ソガイ

批評と創作を行う永久機関

選択と自由について考えたこと SchoolDaysを手掛かりに

「嫌ならやめればいいじゃないか」

 というような言葉を発した、あるいは聞いた経験がある方は多いのではないか。例えば、酒場でサラリーマンが会社の愚痴を知人に言ったときに。あるいは、喫茶店で友人から恋人の愚痴を聞かされた時に。確かに、ある会社に勤める、あるいは誰かと付き合うのはその人が選択していることには違いない。言い換えれば、誰からも強制されているわけではない。その点からして、この言葉を馬鹿げていると単に切って捨てることはできないだろう。私自身、実際にこういう旨の返答をしたこともある。

 とはいえ、自分が言っている分には、あるいは他人が言われている分には構わないが、いざ自分が言われてみるとなかなか腹が立つものである。

「やめられたら、やめているよ*1

と思わず言い返したくなるものだ。このすれ違いには、実際に困っているかどうかの違いももちろん関係している。が、それと同時にどういう次元で選択の自由を評価しているのかという問題も見逃してはならない要素だろう。酒場のサラリーマンの例に戻ろう。彼にはいくつかの、実現可能性の高い選択肢があるだろう。試しに、ゲームのコマンドのような形で表してみよう。

1 安月給で、仕事もつまらない今の会社に留まる。

2 より条件のいい会社を求めて職探しをする。

3 正社員をやめてプータローのような生活を送る。

 彼は確かにこの三つの選択肢のどれかを選ぶことができる。サラリーマンにやめればいいじゃないかといった知人の意味するところは、2や3ではなく1を選んだのは自分なのだから納得ずくだろうということだ。確かにこの観点からすればサラリーマンには選択の自由がある。しかしながら、このような観点は物事の一面に過ぎないのだ。

 SchoolDaysという有名な、アニメ化もされたエロゲーがある。一般的なギャルゲー、エロゲーと同じように、プレイヤーは選択肢を選んで、主人公の伊藤誠の行動を制御する。しかしながら、ここで面白いのは彼はプレイヤーが意図した通りには動かないところだ。彼は優柔不断かつ浮気性だからである。このゲームのメインヒロインは桂言葉と西園寺世界という二人の少女である。伊藤が桂に一目ぼれして、そのことを西園寺に知られる。成り行き上、相談を受けた西園寺は二人の仲を取り持とうとする。しかしそんなことをしているうちに彼女のほうが伊藤をどんどん好きになってしまう。これがゲーム最序盤の展開である。

 ここで桂が大好きで西園寺が大嫌いなプレイヤーがいるとしよう。彼はきっと西園寺など関わらずに桂とだけ付き合っていたいことだろう。しかしながら、前述したシナリオの関係上どんな選択肢を選んでもそんなことはできないのである。幸いなことに一人とだけ付き合う結末もあるが、それでも関わりは持たざるを得ない。しかも、ゲームが進んでいくとたどり着ける結末が徐々に限定されていくのである。つまり何を選んでも桂とだけ付き合う結末にはたどり着けない状態もあるということだ。

 かなり突飛な回り道をしたが、酒場のサラリーマンのいら立ちはこれと近いものがあるのではないか。つまり、提示された選択肢そのものが不満なのである。前述した1から3などではなく、例えば宝くじでも当てて働かずに暮らしたい。もっともそのような選択肢は妄想的である。宝くじを買うことはできるが、確実に当てることなど誰にもできない。だからこそ選択肢から排除されているのだ。矛盾してるが、選べない選択肢なのだ。ドラえもんに出てくるもしもボックスのような世界である。あるいは英語で言えば仮定法である*2。確かにこれは空想的である。とはいえこういう妄想を馬鹿げていると一蹴する人ですら、死者にもう一度会いたい、という嘆きは切実なものに感じるだろう。

 この不自由な選択肢という現実を無視、あるいは軽んじる自由主義思想が自己責任的な論理に接近していくのは当然のことだろう。納得のいかない現実を抱えた人々は、選択の自由を行使した結果なのだ、その結果を引き受けるのは当然だ、と非難されるわけである。自分の意図にそぐわないような選択肢しか用意されていないときに、自由をもたらす福音であったはずの自由意思はいつのまにかに現状を我慢させられる負債に成り代わっている。まるで華麗な、何度見ても種がわからない手品のように。

 

*1:選択しているはずなのに、ちっともそんな気がしない気分を表しているこの言葉もなかなか興味深い。

*2:このような非生産的な妄想をなぜ人間、それも様々な文化圏の多くの人間がするのか考えるのも面白い。