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「恋愛」は日本語?「モアベター」は英語?―柳父章『翻訳語成立事情』から

 明治期の文章を読んでいると、いわゆる横文字の単語がそのままの音で使われていたり、漢字の熟語のルビとして振られていたりして、いまの時代の読者からすると、少し変な感じがすることがある。

 有名な例だと、夏目漱石の小説にしばしば出てくる「停車場」と書いて「ステーション」が思い付く。試みに『三四郎』(明治41年に『朝日新聞』で連載)を紐解いてみる。「西洋手拭」で「タウェル」、「机」で「テーブル」、「小刀」で「ナイフ」、「寝台」で「ベッド」、「手杯」で「コップ」、さらには、三四郎の恋敵、野々宮の台詞(よくよく考えたら、「台詞」で「セリフ」という読みは残っている。)、「あの建物(ビルジング)の角度(アングル)の所だけ(……)」「この木と水の感じ(エフフェクト)がね。」

 これは2010年6月に発行された新潮文庫(133刷)に拠っている。いうまでもないことだろうが、ルビは、必ずしも著者の意図によっているものではない。ましてや、すでに故人となっており、著作権も切れている作家ならなおさらだ。ルビは、編集者の手によって入れられる。

 ちょっと長くなるが、新潮文庫の後ろにある「文字づかいについて」という項目を引用してみよう。

 

新潮文庫の文字表記については、なるべく原文を尊重するという見地に立ち、次のように方針を定めた。

一、口語文の作品は、旧仮名づかいで書かれているものは現代仮名づかいに改める。

二、文語文の作品は旧仮名づかいのままとする。

三、一般には常用漢字表以外の漢字も音訓も使用する。

四、難読と思われる漢字には振仮名をつける。

五、送り仮名はなるべく原文を重んじて、みだりに送らない。

六、極端な宛て字と思われるもの及び代名詞、副詞、接続詞等のうち、仮名にしても原文を損うおそれが少ないと思われるものを仮名に改める。

 

 今回、『三四郎』の初出にあたったわけではないので、うえに挙げた単語に元からルビが付されていたのかどうか、確認ができていない。とはいえ、どちらにしろ新潮社の編集者が「なるべく原文を尊重するという見地に立」った結果、このようなカタカナルビが付されているということだから、同時代的に、このような言葉の使い方がなされていた、と考えても誤りではないだろう。

 さらに時代をさかのぼり、北村透谷の文章を見てみる。しかも、ちゃんとした媒体に発表されたものではなく、彼が男女の関係に陥った、従姉の石坂ミナにあてた手紙だ。

1887年(明治20年)8月18日のもの。

(……)今や貴嬢に別れて遠くに去らんとするに際し、聊か貴嬢に懇願する所あり、其は他ならず、生のミザリイを聞いてたもと云う一事、是なり、

 貴嬢は常に生のハツピイなるを祈りたまふ我親友なりかし、(……)

 

あるいは、同年9月4日。

Dearest   4/9/1887

拝啓君も御承知の如く日本人のラブの仕方ハ、実に都合の能き(御手前主義)訳に出来て居れ(ママ)ります、彼等ハ情欲に由つてラブし情欲に由つて離るる者にしあれば、其手軽るき事御手玉を取るが如し、吾等のラブハ情欲以外に立てり、心を愛し望みを愛す、吾等ハ彼等情欲ラブよりも最ソツト強きラブ力をもてり、吾等ハ今尚ワンボデイたらざるも、(……)

 

「ラブ力」はさすがに驚いた。だぶん「ラブりょく」の読みで合っていると思うのだが、ともかく、いま、告白でも恋愛観を語るのでも「ラブ力」なんて言ったら、笑われてしまうだろう。しかし、透谷のこの文章のなかでは、この「ラブ力」という単語が切実な響きをもって鳴っている。

 さて、「Love」の一般的な訳語は「愛、恋愛」である。これはさすがに言うまでもあるまい。なにを当たり前のことを、と思われるかもしれない。しかし、考えてみたい。「Love」と「愛、恋愛」は等号で結べるのだろうか。

 この透谷の文章を「時代に合わせて」、「ラブ」を「愛、恋愛」に置き換えることは可能なのか。

 いや、そもそも「Love」の訳語として「愛、恋愛」が定着したのはいつのことなのか。

 話をやや無理やり敷衍すれば、さまざまな横文字が横行する現代を考えるとき、それらの翻訳語の成立過程を見ておくと参考になるかもしれない。

 

 柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年)は、これまで話題にしてきた「恋愛」をはじめ、「社会」「個人」「近代」「美」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」という、十個の翻訳語を採りあげて、その成立過程や背景を追いながら、日本人のものの考え方、見方がいかなる変遷を遂げてきたのか、論じている。

 たとえば「恋愛」は、『英華字典』(1847ー48年)に「to love」の訳語として「恋愛」が最後の方に出てくるが、名詞「love」の訳語としては「愛情、寵、仁」となっている。そして、「日本語の辞書に「恋愛」が現われるのは、仏学塾の『仏和辞林』がたぶんもっとも早く、一八八七年版で、amourの訳語」として「恋愛」が出てくる、という。

 そして、そのように訳語として登場した「恋愛」は当初、それまで日本にあった「愛」とか「情」とか「恋」というものとは、性質が異なるものとして受けとめられていたらしい。

 ざっくり言えば、それこそ先ほど引用した透谷の文章、「日本人のラブの仕方ハ」「情欲」によるものであるのに対し、新しい「ラブ」は「心を愛し望みを愛す」ものである。つまり、前者が「愛」「恋」で、後者が「恋愛」ということになるだろうか。

 このような「恋愛」は、「love」の訳語として日本に現われた。だから、「この翻訳語「恋愛」によって、私たちはかつて、一世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかったのである。」

 実際にはもう少し議論は複雑なのだが、ここでは深く立ち入らない。念の為確認すると、これは、なにも日本の恋と欧米の恋が違うものである、と言っているのではない。あくまで翻訳語としての問題、なにより、その受容の仕方の問題である。つまり、当時の日本ではそのように受け取られ、使用された、ということである。その意味では、「恋愛」はもうほとんど日本固有の言葉であって、「love」と等号では結べないのかもしれない。となると、カタカナ「ラブ」は、もしそれが翻訳語「恋愛」の意味で使われているならば、もはや和製英語のようなものであるのかもしれない、とはさすがに言い過ぎだろうか。

 

 このような、個々の翻訳語についての調査、考察はどれも興味深いものである。そう前置きしたうえで、この本のなかで特に興味深かったのは、日本における翻訳語の受容、使用の特徴である。

 たとえば「社会」は、既存の「世間」と対比して、ポジティブなイメージをもって使われていた。それは、「肯定的な価値をもっており、かつ意味内容は抽象的である」と柳父は言う。

翻訳語は、先進文明を背景にもつ上等舶来のことばであり、同じような意味の日常語と対比して、より上等、より高級という漠然とした語感に支えられている。(20頁)

「意味内容は抽象的」というのは、つまり分かりにくい、意味に乏しい、ということである。しかし、この乏しさが肯定的に働くこともある。

 そして翻訳語には、こうして意味が乏しいにもかかわらず、漠然と肯定的な、いい意味をもつとされるために、ある時期、盛んに乱用され、流行語となる。(20頁)

 ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分らなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分らないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈絡が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのだ。(22頁)

 そして、この種の翻訳語は、きまって熟語である。漢字の熟語に外国語の音をルビで振る、という方法は今でもとられている。特に、批評などではよく見られる。そのような文章は、単純に、かっこいい、という感じがする。

 福沢諭吉はさすがにそのあたりに敏感だったらしく、翻訳書が、「四角張つた文字」をやたらに使うことに疑問を呈していた。だから当初の福沢諭吉は、「individual」を「個人」ではなく、広く使われている「人」と訳した。

 ただ、これはいまでももしかしたら変わらないかもしれないが、難しい漢字には、なにか深い意味があるのではないか、と読者は勝手に思い込ませる力がある。柳父は、漢字のこのような特徴を、「カセット効果」と呼んでいる。「カセットcassetteとは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである」。

 わたしには、この「カセット効果」がおもしろかった。というのも、いまやこれは、熟語の翻訳語だけではなく、氾濫するビジネス横文字についても同じことが言えるのではないか、と感じたからだ。

 わたしは、特別に横文字が嫌いだ、というわけではない。ようやく最近「コミット」という言葉の便利さに気付き、これは稀に話のなかで使う。書き物のなかではあまり横文字を使わないが、それは端に見た目が好みではない、というだけの話だ。

 ただ、どこまでが現実なのかは知らないが、ビジネス用語として出てくる横文字は、正直まだ受け入れることができていない。

 コミットをはじめ、カンファ、リスケ、アジェンダ、コンセンサス、サマリ、イニシアチブ、……。まあ、これくらいならまだいいだろうか。オーソライズする、エビデンス、ニアリーイコール、サードパーティー、モアベターあたりになってくると、もはやなにがなんだか。「third party」が「第三者」という意味を持っていることはいちおう知っているが、大学受験生に出題したら正答率が50%を下回りそうなものを共通言語にするのはどうなのだろうか。はっきり言えば、このような言葉がビジネス業界で当たり前のように使われている、という話について、わたしはいまだに真偽を疑っているのだが。

 まあ真偽はべつにして、このような横文字を乱用するひとが揶揄されながらもいなくならないのは、やはり、この種の横文字が、それこそ「スマート」な感じがするからなのではないか、と思われる。ここでいう「スマート」とは、ようは「かっこいい」くらいの意味であり、その点、難しそうな漢字の熟語における「カセット効果」と同じく、ビジネス横文字にも「カセット効果」がある、といってもいいだろう。

 しかし、その「カセット」とは、漢字とはちがって、もはや視覚に訴えるものではない。音、なのだ。英語っぽい音、それがなんとなくかっこいいのだ。だからこれらの言葉は、話し言葉のなかで使われる。あくまでわたしの感覚だが、この種の横文字が、文字にするとどうも間抜けな感じがするのは、そのかっこよさが音に拠っているからなのではないか。そしてその音は、ネイティブな発音ではなく、カタカナの発音でなくてはならない。「agenda」ではなく「アジェンダ」、「more better」ではなく「モアベター」。つまり、やはりと言っていいだろう、ビジネス横文字は英語ではないのだ。

 本書で紹介されている翻訳語が、元々の日本語にはない、翻訳のために作られた新しい造語であった、つまり、日本語であって日本語ではなかったのとほとんど裏返しのように、ビジネス横文字も英語であって英語でない、新たな造語なのだ。それは良い悪いの問題ではないのだろう。言葉とは生きものであるのだから、必然、そういう側面を持っている。もちろん、それが良い方向に働くこともあれば、悪い方向に働くこともあるだろう。しかし、それは言葉の責任ではない。使う側の責任である。

 

 このように考えれば、ビジネス横文字をやたら否定するのも器が小さいというものかもしれない。そうは思ってみたものの、やっぱりすぐに受け入れることは難しそうである。結局わたしは、まだ視覚的な文字に頼っている、ということなのだろうか。

 

底本:柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年4月第1刷、2018年5月第41刷

 

(文責 宵野)