ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「ナイン・ボウリング」3(宵野過去作)

 

www.sogai.net

 

 彼女の知識欲に驚かされ、そして振り回された経験は、一度や二度では済まない。鞄のなかは常にジャンルも内容もばらばらななんらかの書物がつまっているし、運動はそれほど得意ではないのに、突然、野球をやる、とバッティングセンターで一五〇キロの球に二百球ほど相対してみたり、ホールインワンを決める、と、打ちっ放しで空振りを連発したり、スリーポイントシュートを決める、と、幸人を用心棒にして、深夜の公園で延々と、メジャーを持ってきて自分で引いたスリーポイントラインから、ただボールを突き上げるだけのシュートを放ち続けてみたり。

 あの卒業式の日、九十九・九パーセントに絶望しているとつぶやいた彼女がとるそういった行動の数々は、なにかひとつ、この世界のなかで希望を見つけようという模索、ではないらしい。彼女の口にする九十九・九とは一〇〇ではないことを意味する修辞的なものであって、それは、自分はこの世界のすべてを知っているわけではない、という厳しい戒めである。だからこそ、この世界のすべてに絶望するために彼女はこうして、未知の世界にとにかく触れようとする。証拠はおろか、確信もないが、おそらくそうであろう、と幸人は思っている。もっとも、そう思いはじめたのも、つい最近のことである。彼女の表情は、無表情でありながら、同時に、悲愴である。

 二人分合わせて二十三本しか倒せずに一ゲーム目を終えた裕里が、次のゲームに進む操作をするために幸人の前に頭を突っ込んだ。機械を操作してスコアが一新されると、何食わぬ顔で二ゲーム目もひとりで投げ続ける。幸人としても、彼女のこの行動に対して文句はない。これもまた、いつものことだった。

 裕里が二ゲーム目、第七レーンの投球に向かうその背中を見送って、幸人は財布を持って、奥にある自動販売機に向かう。ファンの音がやけに大きく、いやに年季の入った自動販売機だった。当たり前のように、電子マネーとやらには対応していなかった。ここぞとばかりに財布のなかの十円玉を先に使い切ってスポーツドリンクと缶コーヒーを購入している間も、球がレーンに落ちる音は定期的に響いてきた。

 ゴルフのときも野球のときもバスケットボールのときも、近くで見守る幸人が目に入っていないかのように、口を真一文字に結んで黙々とひとつの行動を繰り返す裕里は、たとえそのからだが汗びっしょりになっても、それを拭う気配を見せない。そんなとき幸人は、折を見計らって、タオルとぬるめのスポーツドリンクを裕里の顔の前にちらつかせて意識をひく。そうでもしないと彼女は、全身の汗が冷えて彼女の体温を奪いきるまで、やめそうにない。きまって、裕里は幸人を見上げ、瞬きもせずに十数秒見つめると、きつく閉じられた唇のこわばりがほどけ、ありがと、と一言口にしながら受け取って、タオルに顔を押し当てる。一通り汗を拭いて、ひとくちスポーツドリンクを含むと、ようやく裕里は思い出したかのように息を切らせて、しゃがみこむ。こうなると、裕里はしばらく立ち上がれない。幸人はそのとなりで、彼女のその呼吸が落ち着くまで、コーヒーか紅茶を飲みながら、無言で待つ。

 そんなになるまで、どうして絶望することにこだわるのか。幸人は尋ねたことがない。きっと訊いたところで、裕里自身よくわかっていないのではないか、と思っている。

 最後に釣り銭口に指をつっこんで釣り銭をとって振り返ると、球を胸に抱えて立つ裕里の横顔が、ピンの方へと向かうところだった。違和感を覚えた。こっちを見ていたのか? そう直観された幸人だが、いやそんなことはない。あの状態に入った裕里は、完全に自分の世界に入り込んでいて、それ以外のものは意識の外に追い出される。そんな裕里が、俺のことなど気にするはずがない、と自分の直感を振り払う。ほどなくして裕里はまた三歩踏み出し、さすがに最初よりは幾分かなめらかになった腕の動きから、左のガーターに球を放り込んで、やはり少しも悔しがる様子を見せず、棒立ちで、転がっていく球を見つめていた。

 幸人が戻ってきてもルーティンは乱れない。後番のユキト、その第七フレーム二投目。十本すべてのピンが残った状態で裕里が放った球は、初めてといってもいいほどまっすぐ進み、順繰りと七本のピンを倒した。裕里に喜ぶ素振りは見られない。再び淡々と、ハンドドライヤーで指先を乾かしながら戻ってくる球を待ち、タオルで球の表面についたオイルを拭って、指を入れ、胸の前で構え、バーが上がると同時に左足を踏み出し、投げる。

 先ほどの視線は、やはり気のせいだったのだろうか。缶コーヒーを飲みながら、幸人は、いつのまにか端っこのレーンに来ていた、黒いグローブを付けて、パレットの絵の具をすべてぶちまけて混ぜたような色をした球、棚にはそんな色の球はなかったので、おそらくマイボールであるその球に回転をかけて十本のピンをはじき飛ばしているスーツ姿の男性を、ほお、と眺めてから、ふたりのスコア表の数字に目を戻す。少しずつであるが、倒せるピンは増えていっているようだった。左から順にスコアの推移を眺めていると、ひとつ、大きく数字が変化している箇所があった。ユキトの第五フレーム、その第一投。スコア表には9の文字が刻まれている。その次の投球で残りの一本を倒すことはできなかったようだが、まぐれとはいえ、大きな進歩である。しかし、いったいいつ、このようなことがあったのだろうか。自分はここまでずっと裕里を見ていたつもりだったのだが、見逃していたのだろうか。

 二ゲーム目、最後の投球を終えて振り返りざま、スクリーンのスコア表を見あげた裕里の表情が意外なことに弛緩していて、小さく開いた口からはため息がもれたような気がした。その表情には、記憶があった。

 高校に入って初めての文化祭、その準備に浮かれる教室から抜け出した幸人は、校庭の真ん中にステージを設置するためか、拡声器を使って生徒に指示を与えている文化祭実行委員の男子生徒の声や、金属の骨組みを組み立てるたびに生じるガチャンガチャンという甲高い音を横目に通り過ぎて、静かになれる場所を探していた。

 高校生になれば、つまり義務教育を終えれば、なにかが変わるかもしれない。五つうえの姉があの騒動で家を出たこともあって生まれていた、そんな根拠のない期待は、半年もすれば真逆の失望へと変わっていた。中学校と高校。そう言えば、たしかにまったくべつの世界のようだけれども、周りの人間が、そして自分が、十五歳から十六歳になったところで、そうそう世界は変わったりしない。

 いや、むしろ逆だった。幸人にとって憎々しい部分が巧妙に隠蔽されながら、それゆえに露骨に顕れていくのを感じていた。とくにとりわけ、恋愛関係について。言ってしまえば、中学時代のそれとの違いは、そこに肉体関係の色が濃く出ているかいないか、その程度のものでしかなかった。あるいは高校内のひとつうえの先輩と付き合うことと、別の高校のひとをつかまえることと、大学生のひとと付き合うこと。教室内の秩序では明確に優劣関係がつけられているそれらのものの差異を、幸人は見いだすことができなかった。

 しかし、その中学と高校の唯一の違いが、大きな問題だった。明らかに特権化されたこの肉体関係の話が、おもしろくないし、耳障りだった。日頃は極めて表面的、愚鈍な思考を働かすことしかない者たちが、こと恋愛となると途端に恐るべき推察力、深読み、探偵力を嬉々として働かせるさまは、なるほど、これが世にいう恋の駆け引きか、と感動すら覚えるものだった。当然のことながら、この手の思考力は往々にして決めつけ、つまりそこには恋愛感情を裏付ける証拠があるはずだ、という強固な前提に基づいた推理ゲームに過ぎないものであり、別に駆け引きでもなんでもなく、ただの妄想の押し付け合いなのだった。年頃の男女イコール色恋、と等式で表わすことすら可能な公理、という名の結果ありきのものに過ぎない。

 そういえばあの出来事があるまで、姉には色恋沙汰の気配が一切感じられなかった。姉もまた、そんな根拠はないくせにやたら実体感があるゲームにむりやり参加させられることに辟易としていたのかもしれない。この学校という空間のなかで、姉はどのように生きていたのだろうか。

 文化祭は、この手の色恋沙汰が一気に進展する、学生にとっては、まさしく一大イベント、と呼ぶにふさわしいものである。準備の段階にして、幸人のクラスではすでに二組のカップルが誕生している。その勢いを受けてか、教室は、新たなカップル成立を期待する空気、そして、あわよくば自分がその当事者に、という雰囲気に満ち満ちていた。日頃は、協力なんて言葉とは無縁な男子たちがやけに張り切り、いつもだったら女子の輪のなかですべてを済ませるだけの力と独立心をもった女子たちも満更でもない様子で、男子たちに仕事を任せ、背中から男子の仕事を見守り、ありがと~、頼りになる~、などと、こんなときばかり、求められているか弱き女性像を嬉々として演じて、黄色い声をあげる。そんな男子たちがする仕事とは、目立つ仕事ではあるが、面倒な仕事ではない。仕事とは、その大半が面倒で地味な雑務である。ではそういった雑務はどこに回ってくるか。それは火を見るよりも明らかだった。面倒を押しつけられるくらいなら、嫌われた方がましだと幸人は思っていて、さらにいえば逃げたところで、特に自分は嫌われることすらもないのではないか、と直感していた。

 校舎から一番離れた校庭の端には、体育倉庫がある。その脇は北になり、ほとんど日が当たらずにじめじめしていて、不良のたまり場にも秘密の逢瀬の場にもなりそうにない場所だった。体育の授業がある日に日直にあたったとき、幸人はその場所の存在を知った。しかし、教室から片道で五分はかかる距離では、休み時間の隠れ家として使うにしても不便で、結局、使わずじまいのまま、この日まできてしまった。

 この日、授業は午前で終わり、午後いっぱいが文化祭準備にあてられていた。図書館も、今日は静かに時間をつぶせる場所ではないようだった。かといって、六限終了までは校内にいなくてはならず、かなり時間を持て余していた。いい機会だった。

 通り際、校庭の端に放置されている椅子と机を拝借する。持ち上げたとき、椅子の背もたれががくがく揺れた。捨てられていただけあって、さすがに立て付けが悪い。逆さにして、これまたねじの締まり具合があやしい机に重ねてえっちらおっちら運んでいる姿は、いつもだったら目立つのだろうが、だれもが物を運んでいる非日常の校舎にあっては、なんらお咎めはない。このとき幸人は初めて、文化祭というものに感謝した。

 熱気、活気、元気、青春。そんなものたちを背中の向こうに置き去りにして、幸人は体育倉庫に向かう。土と草の匂いが濃くなってくる。気のせいか、何度か気温が下がったように感じる。ブレザーは腕に掛けてきたが、両手が離せないこの状況ではどうしようもない。はやくこいつを羽織りたい。ぎりぎり白くならない吐息を見あげながら考えていたのは、そんなことだけだった。

 体育倉庫の角を曲がったときになっても、幸人はその可能性を一考だにしていなかった。つまり、まさか自分と同じことを考えているひとがこの学校にいるなどと、思いも寄らなかった。その女子生徒は、文庫本から顔をあげて幸人をまっすぐ見据える。見るだけで、なにも言わない。ついに幸人の方が根負けした。お邪魔しました。どうして? 踵を返しかけた幸人を、女子生徒は呼び止める。いればいいじゃないですか、スペースあるんですし。いや、だってきみの方が先にいたんだしさ。べつにここ、早い者勝ちってわけでもありませんよ。ここ数日、黄色い声の女子に耳が慣れてしまっていたこともあって、この女子生徒のつまらなそうな声色は、かなり新鮮だった。タイの色を見ると、幸人と同じ色だった。同学年か、まさか自分以外にこんなことを考えている生徒がいるとは。幸人は妙な感心をしていた。

 まあ、そう言うのならば、じゃあ遠慮なく。幸人は一歩奥に入って、机を下ろし、椅子をひっくり返し、ブレザーを羽織ってから座った。壁際でなければ、思っていたよりは日が当たる。ポケットから携帯電話を出してソリティアを起動していると、側頭部に視線を感じて顔を上げた。なんですか。最初の姿勢のまま幸人を見つめる女子生徒に、ややきつめに問いかける。しかし、女子生徒は少しもひるんだ様子はなく、最初は遠慮したくせに随分あっけらかんとしてますね、と、皮肉といった感じではなく、ただ疑問点を挙げているような口調で言った。だって、あなたがいいって言ったじゃないですか。すると女子生徒は小首を傾げて斜め上を見るようにしてから、顔を戻して、それもそうですね、とぽつりつぶやくと読書へと戻っていった。

 ゲームを開始する。開かれた札に、赤の4が二枚、赤の3が二枚、そして小さい数ばかりが並ぶ。これは無理だ。思わず口をついて出た声に、女子生徒は微動だにしなかった。いちおう山札をすべて開いて、数枚は進めることができたが、すぐに行き詰まる。新しいゲームを始めると、今度は見込みのある形だった。

 何度か電池のなくなる警告の画面をやり過ごして、ついに突然画面が真っ黒になり、幸人は携帯電話を閉じた。太陽は傾き、肌寒さが増したようだった。折良く、六限終了のチャイムが響き渡る。終礼は済んでいて、教室に戻ることなくこのまま下校することができる。チャイムの余韻が消えると、ぱたん、と本を閉じる音がすぐ傍から聞えてきた。かすかな音だが、チャイムの音よりもからだの芯に届いてくる音だった。あれから一度も言葉を交わさなかった女子生徒は、なにを思ったのか、空を見あげる。晴れとも曇りともつかない秋空。瞬きもせずに数秒見つめ、ふとため息をもらし、肩肘がゆっくり上下した。その一瞬、目元は緩み、頬はあがった、ような気がした。柔らかい表情、というよりは弛緩した表情に、幸人は小さな胸のざわめきを覚えた。

 横顔が、くるりと幸人を向いた。もうあの弛緩した表情ではなかった。あれは見間違いだったろうか、と思うほどだった。帰るの? そう尋ねられて、幸人ははじめて、自分が鞄を肩に掛けて立ち上がっているのに気づいた。机、置いていっちゃっていいんじゃないですか、どうせ校庭の脇で拾ったものでしょう? 捨てられていたようなものですし。その口ぶりからすると、女子生徒の机といすも、どこかで拾ってきたものなのだろう。きみはいままで、どうしてたの? いままで? 女子生徒は無表情のまま首を傾げた。質問の仕方が悪かった、と思ったが、その直前に女子生徒は得心したようで、ああ、と頷く。私、ここにきたの、今日が初めてですよ。え、今日? はい、まさか私以外にこんな場所に目をつけているひとがいるだなんて、思いも寄りませんでした。驚きです。しかし、表情を一切変えずにいうので、その驚きとやらがまったく伝わってこない。本当に驚いているのですか? まあ、多分。曖昧な返事だった。

 じゃあ俺、帰りますけど。女子生徒に立ち上がる気配はない。無言で鞄から二冊目の本を取り出した。今度は文庫本ではなくてなにやら大きな本で、よく見ると、メタリックの表紙のギネスブックだった。小学生の頃、自分も好きで読んでいた記憶がある。その本には学校の図書館のコードが貼ってあった。この高校の図書室にも、そんな本が置いてあったのか。

 私はもう少しここにいますので。分厚いその本を机に置くと、ガコン、と大きな音が鳴った。適当なページを開いた女子生徒に、幸人は、もう暗くなりますよ、ここ明かりないし、と声をかけた。すると、女子生徒はポケットからペンを取り出した。親指でノックすると、一筋の閃光が、幸人の脇を抜けていく。そういうことですので、といわんばかりの目つきで幸人を見ると、女子生徒は顔の横にペンライトを掲げて本を照らした。そこまでするか。そう感じたことを、幸人はよく覚えている。

 あ、ひとつだけいいですか。鞄を担ぎ直した幸人の胸あたりにペンライトを当てて、女子生徒は言った。なんですか。さっきまであなたがやっていたそれ、なんていうゲームですか。ソリティア、ですけど。ソリティア。女子生徒は、右斜め上を見ながら、口のなかでソリティアを繰り返す。なるほど、ありがとうございました。はあ。

 それきり読書に戻ってしまい、それ以上話が広がる気配はなく、もう幸人には目もくれない。では、僕はもう行きますけど、本格的に暗くなる前に帰った方がいいですよ。なんで自分はこんなお節介を言っているのだろう、と幸人は我ながら不思議だった。返事は期待していなかったが、背中に声が掛けられた。また会うときがあれば会いましょう。

(続く)