ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「ナイン・ボウリング」4(宵野過去作)

 

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 そんな昔の話、よく覚えているね、笠松くん。空になったジョッキを手持ち無沙汰にもてあそぶ裕里は、少なくとも表面上はいつもと変わらない調子で言った。幸人は枝豆をつまみながら、まさかこんな話をすることになるとはなあ、とこぼした。この日、裕里が幸人の大学のキャンパスの最寄り駅まできていた。六限という、夕食の時間をまたいだ時間にある講義を残している幸人から学生証を拝借して図書館に侵入した裕里は、幸人の講義が終わる頃、借りたい本あるから、講義が終わったら、図書館の前まで来て、とメッセージをよこしてきた。

 早足で向かう。入り口の前で壁に背中をもたれていた裕里は、お願い、と棚番号と書名が十二個並んだ紙と幸人の学生証を渡す。慣れたやりとりだった。入館は、学生証を機械に通すだけなので学生証さえあればだれでも通れる。それでも貸出のときには司書のひとに学生証を手渡さなければならない。顔写真がついているため、さすがにこのときには本人でなければいけない。座敷のこの居酒屋で、十二冊の本が入った麻の手提げ袋が、裕里の脇に横たわっている。その手提げは、幸人がべつの大学の説明会に行ったときにもらった、資料の入った袋だった。もういらないから、と姉からもらった本のことを話すと、裕里が欲しがったので、幸人はこの袋に入れて渡した。それ以来、裕里のものになった。軽いし丸められるし、学校のロゴも目立たなくて、使い勝手がいいから、と裕里は言っている。一週間後、幸人はこの十二冊の貸出延長の手続きをすることになることを知っている。

 一週間のど真ん中、加えて始まりの時刻が遅かったこともあって、お互いにできあがって来た頃には、周りにはほとんどほかの客がいなくなっていた。遠くの個室からは酔っ払いの男女の集まりのだみ声や嬌声がくぐもって聞こえてきていた。幸人の大学の、なにかのサークルのようだった。

 眠気を抑えられなくなってきた幸人は、裕里の言葉に曖昧な相槌を打つ。そりゃあ忘れないよ、あんな出会い方は。幸人が最後のひとくち分のハイボールをぐっとあおる。ジョッキを置くタイミングで、裕里は無言で飲み物のメニューを向けてくる。幸人がメニューを流し読みしているあいだ、裕里は片手で器用に箸を使ってたこわさを食べていた。ジンジャーハイボール。ん。裕里はメニューを受け取りながらからだを斜めに倒して手を伸ばす。すいません。はーい、ただいまー。明るい女性の声がきんと響く。早足でやってきたエプロン姿の店員に、ジンジャーハイボールふたつ、お願いします、と裕里は告げる。はい、かしこまりましたー、空いているジョッキ、おさげしまーす。裕里が幸人の分まで店員に渡すと、では、少々お待ちくださーい、と最後まで元気よく下がっていった。小野峰もか。うん、なんとなくね、あればクエン酸ハイボールがよかったんだけど。小野峰にも、疲れるようなことがあるのか。まあ、そうかも、そういうつもりじゃなかったんだけど。ふーん、そうか。うん。

 幸人と裕里は、ほとんど週に一回、少なくとも二週間以上の間を空けることなく、このようにしてなんらかのかたちで顔を合わせていた。幸人も裕里も、お互いにアルバイトをしている。週に二日から三日入れているシフト。しかし、ふたりのどちらかが相手を誘うとき、不思議とお互い、予定がかぶらない。来週の夜、レイトショー行こう。うん、わかった。明後日、昼食付き合って。いいよ。夜、急に暇になったんだけど。私もいま暇、うちまできて。

 ひとり暮らしをしている裕里の部屋に、幸人は何度か入ったことがある。

 大学生にとっての春とは新入生歓迎、いわゆる新歓の時期である。各サークルは、新入生の獲得に躍起となって、キャンパスではビラを配り、さかんに新歓の飲み会を開く。その費用は、ほとんどが現サークル員が支払う。在学生でありながらただ飯にありつくことだけを目的として、いくつものサークルの新歓を練り歩く者もいるくらいだ。二年生になったふたりはそれぞれ、どのサークルにも所属していなかった。裕里は、最初にいくつものサークルに顔を出していたらしいが、やがてすべてフェードアウトし、幸人はひとつ、運動系のサークルに入っていたが、後期の会費を払いに行かなかったために、おのずと除籍された。そんなふたりにとってこの時期とは、周りの飲み屋がうるさくなる、はなはだ迷惑な期間でしかなかった。

 ちょっと遠くまで出るか。街中に広がる喧噪を睥睨しながら幸人がこぼすと、じゃあ笠松くん、うちにくる? と裕里の方から提案してきた。裕里が、実家からも通える距離でありながら、ひとり暮らしをしていることは知っていた。いいのか? その言葉は寸前で止まった。じゃあ俺がお酒買うよ。うん、お願い。裕里は頷いた。いつもより騒がしい電車のなかで、ふたりはお互いに無言だった。

 駅近くのドラッグストアで、どちらかといえば老け顔、少なくとも実年齢より下に見られたことはない顔の幸人が年齢確認を受けることなくお酒を適当に買って、駅から徒歩十二分、裕里が住むらしいアパートに向かった。ふたりはまだ十九歳だった。道中、裕里に変わった様子はなかった。だんだんと人気がなくなるにつれて、ふたりの沈黙が縁取られていくようだった。

 思っていたよりも大きいアパートだった。人気は不思議となく、廊下の蛍光灯も心なしか薄暗い。背中に鳥肌が立ったようだった。ちょっと待ってて。先に裕里ひとりだけ部屋に入り、幸人は玄関の扉の前で待たされる。ものの数分で扉は開いて、顔をのぞかせた裕里は、どうぞ、と幸人を部屋のなかに招き入れた。もう少しは待たされると思っていた幸人は、不意を突かれたような反応になった。

 生まれて初めて入った同年代の女性の部屋は、よく言われるような、花だったり柑橘系だったりといったようないい匂い、というものではなく、玄関は炭、なかは素朴な石鹸のような香りだった。ドラッグストアで三百円くらいで売っている消臭剤が横目に見えた。お酒を買ったあのドラッグストアで買ったものだろうか。

 白を基調とした質素な部屋には、壁に張り物が一切されておらず、ベッド、勉強机、本棚、四角い食卓があるだけだった。テレビはないんだな。そう訊くと、映画ならパソコンで観られるでしょ、とこともなげに答えた。机や床には、本やプリント類が雑多に積まれていた。足の踏み場がない、というほどではないが、整理整頓がされている、とも言い難い。それにしても、幸人を玄関で待たせたのは、部屋の片付けをするためではなかったのだろうか。それとも、これでもいちおう掃除はしたのだろうか。

 洗面所を借りて手を洗う。脇にはタオルがかかっている。幸人は、後ろのポケットからハンカチを出して、手を拭いた。

 適当なところに座って、と裕里は台所でなにやらかちゃかちゃ食器を出しながらいった。幸人は床に腰を下ろす。春になったといえども、夜はまだ冷える。フローリングに手をつくと、腕にぶわあっと鳥肌が立った。足の先もかじかんでくる。ふたつのコップを持ってきた裕里は、ひとつを幸人の前、もうひとつをその向かい側に置くと、いまお湯温めているけど、紅茶でいい? と尋ねた。これから酒飲むのにか? と訊くと、時間はあるんだし、飲み屋のまえに喫茶店に入ったときのような感じでね、と裕里は蹴飛ばしてしまった足許のプリント類に顔をしかめると、それを一瞥してうえからわしづかみにして、部屋の角に置かれていた四十五リットルのゴミ袋に放り込んだ。大丈夫なのか、捨てちゃって。うん、べつに。幸人が手持ち無沙汰で手のひらをこすって、はあ、と湿った息をあてていると、もしかして寒い? と裕里はガスストーブを引っ張ってきた。あれは使わないのか、と幸人がエアコンを指さすと、エアコンの空気は嫌い、とにべもない返事。たしかに、そのコンセントの元は抜かれていた。ぼうっと小さな破裂音がすると、足許から炎の暖かさが登ってきた。

 紅茶のティーバッグをぽんと入れると、裕里は小さなやかんの口からお湯を注ぐ。ひとり暮らしって、金かかるんだろ。まあ、ね。でも仕送りもらってるし、そんなにお金使う用事もないから、バイトの分だけで苦労はないかな。ちなみにここ、家賃六万円。それが高いのか安いのか、自分の感覚からも裕里の表情からもわからない幸人は曖昧に頷いて、ティーバッグを取り出して熱湯に近い紅茶をすすった。ほとんど飲めない。幸人が出したティーバッグを裕里は取って、自分のカップに入れた。本当にいつも通りなら、ここからお酒にたどり着くまでには二時間を要するであろう。そして、幸人の予感は的中するのだった。

 店員が元気に持ってきたジンジャーハイボールをもらうやいなやひとくち口に入れてからジョッキを置いた裕里は、でも笠松くん、大丈夫? あなた、もうけっこう飲んでいるけど、いつも酔うと寝ちゃうじゃない。私、こんな大きいの、連れては帰れないからね。先ほど半分寝かかっていた幸人はそれを無視して、目の前のジョッキに浮かぶ氷を指でつついている。ふたりのうち、お酒が好きなのは幸人のほうだが、強いのは、どちらかといえば裕里だった。がぶ飲みをするわけではないが、淡々としたペースでお酒を消化していく裕里に引っ張られて、幸人がつぶれた回数は少なくない。その一回目が、初めて裕里の部屋で飲んだあの日だった。こんなところでまた甘えられても困るから。いやみを込められたその言葉に、幸人はなにも返せない。

 そこに至ってしまうまでのことは、記憶にはない。まどろみに目を開けると、幸人は裕里のもものうえで寝ていた。目に入る床には、数本の缶ビール、缶チューハイ、角ハイの空き瓶、炭酸水のペットボトルが転がっている。起き上がろうとするが、からだが気だるく、顔の向きを変える程度のことしかできなかった。かけられていた毛布が落ちる。裕里は文庫本を読んでいた。おはよう。目は本に向けたまま、裕里はつぶやくようにいった。幸人はもう一度頭を起こそうと試みるが、途端にこめかみに鈍い痛みが走り、頭は裕里のももに戻る。ここまでの二日酔いは初めてのことだった。ごめん。幸人の声は、しゃがれた声になっていた。いいよ。裕里は本を見たまま、つぶやいた。

 いま、何時? 五時半、ちょっと過ぎたところ。笠松くん、あなた今日どうするの? 講義、あるんじゃないの? あー。間延びした声を出しながら、幸人は今日が何曜日か必死に考える。頭のなかでは歯車が外れ、からからと空回りしている音がする。なんとかして、ようやく今日が木曜日であることを思い出し、同時にふたつの講義の存在も明らかになる。欠席の回数の計算も、億劫だった。結局、その計算は途中であきらめ、今日は切るよ、と形だけ悩んだふりをした幸人に、そう、じゃあ私もそうする、と裕里はひとつ、頁をめくった。

 小野峰も講義、さぼったりするんだな。裕里の腕の間から裕里の顔を見あげると、裕里は幸人を一瞥して、初めてだよ、とこともなげに言った。私、寝てないの、だれかさんのせいで。だから、こんな状態で講義にいっても間違いなく寝ちゃう。仕方ないでしょ。言葉面のわりに幸人を責める口調ではなかったが、思わず幸人は、ごめん、と謝る。だから、いいって。

 しばしの沈黙ののち、裕里は栞をはさんで本を閉じる。それにしても、笠松くん。裕里は、いまだ自分のもものうえに横たわる幸人を見下ろした。ずっと離してくれないけど、ももって、そんなにいいものなの?

 裕里の目線が、幸人の目から少し上にそれる。幸人は目の動きだけでそれを追う。幸人の手のひらは、裕里のももを抱えていた。比較的痩せていて、肉が少ない、と思っていた裕里のからだだったが、幸人の手のひらは裕里のももに少し沈み込んでいる。柔らかい、というより温かい、といった感覚の後に、いいかげん、幸人の目が醒める。裕里の脚から飛び退き、言い訳の言葉も出ず、ただ、悪い、と謝る幸人に、裕里は音もなく立ち上がり、水、持ってくるね、と台所に向かっていった。

 ひとり残された幸人は、いまさらながらに周りを見回す。幸人が座っていた記憶のある場所の周囲に散らばっている空き缶や空き瓶は、机を挟んで反対側の方にはほとんどなかった。代わりに、あの大きなゴミ袋が置いてある。自分の分だけ片づけたのだろうか。それとも、幸人の方を片づける間もなく、足がふさがれてしまったのだろうか。幸人はそこで、考えるのをやめた。

 壁にはベージュの本棚がある。五段ある棚にはぎっしりと本が詰め込まれていて、立てた本のうえには文庫本が無理やり寝かされて入れてある。それでも入りきらないのだろう、その手前の床には、ずいぶん乱雑に積まれた本の塔が六つある。インテリアの類いのものはなく、ここに未開封の段ボールが数箱でもあれば、引っ越ししてきたばかりの部屋、と言われてもなんの疑問も抱かない。かりそめの宿。幸人には唐突に、そんなイメージが浮かんできた。地に足ついた住処、とは感じられない。生活感がない、というのとは少し違う。こだわりがなかった。生活はしているのだろうが、生きている感じがない。そんな印象を受けた。それは、窓から入ってくるこのぼんやりとした水色の薄明かりのせいなのだろうか。

 裕里は、大きいペットボトルとコップを持ってきた。ミネラルウォーター? 注いでくれるその横顔に尋ねると、ううん、水道水を冷やしておいただけ、と裕里はコップなみなみまで注いで、幸人にすべらせた。

 感謝の言葉を口にしながらきんきんに冷えた水を飲んでいると、今度、教えてね。脚のどこがいいのか、と裕里は幸人の顔を少しのぞき込むようにして言う。どうしてさ。少しむせながら聞き返す幸人に対し、裕里は残りの空き缶をゴミ袋に放り込みながら言った。知りたいから。

 

(続く)