三つものヨーグルトを袖に入れてくすねた場面を引用しよう。 

子供は真剣な表情で、僕の指を見つめ、それから、不可解なものでも見るように、僕の顔を見続けた。手を下げても、ヨーグルトが落ちないことが、彼には不思議であるようだった*3

 子供にとって主人公はまるで巧みな手品師のように見えただろう。さらには、子供自身は知らないことなのだが、主人公は富裕層をターゲットに掏摸を行っていた。主人公が子供に渡した金も、孫に土産を買おうとしている金持ちの老人からスッたものだった。それもいかにも金持ちが多そうなクラシックのコンサート会場で。明白な対比構造が描写されているわけだが、ある程度小説を読み慣れた人は逆にわざとらしい、あからさますぎると感じるかもしれない。

 主人公は最後には母親に金を渡し、彼女の恋人に虐待を受けている子供を施設に預けることを了承させる。これは一種の違法な所得再分配、違法行為による格差解消と言えよう。義賊として美化された鼠小僧に顕著なように、そうした行為は時に痛快にすら描かれる。おそらく大半の人は名前も知らないだろうが、最近の作品としては肥谷圭介『ギャングース』がより露骨にこの路線に近い。

 貧しい少年たちが窃盗団を結成し、犯罪者相手のタタキ=強盗を行う作品である。そして、その中のひとりの少年は強盗をする度にランドセルと現金を児童養護施設へ寄付する。もしかすると、鼠小僧が下敷きになっているのかもしれない。

 このような違法行為によって、正義を実現しようとする思想を全否定することは難しいだろう。例えば、独裁国家を考えてみればいい。暴動や反政府デモなどの違法行為なくして、自由の実現はおよそ不可能である。勿論、貧富の格差はそれとはまた違う問題であるが、現状の法秩序によって救われない、むしろ不利益を被っている(しかも法を破ろうと考えるほどの)人々がいるという点では同じなのである。

 話を戻そう。主人公は一方で金をやるから万引きはするな、有名な掏摸の末路は皆悲惨であるとも子供に言うのである。名人芸を披露し、掏摸の逸話を紹介したあとにそんなことを言うのだから矛盾しているし、滑稽にさえ思える。ここには掏摸という行為への主人公自身の背反する感情が表れているだろう。

 実際、主人公もまた結末で悲惨な結末を迎える。命令通り任務を成功させたにもかかわらず、木崎という陰謀の首謀者の半ば気まぐれによって、殺害されそうになるのである。子供を救った華麗な掏摸の技術は、それよりも大きな力の前では無力だったのである。

 瀕死の主人公に木崎はこう告げる。

 「なぜ殺されたのか、なぜこうなったのか、分からんだろ。......人生は不可解だ。(中略)お前は、運命を信じるか? お前の運命は、俺が握っていたのか、それとも俺に握られることが、お前の運命だったのか。だが、そもそも、それは同じことだと思うわんか*4

 世界は偶然によって成り立ち、理不尽である。話がガラリと変わるのだが、私は麻雀が好きでそれなりの腕がある。ある時、知人二人にルールを教えるために卓を囲んだ。彼らは和了りの形すらよく分かってないので教えながらの麻雀だったが、驚いたことに一向に運が向かずに私が負けてしまった。極端な運の偏りは実力を無効化するのだ。ただし人生が麻雀やポーカーと違うのは、運の存在、例えば生まれや持って生まれた能力の違いをしばしば人間が忘れること、運の再分配が起こりづらいことではないだろうか。

 その理不尽に対抗しようとするなら、やはり偶然が必要とされるのかもしれない。たまたま貧しい家庭に生まれ、虐待を受けていた子供が、たまたま主人公という本当の意味での保護者を得たように。このことは、主人公が小説の最後で、自分に気づかない通行人にぶつけ、助けてもらうためにコインを投じる場面とも繋がっているだろう。

 それがぶつかるという保証はどこにもない。より大きな運命の前ではあまりにも無力な行動であるが、何故か希望を感じられる結末なのである。私は天の邪鬼なので単純な大団円はあまり好きになれないが、このような不確かな前向きさにはどこか好感を感じる。

 私はどちらかと言うと小説の好き嫌いが激しい人間である。お気に入りの作家の小説ならばともかく、適当に一〇冊読んで面白いと感じる本は恐らく一冊ぐらいしかないのではないか。そんな私だが、中村文則の小説を更に読んでみよう。そんなふうに思える本であった。

 

引用文献

『掏摸』(2013)中村文則 河出書房新社

 

*1:一応そのことについての記述があるサイトは見つけたがここで読んだわけではない。

junglecity.com「芥川賞受賞作家・中村文則さん朗読会」

https://www.junglecity.com/jcommunity/fuminori-nakamura-interview/

*2:もっとも小説の後半では関わってくるのだが

*3:『掏摸』76,77ページ。

*4:『掏摸』181,182ページ。