この本が、Kindleで432円で読めるということに、驚きをおぼえずにはいられなかった。良い時代になったものだ、とこんなところで感じることになるとは、思いもよらなかった。
秋山駿『人生の検証』(新潮社)は、ちょうど平成に元号が変わったあたりに発表された、評論と言えばいいのか、エッセイと言えばいいのか、とにかく既成のジャンルに当てはめるのは難しい文章だ。
食、恋、友、身、性、金、家、夷、悪、美、心、死。これら12のテーマについて、秋山が自分の経験や読書遍歴を織り込みながら論じていく。このように書くと、なんだか説教くさいもののように思われてしまうかもしれない。しかし、秋山はこれらのテーマを論じることが、むしろ気が乗らないものであるかのように冒頭で宣言する。たとえば、「食。これは私が黙殺してきたテーマだ。」「恋愛。私のもっとも苦手なテーマだ。」「友。これはもっとも語りにくいテーマだ。」「身。これは嫌悪すべきテーマだ。」「金。お金のことだ。そしてこれは私のもっとも不得意なテーマである。」といったように。一周回って夏目漱石『夢十夜』を思わせるかのような(?)書き出したちである。
そして、その論も、自問自答を繰り返していく。書いている本人が、一番困っているかのようなのだ。また、ところどころで古典と呼ばれる文章などを引用しているのだが、それらについてもしばしば、分からない、理解できない、ということを隠さない。こういった文章は、思えばあまり読んだ記憶がない。分からないことを分からなかった、とそのまま文章として残す評論。もしそんなものがあったとして、私にはまだ、それをする勇気はない。まずその点で、私はこの秋山の文章に感嘆する。
本書のなかで、秋山が文章について論じている部分がある。デビュー作から長い間、自分の文章を読み返すことができないことについて、曰く、「自分の文章が(というか、雑誌に載った活字が)、鏡になったのだ。」と。この鏡を、まずは自室の鏡になぞらえ、自分で自分を見ることによって生じる嫌悪がある、という。しかし、これは嫌なら見なければいいだけの話だ、とも言える。秋山が実際にそうしたように、部屋から鏡を撤去してしまえばいいのである。
次に、その鏡を理髪店の鏡になぞらえる。「その鏡は、他者が見るところの鏡だ。そこに映っている自分は、他者が見るところの私であり、私の身体である。いわば、これは社会の鏡である。」こちらは、「他者が見るところの鏡」である。つまり、そこに映る私は、「他者が見るところの私」なのである。問題は、どちらかといえばこちらの「鏡」であろう。文芸誌に載った文章とは、この「他者が見るところの鏡」として私に戻ってくるのだ。
秋山は、個人的なメモと同人誌の文章は、まだ前者の鏡として読み返せるもの(同時に、憎くなったらとっとと捨ててしまえるもの)と言っているのだが、私のような小心者は、同人誌に載せる文章ですら、読み返したくないときがある。(対照的に、なんどでも読み返せる文章も多少ではあるが存在する。それについては、だいぶ個人的な、そして感傷的な話になってしまうと思われるので、次の機会に。)
閑話休題。つまり、分からなかったという事実を書いて発表するということは、他者から、○○が分からなかったひと、として見られる痕跡を残すことである。これは難しい。なんだかんだ、文章を書いて発表する、という行為には少なからず自己顕示欲があるからだ。自己顕示欲という言葉は、とりわけ最近、かなりネガティブなイメージを持たされてしまっているように感じるが、しかし、自己顕示欲が皆無の文章なんてものは考えにくいし、そもそも、別にあったっていいじゃないか。悪いのは自己顕示欲そのものではなく、自己顕示欲に溺れて他者を傷つけたり、(広い意味での)法を犯すことの方にあるだろう。(それゆえ、そのような文章が書店にさえ溢れている状況は、極めて残念に思われるのだが……)
だから、そもそも書くという行為は矛盾している。だれかに見てほしいから発表するのに、他者の目にさらされることに嫌悪感をおぼえるのだから。
前置きが長くなったが、本書は様々な普遍的なテーマを論じながら、このような矛盾そのものを描いている作品であるのではないか。それは評論とも言えるだろうし、エッセイとももちろん言えるだろう。群像新人文学賞評論部門でデビューした秋山であるが、その文章は独特だ。これは私個人の話であるが、私が秋山駿に興味を持っている、という話を――ひとりは直接、もうひとりは間接的に――したとき、ふたりのひとが、秋山駿のエッセイストとしての資質を高く評価していた。私もその通りだと思う。順番は逆になるが、だからこそ、いまの私が関心を抱いたのだろう。
いや、これはもはや私小説とすら言えるのではないだろうか。後期の秋山駿が私小説をさかんに論じていたことは、まったくの無関係ではないだろう。
これらのテーマについて、秋山はしばしば、日本の近代文学はこれらのテーマをちゃんとは書いてこなかったのではないか、と疑問を呈す。すると、秋山のこの文章は、この自分の疑問に対するひとつの答えとなっているのかもしれない。
いわゆる「小説」の形式ではないかもしれない。が、秋山はこれらのテーマをこの一連の文章で描いた。そんな風に感じられないだろうか。
さて、本書の内容についてはこれくらいにしておく。私もまだ一読しただけ(それも一気読み)なので、内容を子細には記憶していない。しかし、とにかく良い読書だったことは間違いない。その感情のまま、書き殴っているようなものだ。
最初にも書いたが、本書は432円ですぐに手に入る。おすすめだ。
で、もうひとつ書いておきたいことがある。それは、これが秋山駿の後期の作品にあたる、ということだ。本書でも若かりし日の自分の思考や文章に手厳しい批判を加えている秋山であるが、私は少しであるが、彼のもう少し前の作品を読んだことがある。それこそ、代表作『舗石の思想』も含まれる。(余談だが、秋山駿の著書は古書店で、しばしば安価で手に入る。これは100円だった。)
それらについても、私はとりあえず読み通すことはできた。ところどころおもしろい、とも思った。だからこそ気になってもいた。であるが、正直なところ、ちょっと難しいな、よく分からないな、というところも少なくなかった。やや観念的に過ぎる、と思わないでもなかった。あと、あまりにも暗いのである。
その筆致は、本書にも多少は受け継がれている。しかし、それまでのものと比べると、圧倒的に読みやすかった。最近考えていることであるが、長く書き続けているひとの文章は、ある時点から無駄というか枝葉というか装飾というか、そういうものが取り外されて、太い幹だけがカーンと残ったようなものになるのかもしれない。
それを感じたのが、小沼丹『懐中時計』(講談社文芸文庫)である。これは、小沼丹が妻を突然亡くしたことに端を発した「大寺さんもの」の第一作「黒と白の猫」から始まる短編集である。ここからの小沼丹は、私小説の色が濃くなっていく。ただでさえ、師匠である井伏鱒二をして「人間的に老成している」と評した小沼丹である。私は小沼丹の文章が好きなのだが、やはり、この晩期のものが特に好みだ。
そして、この本の解説が、なんと秋山駿なのである。この本の発行が、1991年9月。『人生の検証』の単行本が1990年だから、ほとんど同じ時期の文章と言っても良いだろう。これがまた良い。
小沼さんの短篇を読むと、或る魅力というものが確実に伝えられてくる。しかし、その魅力の内容とか性質を、どう人に伝えたらよいのかという段になると、私は言葉を失ってしまう。
(中略)
そこで私は、この「解説」という役割からは下ろして頂きたいと思う。以下は、思い付くままの気楽な私の感想である。(280頁)
初っ端がこれだ。そうは言いながら、小沼丹の随筆や夏目漱石『吾輩は猫である』、中原中也、コローの絵などをひいてきて収録作を彩るさまは、まさに読ませる文章だ。そしてなにより、結びは、なんと自分が講師を務めたカルチャー教室での出来事なのだ。
私は先日、某カルチャー教室で、短篇のアンソロジー『文学1991』(日本文芸家協会編)をテキストにしたところ、そこには三十代から五十代の主婦二十数名がいるのだが、彼等が特に小沼さんの「水」を指して、異口同音、言葉がきれいだ、文章がとてもよかった、と言う光景に出遇って、私は感心した。
――ああ、文体というものは、こういう素人といっていい読者にも確実に伝えられるものなんだ、と。(290頁)
多分私は、読者としても書き手としても、このような「素人といってもいい読者」にも伝わる文体を目指しているんだと思う。
そして、『人生の検証』はそこに手をかけているように思われるのだ。その後、秋山駿は2013年に83歳でこの世を去る。思えば、『人生の検証』の最後の章「死」、その最後に、彼はこう書いていた。
私はこの頃、いや誰だってそうなのだろうが、死が、恐怖や不安の対象ではなくなっていることに気がつく。ときに、慕わしいものというか、懐しいものとしても感ぜられるのである。
(中略)
私は母と若くして別れた。だから――、ねえお母さん、その後私はこんなふうに生きてきましたよ、と告げたく思う。
私はこれから、死の影を見ないようにする。死の光りを視ながら、ゆっくりと一歩一歩、生の階段を降りていこうと思う。いや、昇って行こうと思う。
この「これから」に書かれた彼の作品を、私も「これから」、追っていきたいと思う。
底本:秋山駿『人生の検証』新潮オンデマンドブックス、2002年
(文責 宵野)