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「空気」に抵抗する言葉を求めてー宇佐見英治『言葉の木蔭 詩から、詩へ』

 この本に出会うまで、宇佐見英治の名前を知らなかった。宇佐見英治著、堀江敏幸編『言葉の木蔭 詩から、詩へ』(港の人、2018年3月)。

 著者略歴によると宇佐見英治は、「1918年、大阪に生まれる。詩人、文筆家。『同時代』同人として活躍、美術評論や翻訳も多数。とりわけ明澄な散文で知られる。」とのこと。ジャコメッティの紹介者や、バシュラールの訳者として有名らしい。

 ひとりの著者の仕事をぎゅっとまとめた作品集はけっして珍しくはないが、それを加味しても、この本はなかなか面白い構成になっている。「戦中歌集 海に叫ばむ」の一部、著者が従軍中、コレラに罹患して生死をさまよった箇所から始まり、エッセイ、評論、歌論、詩、辞世の句、自筆略年譜などなどが並び、そして冒頭の「戦中歌集 海に叫ばむ」の後記によって一旦結ばれる。その後、あとがき・解説のような形で、息子の宇佐見森吉と、編者の堀江敏幸の文章が付される。著者の作品を並べただけながら、ひとりの人間の人生の道のりを辿って、そして死ののちも、彼の魂がひとの心に生きている、と感じられるようになっている。

 ここには、著者の晩年に文通による交流があった編者の意図が働いていることは間違いない。けっして少なくない著者の仕事から作品を厳選し、ときにはどの部分を抜粋し、そしてどのように並べるか。これこそ編者の腕の見せ所というものだ。複数の作家の作品から編むアンソロジーにおいてもそうだが、編者によって、その本の色は大きく変わってくる。それは、ある意味で小説を書くときにプロットを作るような行為と似ているかもしれない。小説も、場面や文章の並び順、構想されていたエピソードの取捨選択によって、まったく印象が変わってくる。編者もまた、作り手のひとりなのだ。

 素人ながら私も、編集を担い、作品の並び順を考えたことがある。作品の色や長さ、他の作品との相性を考慮して並び順を考えることは、これが思っている以上に難しい。こちらを立てればあちらが立たず。ひとつ方針を立てて進めると、どうしてもひとつ、その流れからはみ出てしまうものができる、など。ただ並べればいい、というものではないのだ。

 だから、繰り返しになるが、歴とした作り手のひとりである編者の名前がクレジットされるのは、必要だし、大切なことだと思う。本はひとりで作るものではない。出版元、編集者、校閲・校正、装丁、流通、などなど。著者第一主義を疑うとすれば、私はこの観点から出発すべきではないか、と近頃思っている。(もっとも、かといって編集者が変な形で目立つことのある今の状況は、必ずしもいいものだとは思えないが)

 

 それにしても、宇佐見英治の仕事はほんとうに多岐に渡っている。詩、ジャコメッティやヘッセにあったときの体験を語ったエッセイ、友人の死に際して記した記憶、谷崎潤一郎や宮澤賢治、ヘッセを論じた文章、地面についての所感、などなど。編纂するのは大変だろうが、同時に、やりごたえのある作家でもあるだろう。それにしても、最初と最後を、ひとつの同じ作品で挟む、という形はなかなか見られない。しかし、その甲斐あって、この作品集がしっかりひとつの作品になっているから、苦労がしのばれるというものだ。

  

 さて、宇佐見英治の文章からは反戦の意志が見られる。しかし、それは露骨な形で現れるのではない。ここでいう「露骨な形」というのは、「いま・ここ」で私こそが訴える、といったような主張の形と理解してもらえればよいだろう。これは勇ましいし、もちろん、この種の主張が誤りだとは思わない。ただ、宇佐見英治の場合は違う。まず宇佐見英治が戦後、短歌を捨てる決心をした理由を見る。

(…)戦争の衝撃があまりに強烈だったので、戦争と言葉、毎朝歌わされた「海行かば」の曲調、また先輩詩人や歌人が戦中にかけて次第に理性を失い、鬼畜米英というような語を詩人と称する徒が用いるようになったこと、韻律が蔵する魔力と思考の放擲、定型詩のもつ本来の秩序と連結等について、反省し、なぜ日本の詩歌だけが非人間的戦争謳歌に向ったかを究めねばならぬと思ったからである。そのためには集団的狂気に抵抗しうる知的で高貴な、明澄な日本語を築きあげること、詩よりもまず散文を確立すること、それが先決であると思われた。(「海に叫ばむ」後記、原文は旧字)

 彼は戦後、草野心平に評価されて付き合いもあった。草野の人柄には惹かれながら、一方で「(…)他方私は心中、あの極端な戦争詩を書いた人がどうして私の作を、という不審の感がつきまとった」という。詩人の戦争責任を追及した研究はほかにあるので、そちらを参照してもらうことにする。

 このように、宇佐見英治にとっては、「まず散文を確立すること」、それ自体が戦争に対して否を示す態度の取り方だったのだ。このとき、「集団的狂気に抵抗しうる」日本語を築く、と言っていることに注目したい。宇佐見英治は、その場の流れ、言ってしまえば「空気」から一歩、距離を置こうとしていた。その場の空気に抗するため。自然、彼の目は過去の言葉に向かうだろう。スマトラへの出動の際、「万葉集」と「立原道造詩集」を携えて行った経験から、「戦場に一冊の本をもってゆく」ことの意味を、彼はこのように言う。

 戦場に一冊の本をもってゆくのは千人針やお守り札を持ってゆくのとは違う。それでもその行為には一種の秘儀性があった。それは自分は、他人とはちがう、他人に知られない秘密の国の住人であるという証、ーーヨシフ・ブロツキイ流にいえば私人であるという主張、自分は「社会的動物ではなく個人」であり、ささやかでもこの生を私人として全うしたいという念願である。(「戦地へ携えて行った一冊」)

 この「私人」という言葉が「集団」に対するものとして表れていることは間違いないだろう。「私人」であるための言葉。彼の場合、そのひとつとして「万葉集」があったことは見逃せない。これは「伝統」だとか、「古き良き日本」というものではなく、単純に「過去」や「古」と取るべきだと思われる。もっと言えば、「死人」の言葉である。宇佐見英治の目は過去の言葉、なによりも死人へと向いていた。これは、本作には収録されていない、『死人の書』からの引用。(堀江敏幸の文章からの孫引きになるが)

僕はこの書をあの世にいるなつかしい友人達のために書き送ろうと思う。僕はいまではすっかりこの世に住みついた。現に二三の友人に対しては、あの世で味わいえなかったような美しい人間愛と友情とをおぼえている。僕は「あの世」と言ったが、それは地上にいるあなたがたのことをそう言っているのであって、僕がいまいる地下の世のことを言っているのではない。僕は既にあの世の名簿から二本の赤斜線によって抹消せられた人間だ。

 これとは別に、「ジャン・ジュネは、文学は生者のためでなく死者のために書くものだといった。」(「百代の過客ーー片山敏彦生誕百年に」)と、ジュネの言葉を紹介していたりもする。また、追悼の意を込めた文章が多く収録されているのも、『言葉の木蔭』の特徴でもある。

 宇佐見英治は、現実に多くの死を見てきた。考えてみれば当たり前のことだが、この世には、生きている人間よりも、死んでいる人間のほうが圧倒的に多い。本の良いところは、生きている作者の本と死んでいる作者の本がふつうに並存することだ、と言った人があったような気がするが、本についても、世の中の本をすべて集めれば、すでに死んだひとによって書かれたものが大半を占めることだろう。

 死者に向かって書く。これと同じような言葉を、じつは少なからずの作家が残している。ここ最近、私がしばしば言及する小川国夫もそうだ。私のいまの関心も、あるいは死者に向かって語るひとたちの言葉にあるのかもしれない。

 

 さて、生者の刹那的な「集団的狂気」を刺激することで名前をあげようとする出版物が並ぶいまの書店の本棚を見て、死者へのまなざしを持っていた宇佐見英治なら、いったいなんと言うのだろうか。ぜひとも聞いてみたいものである。

 

(文責 宵野)