ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「優しい海」3(宵野過去作)

 

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 量は変わらないはずなのに、荷物を詰め込むのに難儀したスーツケースを引きずって、昼下がりの道を歩く。あの日、海に飛び込んだときと同じ格好をした彼女は、左耳に波の音を聴きながら、少女の生い立ちを考えようとして、やめた。たとえばいじめを受けていたとして、自分の少女に対する見方が変わることはない、とわかった。少女との関係はあの場所におけるものだった。

 駅を右手に通り過ぎる。駅舎の時計は、二時四十五分を指していた。向かい側から、背中は栗色、おなかは白の柴犬を連れた白髪のおばあさんがゆったりと歩いてきて、プラットホームの端のあたりですれ違った。当初、四時二十分にこの駅を発つ電車に乗って帰る予定で、切符も取ってあった。思えば、帰りの電車を想定していた時点で、すでにして彼女の計画は破綻していたのだ。その切符の払い戻しは、昨日の間に済ませてある。

 ポケットから携帯電話を取り出す。この十日間、ついにダイレクトメール以外のメールが届くことはなく、増えたのは、三百枚を超える写真だけだった。宿の窓から見える早朝の町。部屋の古いテレビ。駐車場の送迎バス。ところどころペンキが剥げた歩道橋。道端の小さな白い花を咲かせた雑草。これは、彼女がこの携帯電話を購入した四年前から総計した写真の、四分の三を優に超える枚数だった。車の通る気配がないことを確認してから、カメラ機能を起動して顔の前に掲げてみる。海と木々と道路と空と雲と、スクリーンには一枚の絵画が、彼女の歩みと共に一枚ずつめくられては現れる。フォーカス機能は、なににも焦点を合わせない。この十日間で通いなれた景色が近づく。木々の切れ間、フォーカスを表す緑色の四角形がスクリーンの真ん中に現れた。崖の先で海の方を眺める少女の後ろ姿。彼女の親指は、シャッターを切っていた。その音が届くはずはなかったが、少女は振り向き、スクリーン越しに彼女をまっすぐ見据えた。彼女は携帯電話をしまい、道路を外れて砂利に踏み出す。スーツケースを引く右手が、右に左に、上に下に、揺さぶられる。背中で手を組んだ少女の表情は、太陽の逆光で見ることは出来なかった。目の前まで近づいて、ようやく目が慣れてきたときには、いままでにもよく見てきた、不機嫌と普通の間にあるような顔をしていた。

「十日だっけ。それにしては荷物、小さいね」

 少女は、なんの変哲もない、どこのスーパーでも売っているような黒いスーツケースをしげしげ眺めた。「触ってもいい?」と訊くと、答えを待たずして両手を腰からすうっとお尻、そしてももの裏へと滑らせながら、スカートの裾を脚にはさみ、右手の真ん中三本の指を、そうっと、スーツケースの表面のひだへと這わせていった。衝撃を緩和するという極めて実利的な目的のためにあるひだが作る溝を、少女の中指が撫ぜていくのを見ていると、彼女は首筋から背筋がぴくんと跳ね、それを悟られまいと下唇を噛んで、鼻から短く息をはいた。

「黒なんて、可愛げないでしょ」

「お姉さんが赤とか持ってきたほうのがらしくないと思うけど」

「ちょっと、それどういう意味」

 少女は顔を上げ、白い歯をのぞかせた。不意の笑顔があまりにもまぶしくて下に逸らした目に、セーラー服と首の隙間からのぞく、少女の胸が入った。無地のスポーツブラのなだらかなふくらみは、彼女がいままでに見てきた女性の胸のなかで、最も魅惑的な危うさをはらんでいた。

「やけに機嫌がいいのね、今日」

「え、そうかな。いや、そうかも。ま、どっちでもいいじゃん」

 少女は屈伸をしてから勢いをつけて立ち上がり、「来て」と彼女の左手をつかんだ。誘われるようにからだが前のめりになり、足が後からついてくる。スーツケースが砂利の上に倒れた音が、耳の後ろをたたいた。少し赤みを帯びた逆光が、再び少女の顔を隠す。崖の前に立つと、正面から吹く風が少女の前髪をさらい、きれいな形の額が、彼女の目を奪った。

「たとえば」

 少女が声を発すると、途端に風が止んで、海の音がしたから聞こえてきた。

「周りの人間がどいつもこいつもガキっぽく見えて、そうかと思えば、今度はどいつもこいつも大人びて見えて、そんな風に感じるひとは、どこに自分を置けばいいんだろう」

 少女は、穏やかな海と澄み渡った空の間のその奥を見つめる。

「みんなが面白いって騒ぐテレビや漫画の、どこが面白いのかわからない。こんなもので笑えるなんて、このひとたちはいったいどれだけ幼稚なんだ。ほかに面白いものを知らないんだろうか。でも、みんなが口々に話す恋や愛の話は、全然わからない。好きな男ができれば、女はきれいになるんだよね、なんて訳知り顔で話すひとが、雲のうえの存在に思えてしかたない。だって、ひとを好きになったことなんて、ないから」

「私はね、二回、男のひとと付き合ったことあるよ」

 振り向いた少女の目は丸い。好奇心半分、失望半分、そんな表情に見えた。それは彼女とて、半分ほど、同じことだった。自分と少女は同類だと、どこかでそんな風に感じて疑わなかったのは、ふたりとも同じだっただろう。

 しかし、彼女はいまの少女の言葉で、なんだかんだいって少女は中学生、自分より十も幼い子で、年相応なところもあるんだ、とわかった。

「ひとりめは、中学生のとき。そうだね、ちょうどいまのあなたの年の頃だったかな。クラスでもおとなしいひとで、そもそも休みがちなうえ、たまに学校に来ても、休み時間になるとすぐにふらっと教室を出ていっちゃうような感じ」

「不思議なひとだね」

 そうだね、と相槌を打ちながら、意識が中学時代に帰っていく。見ないようにしてきた風景は、つらいだけだと思っていたが、そうでもなかった。

「特別顔がよかったとか、そういうのはなかったかな。でも気になって仕方なくて、あるとき教室を出る彼のあとをつけて、校舎の裏で見つかって、いや、本当は最初からばればれだったみたいなんだけどね、それからなりゆきで、そういう関係になった」

 話しながら、ああ、これが淡い記憶というものなんだ、と彼女は思った。いつも一歩前をいく彼の背中を追いかける自分、雨の日、ひとつの傘の下にふたりでしゃがんで、本を読む彼の横顔を盗み見たこと、じめじめした空気と、こめかみにぺたりと張りついた彼のもみあげ、さりげなく近づけて、でも彼の手には届かなかった右手がつかんだ乾いた空気、帰り道、つまずいてとっさに倒れ込んだ彼の胸の固さと、息苦しさを覚える胸の鼓動。どれもこれも、輪郭はおぼろげで、でも、柔らかい温もりがあふれてくる。

「お姉さん」

 少女のいぶかしげな声に、彼女は我に返る。ごめんなさい、ちょっとぼーっとしてた、と謝ると、少女は眉を曇らせた。

「で、そのひととはどれくらい続いたの」

「中学を卒業する一か月前まで。さっきもいったけど、なりゆきで始まったから、どれくらい続いたとか、具体的な期間は私にもわからない。でも終わりだけは、はっきりしてる」

「ふーん。じゃあ、なんで別れたの」

「やっぱり、あなたも気になるのね、そういうの」

 そういうと、少女は眉根を寄せて、苦々しい顔を背けた。少しいじわるだったかな。彼女は密かに思った。

「全部ね、私のせいなの」

 彼女はそういって一歩前に踏み出し、崖の先から空を見上げた。少女が振り返る気配がした。

「中途半端な意志が、私自身をみる自分の目を曇らせた」

 あのときの自分ほど、満ち足りていた時期はなかった。確信をもってそういうことができる。

 卒業が近づくと、思い出作りとばかりに色恋沙汰が増えていく。だれがだれと付き合い始めた、なんてのは序の口、特に女子が三、四人で固まっているところからは、だれとどこまで進んだのかとか、どことなく周りにアピールするようにひそひそと、赤裸々に話す声が聞こえてきた。そのなかで、妙な格付けが作られていった。彼氏がいないよりは、いる方が偉い。下校デートより、休みの日のデートの方が偉い。手をつなぐより、キスをする方が偉い。自宅より、学校でセックスする方が偉い。

「いま考えれば、なんてバカな基準に踊らされたんだ、って思う。でも、やっぱり私も、大人になりたかったのかもしれない」

「そのひととは、そういうことはなかったの」

「数回、手をつないだことはあったけど、それだけ。恥ずかしがり屋とか、初心だとか、そういうんじゃなくて、本当に、それでよかったひとで、それは、私も同じはずだった」

 運命のその日、ふたりで下校しているとき、前を歩く彼を呼び止めて、彼女は唇を突き出して彼に迫った。そのからだが乱暴に跳ね飛ばされ、驚いて彼を見ると、彼は両手を前に突き出して目を大きく見開き、肩で荒い息をしていた。なんで、どうして。そう彼の口から洩れる恐れに震える喘ぎに、彼女の頭は真っ白になった。はっとして彼は、突き出された両手に目を落とし、自分で自分に戸惑うようにして、ごめん、と一言残し、走り去っていった。そのときの彼女に、なにが起こったかを理解することはできなかった。ただ、取り返しのつかないことをしてしまったんだ、ということだけは、いやでもわかってしまった。あれだけ好きだった背中が、遠かった。

「男子はみんな、そういう行為を求めている。でも、自分からするのは恥ずかしいから、女の方からしてくれるのを待ってて、だから、いいタイミングを見計らって、どんどん迫ってあげなきゃいけない。これが恋の駆け引きってやつなんだ」

 教室のなかで、クラス一の人気を誇る男子を捕まえた「最上位」の女子が、いっていたことだった。

「きっと女性誌とか、恋愛指南本の受け売りなんだろうね。でも、そういう一般論に押し込められることこそ、彼が忌避していたものだったはずなのに。そして、それは私もわかっていたはずだったのに、どうしてあのとき、私は、彼もまた、本心では私のからだを求めている、なんて、なんの疑いもなく思っちゃったんだろう」

 それが直接的な原因だったのか、それはわからない。事実、彼はそれ以来、学校に来なくなった。

 みんな進路も決まり、ただ惰性で学校に来続けているだけであったし、元々いてもいなくても変わらないような彼の出欠など、だれも気にしなかった。

 卒業式が終わり、例の「一等」カップルを中心に打ち上げの話が盛り上がる教室をひとり抜け出し、いくつもの逢瀬を重ねた校舎裏で、すべての卒業生が出ていくのを静かに待った。彼と出会ってから始めた読書で時間をつぶし、やがて校舎からひとの声が消える。ため息をついてから立ち上がり、門へと向かうと、正面からやってくる人影に慌てて身を隠した。足音はふたつ。ヒール独特とつんざくような音がひとつ、もうひとつは、耳に心地いい、彼の足音だった。

 彼は、母親とふたり、人気の消えた校舎へと入っていく。お待ちしておりました。担任の声がする。先生、本当に申し訳ありません。高い声が響く。いえ、いいんですよ。よく来てくれました。からだ、大丈夫なのか。その問いへの答えはない。いや、声はなくとも、頷いたのかもしれない。せっかくです、教室でお渡しします。いきましょう。はい、本当にありがとうございます。ヒールの音は、スリッパの音に変わり、革靴の音は、上履きの音に変わって、その音もどんどん遠ざかっていく。彼女は振り返って、彼の名前を呼ぼうとした。そのとき、彼の背中が一瞬だけ見えて、そして角を曲がり、見えなくなった。喉の奥でつっかえた彼の名は、嗚咽になって洩れる。

 本当に終わってしまったんだ。

 西日の陰にうずくまって、卒業式でも最後のホームルームでも涙を流さなかった彼女は、声を押し殺して泣いた。

逃げ込むように駆け込んだ自宅では、母親に赤くなった目を問われた。卒業だと思うと悲しくて、だいたいそんな説明をしたと記憶している。

「やっぱりあなたでも、卒業するのは悲しいのね」

 ひとり得心がいったように頷く母の言葉を訂正する気に、彼女はならなかった。

「そう、あの日、部屋の窓から見た夕日は、ちょうどこんな色をしてた」

 どんなに隠そうとも、俺はいつでもお前の真の姿を照らし出してやるぞ。そんな風に自信満々にまぶしい光を放つどこまでも公正な太陽を忌々しく思いながら、彼女はそこに救いも感じていた。たとえ彼が自分のことを忘れるようなことがあっても、この太陽は、いつだって私を罰してくれる。私は、許されなくて済む。自己満足にもならない。しかし、それにすがるしかない日々が続いたことも事実だった。

「じゃあ、もうひとりのひとは」

 少女からは、慰めの言葉も響きもなかった。それが、彼女にはありがたかった。

「うん、そっちは鮮明に覚えてるよ。大学二年のときだから、っていうのもあるかもだけど」

 でも、少しも楽しくなかった。彼女の言葉に、少女は頷いた。

 クラスの飲み会で、やけにくっついてくる男がいた。明らかに度の過ぎたボディタッチなのに、周りは見て見ぬふり、むしろ、楽しんでいる節すらあった。いま思えば、グルだったのだろう。それも、本人たちは善意のつもりで。

 乗せられるままにお酒を飲ませられ、周りの妙な気の使い方もあって、私は気がつくと、その男とホテルで寝ていた。セックスについては、いやでも周りの話が聞こえてくる。でも、痛いとか気持ちいいとか、そんなものはどちらもうそだった。からだのなかを棒が通る、本当にそれだけのことだった。

 事が済み、彼女は男の胸に強引に抱かれてベッドに横になっていた。きみ、処女だったんだね。てことは、俺が初めての男? 妙に甘ったるい声でささやかれた言葉に、彼女は彼との思い出を汚されたような気がした。

 その男とは、一か月の間に十三回、性交した。その十三回目ののち、教室で顔を合わせることはあっても、話をすることは二度となかった。

「そっちは自然消滅ってことなんだ」

「そもそも、付き合っていたといえるかすら微妙なんだけど。要は、少しも感じない私がつまらなかなったんだと思う」

 そこまで話して、彼女は相手がまだ中学生であったことを思い出した。

「ごめんなさい、ちょっと生々しい話、しちゃって」

「ううん。そんな話、私くらいの年齢だったら、みんなしてるよ」

 なにがおもしろいのかは全然わからないけど。ほかに話すこと、ないのかね。そう吐き捨てる少女に、彼女は、そうだね、と相槌を返した。

「でも、そんなことしてクラスで孤立しなかったの」

「当然。でも、大学のクラスというのは、高校までのとは全然違って、ほとんど名ばかりだから。たいした苦労はなかったな」

「ふーん」

 そういって少女は、そっと崖に腰かけた。前後に揺らした足の下では、橙色の波が打ちつけている。

「私、お姉さんと自分は似た者同士だって思ってた。けど、そうじゃなかった。当たり前だよね、だって、同じ人間じゃないんだから」

それは、たぶん正解。彼女は心のなかで丸をつけた。

「それと、私、この海が好きなの。それは、この子が私のことを優しく抱きとめてくれるからなんだ、って思ってた。でも、これも多分、少し違う。もちろん抱きとめてくれるんだけど、どこか、混ざり合うことは拒む。そんなところがあるからなのかもしれない」

 昨日、私たちひとつになっちゃった。頼んでもいないのに初体験を報告する高校時代の同級生の言葉を思い出す。そんなものはうそだ。人間は、どこまでいってもひとりとひとりに過ぎない。だからこそ惹かれる。そういうものもあるのだ。

 そこまで思って、彼女は自分が全然成長していないことを痛感した。彼との一件で思い知らされたはずのことは、大学、就職、社会のなかで、少しも反省されていない。結局、私は、私の人生になんの責任も持たない他人の指標に踊らされ、勝手に裏切られた気になって、失望して、斜に構えて。

 彼はいま、どうしているだろう。私のことは憎んでいても、忘れてしまっていても、構わない。明るくなくたっていい。でも、ときどきでいいから、ふとした瞬間に笑みをこぼして、そしてとなりに、私がなれなかった、彼を本当の意味で受け入れてくれるひとがいて、静かな時間を過ごしてくれればいい、そんな風に思った。生暖かい涙が、風に流されて舞った。手の甲で目の下を拭い、ひとつ、深呼吸をする。

「じゃあ、確かめにいこうか」

 少女の肩をたたき、その腕をつかんで立たせる。困惑顔の少女が、彼女を見上げる。自分の胸程の背丈の少女に、彼女は微笑みかけて、手をつないだ。崖のへりに立つ。大海原が眼下に広がる。恐怖はない。風も、夕日も、波の音も、すべてが心にすとんと入ってくる。腕を大きく横に広げる。

「ねえ、ちょっと。つま先、出てるよ」

 少女の慌てた声がする。彼女は一瞥して、

「いくよ」

 ぐっとひざを屈めて、地面を蹴った。遅れて、少女のからだも引きずり込まれる。悲鳴とともに、つないだ手が強く握られた。風を切る音がする。夕焼け空を映した海が眼前に迫る。ひとつの波が、ふたりの目の前を通り過ぎていった。いつの間にか、少女の方が下に落ちていた。たなびく髪とスカートの裾が撫でるように顔に当たる。次の波が迫る。少女は彼女のからだを強引に引き寄せ、その腕に抱きついた。彼女はその肩をそっと抱いた。その隙間から、少女は恐怖に慄きながら、海を見つめていた。

 背中に、大きな衝撃が走った。ぼこぼこと、くぐもった音に耳が沈む。どこまでも沈んでいくと思われたからだはやがて浮力を得て、夕焼け空の前に押し出された。苦しそうに咳き込む少女の背中をさすると、少女は恨めしそうに彼女をにらみつけた。

「信じ、られない」

 くらげのかさのように広がったスカートから空気が漏れ、海のなかに沈んでいった。口をとがらせながら仰向けになる少女を真似て、彼女も力を抜き、海のうえに横になった。夕焼けとばかり思っていた空は夜の訪れを受け入れ、半月と、それを取り囲む星々が、冷たく光っていた。

「靴、片方どっかいったんだけど」

「大丈夫、この波が沖まで届けてくれるよ」

「そういう問題じゃないでしょ」

「今度は、私がちゃんと渡してあげる」

「なにそれ」

 少女は笑った。

「ばかみたい」

 湿った服は重く、手足を動かすのにも難儀する。頭も重くなっているように感じる。でも、どこか心地いい気だるさに、からだは揺られていた。

 ポケットから携帯電話を取り出す。海水に浸かった携帯電話は、画面が真っ暗なまま動かない。自動的にクラウドに保存されるようにしてある写真以外、すべてのデータは逝ってしまった。なにやってるの、と少女の呆れ声を聞き流し、彼女は空に向かってレンズを向けた。心のなかでシャッターを切ると、彼女は少しからだを起こし、力の限り、携帯電話を放り投げた。小さく水しぶきを上げ、携帯電話は沈んでいく。この海は、どこまでそれを届けてくれるだろうか。

「あのひとに届くといいね」

 いつの間にか同じ方向を見つめていた少女がつぶやいた。

「届くかな」

「きっと大丈夫だよ」

 少女はきっぱりいい切った。

「だって、この海はやっぱり、こんなにも優しいんだもん」

 夕日に照らされた少女の横顔は、憑き物が落ちたように晴れやかで、彼女はもう一度、シャッターを切った。

 

(終)

 

(個人誌『ただ「一つ」を求めて』にも掲載)